【丑寅は静かに嗤う~酩酊】
文字数 2,730文字
「猿田さんがあんなこというからじゃないですかぁ!」
今までは見られなかった打ち解けたような桃川のものいいが酒場にこだまする。いつもブスッとしている猿田も珍しく声を上げて笑い、
「いやぁ、悪い悪い。でも、アンタがこんな話せるヤツだとは思わなかった」
ふたりの前には徳利ひとつとお猪口がふたつ。女主人の「お馬」は、
「ふたりとも、ちょいと飲み過ぎじゃないのかい? もう五人分は空けてるよ」
「いいじゃないですかぁ。わたしだってねぇ、たまには飲みたい気分なんですよぉ」桃川。
「まぁ、そういうワケだ。もう一本頼むよ」
朗らかな口調で猿田がいうと、お馬は仕方ないといった様子で店の奥へと潜っていく。お馬が店の奥へ下がるのを確認すると、猿田は神妙な面持ちで桃川に訊ねる。
「しかし、そんな酔って、艮顕様やお京さんのほうは大丈夫なのか?」
「お京ぉ? いいんですよぉ、あんな人別にぃ! あんな、人違いで怒ってぇ!」
猿田が声を上げて笑う。
「そうだったな。にしても、昔の知り合いが迷惑を掛けてしまって、申し訳ない」
「そうです! そこなんですよぉ! 猿田さん、あのお雉という夜鷹とお知り合いとのことですけど、一体、どういう関係なんですか?」
猿田の顔に影が射す。まるで、訊いてはいけないことを訊かれたように、黙り込んでしまったかと思うと、静かに口を開く。
「……まぁ、昔の常連、といったところかな」
「なるほどぉ。しかし、いくつか気になることがあるんですよねぇ」
「気になること?」
「えぇ……」
「……何だ、いってみろよ」
「えぇ、ではそのーー」酒で淀んだ桃川の視線が突然研ぎ澄ました刃のように鋭くなる。「ナントカ屋っていうのは、何なんです?」
まるで、これまでの酔い方がウソのように、桃川は鋭い口調で訊ねる。猿田は無表情。
「別に、話せなければ話さなくてもいいんです。わたしも人にいえないようなことはたくさんやって来ましたから」
猿田の眉間にシワが寄る。何かを問うようにして、猿田は桃川を見る。
「それにあのお雉さんだ。長年、夜鷹をやっていたにしては身なりがキレイ過ぎる」
「……まぁ、それは人には色々あるからな。お雉も金に困って夜鷹を始めたんだろう」
「しかし、あの時、猿田さんは『まだ』といいましたよ。数年ぶりに出会って『まだこんなケチ臭い仕事を』というということは、その前からも常習的にその仕事をやっていた。そうとしか、考えられませんね」
桃川は酒をひと口呷る。
「……何がいいたい?」
「わたしもアナタもワケありの武士、ということでしょうか。こんな隠れ里のような小さな村に身を潜め、息を殺しながら平穏無事に生きることを望んでいる。もし、よければ、話を聴かせてもらえないでしょうか。多分、わたしなら、力になれるかもしれませんから」
が、猿田は不敵に笑みを浮かべるばかりで、何も話そうとはしない。ため息をつく桃川ーー
「記憶さえあれば、どんなにいいことか。自分が何処の誰で、何があってここまで流れ着いて来たのか。それを詳しくお話できれば、まだアナタの反応も違ったでしょう」
猿田は桃川から目を逸らしたままお猪口の中で揺れる酒の表面を眺めている。
「……ただ、何となく、芝居のひと場面のように、浮かんでくる景色があるんです」
桃川の告白で、猿田の眉間に刻まれたシワが更に深くなる。
「夜の屋敷、縁側、小さな娘……、男は斬られ、女は弄ばれる。そんな場面がわたしの頭にこびりついて離れない。真相がどういうことなのか、わかるのは闇に葬られた記憶だけ。でも、もしかしたら、お雉さんのいう通り、今が幸せならば過去など忘れてしまったほうがいいのかもしれませんね……。可笑しなことをお訊きして、面目ない」
「……いや、それは別に。ただ、すべてを忘れているワケではないのか」
「えぇ、断片的で、殆ど覚えてないですが」
猿田は何かを考え込んでいる。
「……何か、気になることでも?」
「……いや、ならいいんだ。でも、おれはアンタが羨ましいよ」
「羨ましい、ですか」
「あぁ。おれもこの村に来て、何もかもを忘れようと思った。でも、一度背負った業は、生涯そいつの背中から降りようとはしない。だから、不謹慎だが、アンタみたいにすべてを忘れられれば、と思っただけだ」
「なるほど、そういうことでしたか」
「あぁ。おれも人に褒められた人生を歩んだワケじゃない。人並みに自惚れ、人並みに人を小バカにしてきた。そして人よりーー」
桃川は澄んだ目を半開きにして、猿田の話に耳を澄ませている。
「……どうしました?」
「……いや、何でもない。桃川さん、今から話すことは大っぴらには話さないで欲しい。おれとアンタ、ふたりだけの話として墓場まで持っていって欲しい。いいか?」
桃川は静かに頷く。
「そうか、ありがとう。じゃあーー」猿田は呼吸を整える。「……アンタが耳にしたあのナントカ屋っていうのはーー」
「おぉう、何だい。男ふたりで楽しそうにやっちゃって、おれも仲間に入れてくれよ」
そういって割り込んで来たのは、犬蔵。薄汚れた纏いに、ややふくよかな体つき。髷は結っているが、頭頂部は剃っていない。猿田は胡散臭いモノを見るようにしていうーー
「……アンタ、ここ最近村に出入りしている流れ者の商人だな。名前はーー」
「犬蔵でござんす。それより、兄さんたち、いつの間にそんな仲良くなったんですか。羨ましい限りで」桃川の隣に腰掛ける犬蔵。「良かったら、おれも一緒にーー」
「アンタ、商人だよな」猿田は訊く。「商売の品はどこから卸してるんだ?」
「そりゃあ、秘密ですぜ。といいたいところですが、特別にお教えしますとね。おれはこう見えて、顔が広いんだ。江戸の職人とも仲良くやってて、そこから品を卸して貰ってる。旅立つ時には紹介状を書いて貰って、それを他の街の職人に見せて、品を卸して貰う。そういうことで。証拠ならちゃんと、ここにーー」
そういって、犬蔵は懐から職人の紹介状をいくつか取り出し、台の上に置いた。
「どうですかな? 猿の兄貴」
犬蔵の猿田を見る目は挑戦的。猿田はーー
「そうだったか。疑って済まなかった」
「いえいえ、商売柄、そういわれるのもしょっちゅうでして」そういう犬蔵はどこかつまらなそう。「疑われるのも無理ないんで。にしても、女将さんはーー?」
「そういえば、遅いですね……」桃川。
「大変だ!」急な叫びと共にお馬が店内に戻った来る。「アンタたち、早く逃げるんだよ!」
「何があったんです!?」桃川はいう。
「仮面を被った野武士が、村を襲撃し始めたんだよ!」
犬蔵の顔には焦燥感。桃川は驚嘆、猿田は冷静さを失うことなく、静かに目を光らせる。
【続く】
今までは見られなかった打ち解けたような桃川のものいいが酒場にこだまする。いつもブスッとしている猿田も珍しく声を上げて笑い、
「いやぁ、悪い悪い。でも、アンタがこんな話せるヤツだとは思わなかった」
ふたりの前には徳利ひとつとお猪口がふたつ。女主人の「お馬」は、
「ふたりとも、ちょいと飲み過ぎじゃないのかい? もう五人分は空けてるよ」
「いいじゃないですかぁ。わたしだってねぇ、たまには飲みたい気分なんですよぉ」桃川。
「まぁ、そういうワケだ。もう一本頼むよ」
朗らかな口調で猿田がいうと、お馬は仕方ないといった様子で店の奥へと潜っていく。お馬が店の奥へ下がるのを確認すると、猿田は神妙な面持ちで桃川に訊ねる。
「しかし、そんな酔って、艮顕様やお京さんのほうは大丈夫なのか?」
「お京ぉ? いいんですよぉ、あんな人別にぃ! あんな、人違いで怒ってぇ!」
猿田が声を上げて笑う。
「そうだったな。にしても、昔の知り合いが迷惑を掛けてしまって、申し訳ない」
「そうです! そこなんですよぉ! 猿田さん、あのお雉という夜鷹とお知り合いとのことですけど、一体、どういう関係なんですか?」
猿田の顔に影が射す。まるで、訊いてはいけないことを訊かれたように、黙り込んでしまったかと思うと、静かに口を開く。
「……まぁ、昔の常連、といったところかな」
「なるほどぉ。しかし、いくつか気になることがあるんですよねぇ」
「気になること?」
「えぇ……」
「……何だ、いってみろよ」
「えぇ、ではそのーー」酒で淀んだ桃川の視線が突然研ぎ澄ました刃のように鋭くなる。「ナントカ屋っていうのは、何なんです?」
まるで、これまでの酔い方がウソのように、桃川は鋭い口調で訊ねる。猿田は無表情。
「別に、話せなければ話さなくてもいいんです。わたしも人にいえないようなことはたくさんやって来ましたから」
猿田の眉間にシワが寄る。何かを問うようにして、猿田は桃川を見る。
「それにあのお雉さんだ。長年、夜鷹をやっていたにしては身なりがキレイ過ぎる」
「……まぁ、それは人には色々あるからな。お雉も金に困って夜鷹を始めたんだろう」
「しかし、あの時、猿田さんは『まだ』といいましたよ。数年ぶりに出会って『まだこんなケチ臭い仕事を』というということは、その前からも常習的にその仕事をやっていた。そうとしか、考えられませんね」
桃川は酒をひと口呷る。
「……何がいいたい?」
「わたしもアナタもワケありの武士、ということでしょうか。こんな隠れ里のような小さな村に身を潜め、息を殺しながら平穏無事に生きることを望んでいる。もし、よければ、話を聴かせてもらえないでしょうか。多分、わたしなら、力になれるかもしれませんから」
が、猿田は不敵に笑みを浮かべるばかりで、何も話そうとはしない。ため息をつく桃川ーー
「記憶さえあれば、どんなにいいことか。自分が何処の誰で、何があってここまで流れ着いて来たのか。それを詳しくお話できれば、まだアナタの反応も違ったでしょう」
猿田は桃川から目を逸らしたままお猪口の中で揺れる酒の表面を眺めている。
「……ただ、何となく、芝居のひと場面のように、浮かんでくる景色があるんです」
桃川の告白で、猿田の眉間に刻まれたシワが更に深くなる。
「夜の屋敷、縁側、小さな娘……、男は斬られ、女は弄ばれる。そんな場面がわたしの頭にこびりついて離れない。真相がどういうことなのか、わかるのは闇に葬られた記憶だけ。でも、もしかしたら、お雉さんのいう通り、今が幸せならば過去など忘れてしまったほうがいいのかもしれませんね……。可笑しなことをお訊きして、面目ない」
「……いや、それは別に。ただ、すべてを忘れているワケではないのか」
「えぇ、断片的で、殆ど覚えてないですが」
猿田は何かを考え込んでいる。
「……何か、気になることでも?」
「……いや、ならいいんだ。でも、おれはアンタが羨ましいよ」
「羨ましい、ですか」
「あぁ。おれもこの村に来て、何もかもを忘れようと思った。でも、一度背負った業は、生涯そいつの背中から降りようとはしない。だから、不謹慎だが、アンタみたいにすべてを忘れられれば、と思っただけだ」
「なるほど、そういうことでしたか」
「あぁ。おれも人に褒められた人生を歩んだワケじゃない。人並みに自惚れ、人並みに人を小バカにしてきた。そして人よりーー」
桃川は澄んだ目を半開きにして、猿田の話に耳を澄ませている。
「……どうしました?」
「……いや、何でもない。桃川さん、今から話すことは大っぴらには話さないで欲しい。おれとアンタ、ふたりだけの話として墓場まで持っていって欲しい。いいか?」
桃川は静かに頷く。
「そうか、ありがとう。じゃあーー」猿田は呼吸を整える。「……アンタが耳にしたあのナントカ屋っていうのはーー」
「おぉう、何だい。男ふたりで楽しそうにやっちゃって、おれも仲間に入れてくれよ」
そういって割り込んで来たのは、犬蔵。薄汚れた纏いに、ややふくよかな体つき。髷は結っているが、頭頂部は剃っていない。猿田は胡散臭いモノを見るようにしていうーー
「……アンタ、ここ最近村に出入りしている流れ者の商人だな。名前はーー」
「犬蔵でござんす。それより、兄さんたち、いつの間にそんな仲良くなったんですか。羨ましい限りで」桃川の隣に腰掛ける犬蔵。「良かったら、おれも一緒にーー」
「アンタ、商人だよな」猿田は訊く。「商売の品はどこから卸してるんだ?」
「そりゃあ、秘密ですぜ。といいたいところですが、特別にお教えしますとね。おれはこう見えて、顔が広いんだ。江戸の職人とも仲良くやってて、そこから品を卸して貰ってる。旅立つ時には紹介状を書いて貰って、それを他の街の職人に見せて、品を卸して貰う。そういうことで。証拠ならちゃんと、ここにーー」
そういって、犬蔵は懐から職人の紹介状をいくつか取り出し、台の上に置いた。
「どうですかな? 猿の兄貴」
犬蔵の猿田を見る目は挑戦的。猿田はーー
「そうだったか。疑って済まなかった」
「いえいえ、商売柄、そういわれるのもしょっちゅうでして」そういう犬蔵はどこかつまらなそう。「疑われるのも無理ないんで。にしても、女将さんはーー?」
「そういえば、遅いですね……」桃川。
「大変だ!」急な叫びと共にお馬が店内に戻った来る。「アンタたち、早く逃げるんだよ!」
「何があったんです!?」桃川はいう。
「仮面を被った野武士が、村を襲撃し始めたんだよ!」
犬蔵の顔には焦燥感。桃川は驚嘆、猿田は冷静さを失うことなく、静かに目を光らせる。
【続く】