【明日、白夜になる前に~四~】

文字数 2,889文字

「……くん。お……、さ……う」

 うっすらとそんな声が聴こえてくる。神々しいというか、忌々しいというか、出来ることなら余り聴きたくない声。

 ぼくは闇の中ーーいや、曇り空の下、生い茂る草むらのど真ん中で顔の見えない見知らぬ女性とフレンチキスをしている最中だ。

 紅く妖艶な唇がぼくのすぐ目の前にある。ぼくはそれにむしゃぶりつく。身体をまさぐる。白い衣服。ひとめ見て看護師のモノとわかる。

 だが、その顔はわからない。とはいえ、その人が美人なのは感覚でわかる。引き締まった腰元に大きなお尻、大きすぎず、小さすぎない控え目な胸、断崖のように切り立った頬と小さな顔。髪は黒のボブ。身長は女性の平均よりは少し高いくらい。こんな女性がーー

「……いとうくん!」

 うるさいなぁ。ぼくは思わず口走る。が、彼女は何ひとつ文句をいうことはない。ただ、ぼくを求めてぼくの身体をまさぐり続ける。ぼくを見上げて、そのあるかわからない目でーー

「おれだよ! 見舞いに来たんだよ!」

 おれ? 誰だ。そもそもこんな草原のど真ん中でこんな神の声を代弁していそうな声が聴こえるはずはーー

 そこでぼくはもうひとつの世界に戻ったのだーーまぁ、実際の現実なんだけど。

 ぼくの目の前には年の割には多すぎる白髪に、マスクを着用したタヌキみたいな顔した小太りで背の低い中年の男がひとり。タヌキ親父はじっと、ぼくの顔を覗き込んでいる。

「小林さん……?」ぼくは呟く。

「やっと起きた。いやぁ、ビックリしたよ。突然『うるさい』なんていうんだもん」タヌキ親父がいう。

 いや、この人はタヌキ親父ではない。この人は会社の上司である小林さんだ。役職は一応課長。とはいえ、今のような調子なので、あまり上司という感じではないのだけど。

 しかし、それでぼくはわかってしまった。

 そう、ぼくは夢を見ていたのだ。

 確かに考えてみれば、変な光景だった。そもそもシチュエーションからして、曇天の下、草原のど真ん中で美女とイチャついているなど、普通に考えてあり得ない。それにその美女も、顔でわかるのは口許だけで、それ以外はまったくわからないという。

 こんなの、現実的にあり得ない。だが、夢というのは不思議なモノで、見ている間はそれが現実としか思えないーーというか、それが非現実だと疑いもしないのだから、人間の判断能力なんて大したことないのかもしれない。

「いやぁ、でも元気そうで何よりだったよ」小林さんはいう。「ずっと、電話してたんだよ」

「すいません。自分でもショックでして」ウソもいいところ。「何というか、頭がグルグル回るというか、余り気分が優れなくて」

「わかるよ。まぁ、これも天から『休め』っていうメッセージなのかもしれないね。ちょうどいいし、ゆっくり休みなよ」

 小林さんは何だかよくわからない新興宗教にハマっているらしく、会議や飲み会の席でもしばしば『天』だとか『神』だとかいうワードをいっては、周りを苦笑させている。まぁ、勧誘してこないだけ害はないのだけど、余りそういったことに耐性のない子は、小林さんのことを裏で『教祖』とか呼んで忌み嫌っている。とはいえ、悪い人ではないので、基本的に嫌われてはいないのだけど。それに彼の場合は『教祖』じゃなくて、ただの『信者』だよな。

「すみません。でも……」

 その時、不意にリスが鳴くような可愛らしい笑い声がぼくの内耳に飛び込んで来る。リス。そんなのあり得ない。だってここは病室だ。ぼくはリスの鳴き声のほうへと目をやりーー

 ビックリしてしまった。

 リスの鳴き声だと思っていたモノは、里村さんがクスクスと笑う声だったのだ。

 顔が熱くなる。単純に里村さんが目の前にいるからというのもあるが、今の課長とのやり取りを聴かれたこと、プラスぼくがいっていたであろう寝言を聴かれていたであろうことを考えると、恥ずかしくて堪らなかったのだ。

「仲、いいんですね」里村さんがいう。

「あぁ、いや、これは、その……」

 ぼくはジェスチャーを交えていいワケがましくいう。だが、これといって有用なエクスキューズは思い付かず、結局は黙り込んでしまう。

 小林さんが笑顔でぼくの肩をポンと叩く。

「いいじゃない」

 小林さんの笑みーーその意図はことばにしなくともわかる。ぼくとしてはことばにするのも恥ずかしい。とはいえ、違うんですと否定もしがたい。それはそれで自分にウソをつくようで、何か抵抗がある。

「まぁ、元気そうで良かったよ。取り敢えず、先生にお話は訊いたけど、もう少し入院する必要があるみたいだね。ま、あと数日ゆっくり休みなさい。日々の仕事で疲れも溜まっていたんだよきっと。魂の浄化のためにも安静に、ね」

 魂の浄化って。いいことをいっているのかどうなのかわからないが、小林さんには感謝しなければならないだろう。ここまで部下に理解のある上司なんて、そんな多くなさそうだからなーー変な人だけど。

「じゃ、ぼくは帰るね。ゆっくり休んで、また会社で会いましょう。それじゃーー」

 そういって、小林さんはひとりでカーテンから出ていってしまう。まるで、タヌキがドロンしたようだ。

「ごめんなさいね。起こしてしまって。止めようとしたんですが、その前に声をお掛けになられてしまって」

 里村さんがいう。相変わらずマイペースな親父だ。まぁ、そこが憎めないのだけど。

「いえいえ」

「でも、面白い方ですね」微笑む里村さん。

「あ、いや、その……」

「あんな理解のある人、そうそういませんよ?」

「そう、ですよね。ぼくもそう思います」

「そうですよ。でも、恵まれてるんですね。この前はご両親も来てくれたっていうじゃないですか。ここに来たのも昔のお友達が連絡してくれたからだっていうし。いい人に恵まれてて、何だか、羨ましいなぁ……」

 不意に里村さんの横顔が寂しげに映り、その目がやけに光って見える。ぼくが呆然と彼女の顔を見つめていると、彼女はハッとし、

「ごめんなさい。何か、変なこといっちゃって。気にしないで下さいね」

 そういって慌ただしく周りの整理をし、

「じゃ、何かあったら呼んで下さいね」

 と足早に去って行こうとしたので、ぼくは思わず、「あのッ!」と声を荒げる。

 彼女は振り向く。

「ふふ、病室ではお静かに、ですよ」

「あ、すいません」

「どうしました?」

 彼女の問いに対し、口を閉ざした。いつだってこうだ。自分にはいいたいことがある。なのに、恐怖に震えた意識がそれを吐き出させようとはしない。ぼくは震える。そして、

「あ、いやぁ……、いつもありがとうございます」

 と当たり障りのないひとことを返してしまう。が、彼女はにっこりと笑って、

「ありがとうございます。仕事とはいえ、そういって貰えるとすごく嬉しいです! 何かあったら、また呼んでくださいね!」

 そういい残し、カーテンの外へと消える里村さん。

 こうしてひとり取り残されたぼくは非常に惨めだ。ぼくはこうやって、生涯自分の意識に負け、自分の気持ちを隠しながら生きていくことしかないのだろうか。

 真っ白な部屋が、真っ黒に見えるーー

 【続く】
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登場人物紹介

どうも!    五条です!


といっても、作中の登場人物とかではなくて、作者なんですが。


ここでは適当に思ったことや経験したことをダラダラと書いていこうかな、と。


ま、そんな感じですわ。

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