【明日、白夜になる前に~拾~】
文字数 3,353文字
夜空をいくつもの星が舞う。
エンジン音だろうか。夜特有のゴーッという音が、ぼくの内耳にこだまする。
病院前の広場で、ぼくはひとりぼっち。孤独がぼくの胸をポッカリと開ける。
まるで何かを失ってしまったーーいや、既に失ってしまっていたのだ。
垂れてくる鼻水をすすり、涙は無作法に頬を流れ、地面へと落ちていく。
晴れているはずなのに雨模様。キレイなはずの星空も、ぼくの目には曇り空。公共の場ということもあって、形振り構わず泣けないのが辛い。いや、形振りなんか構わなくていいのだ。
が、それもぼくの中の道徳と倫理が許してくれない。
人がたくさんいる場所で声を荒げてはいけない。人に迷惑を掛けてはいけない。散々親から教えられ、成長していく過程で自分でも無意識の内に学んでいったことだ。
が、今のぼくにはそういった世間体や体裁といったモノが邪魔で仕方がない。感情が胸の内で爆発しそうになる。
破裂しそうになる。
苦しい。
どうしてこんな思いをしなければならないのだろう。あんなウソをついたからだろうか。だから、天が罰としてウソを現実にしたのだろうか。だからって、そんなことしていい権利は、神にも御天道様にもないはずだ。
人間、罪のない人ほどすぐにいなくなってしまう。
直人だってそうだ。あんな優秀で純粋で、順風満帆な人生を送っていた彼の命が犠牲になる謂れなんかなかった。
なのに、なのにーー
「あぁ、いた」天使の声。「探しましたよ」
朗らかな天使の声と、軽快ではあるがどこか重々しい足音がぼくの耳をつんざく。が、ぼくは振り返らない。意識は持っていかれそうになったが、諸手を上げて歓迎する気分ではない。
ぼくは黙ったまま背中で彼女のことばを受ける。そのことばは今のぼくにとって安易な気休めにしかならなかった。
「大丈夫ですか?」
優しさが近づいてくる。コツコツとヒールがアスファルトを叩く音と共に。ぼくは天を仰ぎ大きく息を吸うと、彼女に背を向けたまま、
「えぇ、全然大丈夫です」
と強がりをいう。が、その振る舞いが逆にぼくを弱く見せたかも知れない。肩と拳が震える。脚は今にも崩れ落ちてしまいそう。感情のダムは今にも決壊寸前、堪えられない。
「……なら良かった」里村さんは静かにいう。「……お父様が、落ち着いてからでいいから戻って顔を見せてやってくれ、って。そうすれば、お母様も喜ぶだろうって」
そういう彼女の声にも涙が混じる。
「……そうですか」
「……あの」里村さんの声が張る。「こんなことになってしまって。何というか、あたし、全然迷惑じゃないですからね。あたしも職業柄、こういう緊急時のことはわかっているし、その、何というか……」
里村さんはそこでことばを区切って沈黙する。多分、何と声を掛けていいのか、自分の中で懸命にベストなことばを探しているのだろう。わかっていた。そんなのは、わかっていた。だが、ぼくはーー
「いえ……! ぼくがいけなかったんです。貴方とのデートのために母が事故を起こしたなんてウソをついたから、きっとそれが罰として現実になってしまったんです」
ぼくは自分のいったセリフがわざわざぼくのために時間を割いてくれた彼女に対する冒涜でしかないということに気づいた。が、今更発したことばを引っ込めることはできない。
「……そう」
彼女の声色が悲痛な沈み方を見せる。そんな悲しげな趣が、悲しいことにぼくを饒舌にさせる。
「……いつだってこうなんだ。自分がやる気を出せば何らかの形で挫かれる。どういうわけか、ぼくの人生はそういう風に出来ている。今度だってそうだ。何年かぶりの女性とのデート。それまではもう二度とすることなんかないと思った。飽き性で、女性と付き合っても緊張感が持続できなくて長続きしない。そんなぼくにはそんなことをする資格なんかないんだよ」
そこでことばを切ると、静けさが靄のようにぼくと彼女のふたりの世界線に広がっていく。
終わりだーー汗が零れ落ちるように諦めが全身を濡らしていく。がーー、
「資格って何?」
彼女の予想外にヤスリの掛かっていないザラついたような声に、ぼくの身体を濡らす汗も一気に蒸発する。ぼくは思わず、ハッとして振り向く。彼女の姿がすぐそこにある。ぼくは、
「……え?」
「人を愛することに資格なんて必要なの?」里村さんの声色は明らかに灰色掛かっている。
ぼくは何を返すこともなくーーというより、何もいえなくなってしまう。勢いでいってしまったはいいが、それが暴論だと自分でもわかっていたのかもしれない。
「あなたの過去に何があったかなんてあたしは知らない。だって、まだ会って少ししか経ってないし、少ししか話したことがないんだもん。でも、ひとついえるのは、いくつかの失敗程度で人を愛する権利がないっていうのは可笑しいと思う。人間、どんなに失敗しても、どんなに人を傷つけても、人を愛する権利、愛される権利は等しく与えられているものなんだよ」
彼女の正論がぼくの胸を貫く。だが、ぼくも退くに退けなくなってしまっていた。
「じゃあ、どうすればいいんだ。楽しいことは何もない、夢も希望もない。あるのは淀んだ現実と埃を被った過去の幻影だけ。今のぼくには何もない。そんなヤツのこと誰が愛してーー」
頬に衝撃ーー現実が吹き飛んでしまうのではないかという程の衝撃。思わず頬を庇う。頭に昇った血の気がサーッと下へ落ちて行く。覚め行く意識の中で、震える彼女の姿が目に写る。
「……何をいってるの? さっきからいいわけばかり。ふざけないで。それは全部自分の責任じゃないの……?」
目を伏せる里村さんーーだが、その目が潤んでいるであろうことは、震える声でわかった気がした。彼女のことばがぼくの罪の意識をなぶるーーなぶり続ける。
「今がつまらないのも、先に希望がないのも、全部あなた自身のせいなんだよ、違う? 人生なんて自分でどうにかしなきゃ、その光は消えていってしまう。どんどんくすんでいってしまう。あなたはその努力をした? 自分の人生を磨こうとした? それをしていないで、ただ今の自分を嘆くのは卑怯だよ!」
彼女のいうことは尤もだった。ぼくは、これまで自分の人生をこんなもんかと諦め、見限っていた。
「あたしがどうして今日あなたに会いに来たかわかる……? 始めはどうしようかすごく迷ったよ。メッセージをどう返すかも、ね。でも、あんなに色んな人から恵まれているあなたなら、きっと大丈夫、信用できる。そう思ったから来たんだよ。なのに……、なのにーー」
彼女が大きく息を吐く。
「熱くなってごめんなさい。ウザかったよね。でも、これだけは忘れないで。あなたは自分で思っている以上に幸せな人だよ。いい上司に、いいお友達、いいご両親ーー今となってはそれをことばにするのも心苦しいけどーーに囲まれて。だから、もう少し、自分を大事にしてくれる誰かを、もっと大事にしたほうがいいよ」
すべて彼女のいう通りだからだ。ずる休みとわかっていて、敢えて仕事を休ませてくれる小林さんのような上司が他にどれだけいるだろう。遠く離れた場所で倒れたぼくのために救急車の手配をし、見舞いに来てくれる友人が他にどれだけいるだろう。それにーー
「知ってた?……夜ってさ、どんなに暗くても、大切な誰かと一緒なら白夜になるんだよ。あなたにも……、そんな夜が来るといいね」
どんなに暗い夜でも、大切な人と一緒なら白夜になる。里村さんのそのことばが、ぼくの中に響き渡る。が、ぼくには返すことばがない。
「じゃ、あたしは行くね。今日は楽しかった。お世辞じゃなくて本当に、ね」
彼女は満面の笑みを浮かべていう。が、その目にはありありと涙が浮かんでいる。
「ありがとう……さようなら」
そういって、里村さんはぼくへ視線を少し残したかと思うと、徐に振り返り歩き出す。その歩調はぼくにはどこかゆっくりとしているように見える。まるでうしろ髪を引かれるように。
引き止めるなら今だろう。
そうは思っても、声は出ない。足も出ない。
遠ざかっていく里村さんの姿ーーそれも少しずつ闇の中へと消えていく。闇の中へ、と。
そして、ぼくは再びひとりぼっちになった。
【続く】
エンジン音だろうか。夜特有のゴーッという音が、ぼくの内耳にこだまする。
病院前の広場で、ぼくはひとりぼっち。孤独がぼくの胸をポッカリと開ける。
まるで何かを失ってしまったーーいや、既に失ってしまっていたのだ。
垂れてくる鼻水をすすり、涙は無作法に頬を流れ、地面へと落ちていく。
晴れているはずなのに雨模様。キレイなはずの星空も、ぼくの目には曇り空。公共の場ということもあって、形振り構わず泣けないのが辛い。いや、形振りなんか構わなくていいのだ。
が、それもぼくの中の道徳と倫理が許してくれない。
人がたくさんいる場所で声を荒げてはいけない。人に迷惑を掛けてはいけない。散々親から教えられ、成長していく過程で自分でも無意識の内に学んでいったことだ。
が、今のぼくにはそういった世間体や体裁といったモノが邪魔で仕方がない。感情が胸の内で爆発しそうになる。
破裂しそうになる。
苦しい。
どうしてこんな思いをしなければならないのだろう。あんなウソをついたからだろうか。だから、天が罰としてウソを現実にしたのだろうか。だからって、そんなことしていい権利は、神にも御天道様にもないはずだ。
人間、罪のない人ほどすぐにいなくなってしまう。
直人だってそうだ。あんな優秀で純粋で、順風満帆な人生を送っていた彼の命が犠牲になる謂れなんかなかった。
なのに、なのにーー
「あぁ、いた」天使の声。「探しましたよ」
朗らかな天使の声と、軽快ではあるがどこか重々しい足音がぼくの耳をつんざく。が、ぼくは振り返らない。意識は持っていかれそうになったが、諸手を上げて歓迎する気分ではない。
ぼくは黙ったまま背中で彼女のことばを受ける。そのことばは今のぼくにとって安易な気休めにしかならなかった。
「大丈夫ですか?」
優しさが近づいてくる。コツコツとヒールがアスファルトを叩く音と共に。ぼくは天を仰ぎ大きく息を吸うと、彼女に背を向けたまま、
「えぇ、全然大丈夫です」
と強がりをいう。が、その振る舞いが逆にぼくを弱く見せたかも知れない。肩と拳が震える。脚は今にも崩れ落ちてしまいそう。感情のダムは今にも決壊寸前、堪えられない。
「……なら良かった」里村さんは静かにいう。「……お父様が、落ち着いてからでいいから戻って顔を見せてやってくれ、って。そうすれば、お母様も喜ぶだろうって」
そういう彼女の声にも涙が混じる。
「……そうですか」
「……あの」里村さんの声が張る。「こんなことになってしまって。何というか、あたし、全然迷惑じゃないですからね。あたしも職業柄、こういう緊急時のことはわかっているし、その、何というか……」
里村さんはそこでことばを区切って沈黙する。多分、何と声を掛けていいのか、自分の中で懸命にベストなことばを探しているのだろう。わかっていた。そんなのは、わかっていた。だが、ぼくはーー
「いえ……! ぼくがいけなかったんです。貴方とのデートのために母が事故を起こしたなんてウソをついたから、きっとそれが罰として現実になってしまったんです」
ぼくは自分のいったセリフがわざわざぼくのために時間を割いてくれた彼女に対する冒涜でしかないということに気づいた。が、今更発したことばを引っ込めることはできない。
「……そう」
彼女の声色が悲痛な沈み方を見せる。そんな悲しげな趣が、悲しいことにぼくを饒舌にさせる。
「……いつだってこうなんだ。自分がやる気を出せば何らかの形で挫かれる。どういうわけか、ぼくの人生はそういう風に出来ている。今度だってそうだ。何年かぶりの女性とのデート。それまではもう二度とすることなんかないと思った。飽き性で、女性と付き合っても緊張感が持続できなくて長続きしない。そんなぼくにはそんなことをする資格なんかないんだよ」
そこでことばを切ると、静けさが靄のようにぼくと彼女のふたりの世界線に広がっていく。
終わりだーー汗が零れ落ちるように諦めが全身を濡らしていく。がーー、
「資格って何?」
彼女の予想外にヤスリの掛かっていないザラついたような声に、ぼくの身体を濡らす汗も一気に蒸発する。ぼくは思わず、ハッとして振り向く。彼女の姿がすぐそこにある。ぼくは、
「……え?」
「人を愛することに資格なんて必要なの?」里村さんの声色は明らかに灰色掛かっている。
ぼくは何を返すこともなくーーというより、何もいえなくなってしまう。勢いでいってしまったはいいが、それが暴論だと自分でもわかっていたのかもしれない。
「あなたの過去に何があったかなんてあたしは知らない。だって、まだ会って少ししか経ってないし、少ししか話したことがないんだもん。でも、ひとついえるのは、いくつかの失敗程度で人を愛する権利がないっていうのは可笑しいと思う。人間、どんなに失敗しても、どんなに人を傷つけても、人を愛する権利、愛される権利は等しく与えられているものなんだよ」
彼女の正論がぼくの胸を貫く。だが、ぼくも退くに退けなくなってしまっていた。
「じゃあ、どうすればいいんだ。楽しいことは何もない、夢も希望もない。あるのは淀んだ現実と埃を被った過去の幻影だけ。今のぼくには何もない。そんなヤツのこと誰が愛してーー」
頬に衝撃ーー現実が吹き飛んでしまうのではないかという程の衝撃。思わず頬を庇う。頭に昇った血の気がサーッと下へ落ちて行く。覚め行く意識の中で、震える彼女の姿が目に写る。
「……何をいってるの? さっきからいいわけばかり。ふざけないで。それは全部自分の責任じゃないの……?」
目を伏せる里村さんーーだが、その目が潤んでいるであろうことは、震える声でわかった気がした。彼女のことばがぼくの罪の意識をなぶるーーなぶり続ける。
「今がつまらないのも、先に希望がないのも、全部あなた自身のせいなんだよ、違う? 人生なんて自分でどうにかしなきゃ、その光は消えていってしまう。どんどんくすんでいってしまう。あなたはその努力をした? 自分の人生を磨こうとした? それをしていないで、ただ今の自分を嘆くのは卑怯だよ!」
彼女のいうことは尤もだった。ぼくは、これまで自分の人生をこんなもんかと諦め、見限っていた。
「あたしがどうして今日あなたに会いに来たかわかる……? 始めはどうしようかすごく迷ったよ。メッセージをどう返すかも、ね。でも、あんなに色んな人から恵まれているあなたなら、きっと大丈夫、信用できる。そう思ったから来たんだよ。なのに……、なのにーー」
彼女が大きく息を吐く。
「熱くなってごめんなさい。ウザかったよね。でも、これだけは忘れないで。あなたは自分で思っている以上に幸せな人だよ。いい上司に、いいお友達、いいご両親ーー今となってはそれをことばにするのも心苦しいけどーーに囲まれて。だから、もう少し、自分を大事にしてくれる誰かを、もっと大事にしたほうがいいよ」
すべて彼女のいう通りだからだ。ずる休みとわかっていて、敢えて仕事を休ませてくれる小林さんのような上司が他にどれだけいるだろう。遠く離れた場所で倒れたぼくのために救急車の手配をし、見舞いに来てくれる友人が他にどれだけいるだろう。それにーー
「知ってた?……夜ってさ、どんなに暗くても、大切な誰かと一緒なら白夜になるんだよ。あなたにも……、そんな夜が来るといいね」
どんなに暗い夜でも、大切な人と一緒なら白夜になる。里村さんのそのことばが、ぼくの中に響き渡る。が、ぼくには返すことばがない。
「じゃ、あたしは行くね。今日は楽しかった。お世辞じゃなくて本当に、ね」
彼女は満面の笑みを浮かべていう。が、その目にはありありと涙が浮かんでいる。
「ありがとう……さようなら」
そういって、里村さんはぼくへ視線を少し残したかと思うと、徐に振り返り歩き出す。その歩調はぼくにはどこかゆっくりとしているように見える。まるでうしろ髪を引かれるように。
引き止めるなら今だろう。
そうは思っても、声は出ない。足も出ない。
遠ざかっていく里村さんの姿ーーそれも少しずつ闇の中へと消えていく。闇の中へ、と。
そして、ぼくは再びひとりぼっちになった。
【続く】