【西陽の当たる地獄花~死拾睦~】
文字数 2,289文字
川面が揺れている。
いくつもの波紋を描き、いくつもの歪みが現れる。雨。雨が降っている。かなりの雨足で、地面はぬかるんでいる。川辺の草原は水滴と泥によって満たされている。
そこに汚れた草履が一足。草履を履く足も既に泥にまみれている。
牛馬。牛馬がそこにいる。
雨ざらしになって、全身がびしょ濡れになっている牛馬。茶色い着物は濡れて完全に真っ黒になり、黒の袴は裾が重く垂れ下がっている。
強い雨の中、牛馬は雨で打たれる瞼を小さく開け、目をしばたたかせて豪雨の向こう側に視線を向けている。
待つ。待ち続ける。牛馬は冷えていく体に関わらず、胸の内に秘めた燃え盛る感情を露にするように険しい顔で立ち尽くす。
眉間にシワを寄せる牛馬、かと思いきや右手を『神殺』の柄に掛け、ゆっくりと刀を抜き付けて両の手をダランと落とし身体を開いたようにして身軽な構えを取る。
牛馬の視線の先。そこにいたのは、たくさんの人、人ーー人。もはや川辺の地面をすべて覆ってしまいそうなほどの足、足ーー足。
その集団の先頭、そして真ん中にはいつぞやの不恰好な男がいる。
神だ。神を取り巻く周りの連中は極楽の兵卒たち。だが、それだけではない。そこには閻魔がいる。宗顕がいる。そして鬼水がいる。
宗顕と鬼水はともに人間の姿をしている。だが、その表情はかつて牛馬に見せていた気弱で優しさ漂う感じではなく、狡猾で悪意に満ち満ちた感じだった。
「また会うとは、な」と神。「この軍勢を見よ。貴様ひとりではーー」
神がいい終わるより前に、牛馬は走り出す。水飛沫を上げ、泥を踏み締めながら。
神は向かって来る牛馬に対し、不敵に笑って見せる。
「命知らずが。朕を舐めるのも大概にして貰いたい」神は周りに意識を向け、首を軽く傾ける。「やってしまえ!」
神のそのひとことによって、火蓋は切られる。神を取り巻く極楽と地獄の連合軍が一斉に牛馬へ向かって走り出す。刀を抜きつつ、雄叫びを上げながら。
まるで嵐が来たよう。
さっき走り出したと思った連合の兵卒たちが、次々屍となって、泥水にドス黒い血を流し込んで行く。
牛馬の動きは鈍い。雨の染み込んだ着物は防護に劣った重いだけの鎧と変わらなかった。だが、牛馬はそんなこと関係ないといわんばかりに全力で『神殺』を振る。
牛馬が刀をひと振りする度に屍がひとつ増えていく。腹を裂き、袈裟を斬り、頭を割り、鳩尾を突く。漆黒の雨に真っ赤な血が交じる。
極楽と地獄、ふたつの勢力が次々と削られていく。だが、その兵の多さはバカにはならなかった。牛馬の動きはドンドン鈍っていく。
そして気づけば、牛馬も手負いとなっていく。隙を付かれて衣服を裂かれ、かすり傷からはひと筋の血が流れて着物を赤く染める。
歯を食い縛る牛馬。休んでいる暇などない。痛がっている暇などない。苦しんでいる暇などない。それよりも殺さなければならない。
牛馬は苦痛を無視するように動き続ける。
またひとり、またひとり殺していく。敵の刀を打ち折り、槍を落とし、矢を弾いて。
時に敵を盾にして相討ちにさせ、時にまとめて敵を凪ぎ払う。
豪雨の中で悲鳴がこだまする。だが、その悲鳴も雨に打ち消される。まるで、そこにある生命を、死を、すべて否定するかのよう。
牛馬は息を荒げつつ尚も敵を殺していく。
突然、泥濘に足を取られ、牛馬は転ぶ。
それを見た兵卒たちは一斉に牛馬の命を狙って襲い掛かる。だが、牛馬のほうがどの兵卒よりも上手だった。転ぶとすぐに兵卒たちから身をかわしつつ、兵卒たちの足を刈っていく。
足を刈られた兵卒はその場に倒れ込み、苦痛に悶える。転がった兵卒は他の兵卒の邪魔となり、動く兵卒は転がった兵卒に足を取られて転ぶ者もあれば、前に出るのを躊躇う者も出た。
牛馬は転がった兵卒どもを次から次へと斬り、刺し、殺していく。それもひとりずつではなく、ふたり、三人をまとめて。
気づけば極楽と地獄の連合、その数はあと僅かというところまで来ていた。
残りは地獄の四天王と宗顕、閻魔、そして神だけだった。
「閻魔、行け」神がいうと、閻魔は躊躇いを見せる。「行け!」
神に押され、巨大な棍棒片手に閻魔は走り出す。牛馬に向かって棍棒を振り下ろす。だが、それは地面を打ったのみ。次の瞬間には閻魔の目は神殺によって貫かれていた。
牛馬が刀を抜くと、閻魔はバタリと倒れる。閻魔の死によって地獄の四天王は閻魔の屍に群がる。牛馬はエサに群がるアリを踏み潰すように、四天王の内、三人を袈裟、胴、真っ向斬りで殺害する。
そして残ったのは鬼水、宗顕、神の三人。
鬼水はその場にハタリと尻餅をつくと、股を濡らした。
「ハッ、小便垂らし、か」
牛馬は呟くと、そのまま無抵抗の鬼水の喉を刀で突いて殺す。続いて宗顕。うしろじさる宗顕を歩いて追い詰める。宗顕はしどろもどろに何かをいおうとしていたが、牛馬はそれを無視し、袈裟、逆袈裟、突きで宗顕を絶命させる。
最後、神だ。牛馬が神へと向かって行くと、神はすぐさま地面に膝をつき、命乞いを始める。
「かたじけない! 許して!」
だが、次の瞬間、神の背には『神殺』が突き刺さっていた。神は鈍い声を上げた。牛馬は刀を抜くとそのまま神の首を斬り落とした。
神の首が泥にまみれて転がる。
牛馬はゼイゼイ息を吐きながら、落とした神の首の元へと行くと、神の首を思い切り蹴り飛ばす。
神の首は鈍い音を立てて飛ぶと、水溜まりに落ちて無様にその場に鎮座する。
首が飛んだ方向を見る牛馬。ハッとする。と、その先にはーー
白装束ーー奥村新兵衛がいた。
【続く】
いくつもの波紋を描き、いくつもの歪みが現れる。雨。雨が降っている。かなりの雨足で、地面はぬかるんでいる。川辺の草原は水滴と泥によって満たされている。
そこに汚れた草履が一足。草履を履く足も既に泥にまみれている。
牛馬。牛馬がそこにいる。
雨ざらしになって、全身がびしょ濡れになっている牛馬。茶色い着物は濡れて完全に真っ黒になり、黒の袴は裾が重く垂れ下がっている。
強い雨の中、牛馬は雨で打たれる瞼を小さく開け、目をしばたたかせて豪雨の向こう側に視線を向けている。
待つ。待ち続ける。牛馬は冷えていく体に関わらず、胸の内に秘めた燃え盛る感情を露にするように険しい顔で立ち尽くす。
眉間にシワを寄せる牛馬、かと思いきや右手を『神殺』の柄に掛け、ゆっくりと刀を抜き付けて両の手をダランと落とし身体を開いたようにして身軽な構えを取る。
牛馬の視線の先。そこにいたのは、たくさんの人、人ーー人。もはや川辺の地面をすべて覆ってしまいそうなほどの足、足ーー足。
その集団の先頭、そして真ん中にはいつぞやの不恰好な男がいる。
神だ。神を取り巻く周りの連中は極楽の兵卒たち。だが、それだけではない。そこには閻魔がいる。宗顕がいる。そして鬼水がいる。
宗顕と鬼水はともに人間の姿をしている。だが、その表情はかつて牛馬に見せていた気弱で優しさ漂う感じではなく、狡猾で悪意に満ち満ちた感じだった。
「また会うとは、な」と神。「この軍勢を見よ。貴様ひとりではーー」
神がいい終わるより前に、牛馬は走り出す。水飛沫を上げ、泥を踏み締めながら。
神は向かって来る牛馬に対し、不敵に笑って見せる。
「命知らずが。朕を舐めるのも大概にして貰いたい」神は周りに意識を向け、首を軽く傾ける。「やってしまえ!」
神のそのひとことによって、火蓋は切られる。神を取り巻く極楽と地獄の連合軍が一斉に牛馬へ向かって走り出す。刀を抜きつつ、雄叫びを上げながら。
まるで嵐が来たよう。
さっき走り出したと思った連合の兵卒たちが、次々屍となって、泥水にドス黒い血を流し込んで行く。
牛馬の動きは鈍い。雨の染み込んだ着物は防護に劣った重いだけの鎧と変わらなかった。だが、牛馬はそんなこと関係ないといわんばかりに全力で『神殺』を振る。
牛馬が刀をひと振りする度に屍がひとつ増えていく。腹を裂き、袈裟を斬り、頭を割り、鳩尾を突く。漆黒の雨に真っ赤な血が交じる。
極楽と地獄、ふたつの勢力が次々と削られていく。だが、その兵の多さはバカにはならなかった。牛馬の動きはドンドン鈍っていく。
そして気づけば、牛馬も手負いとなっていく。隙を付かれて衣服を裂かれ、かすり傷からはひと筋の血が流れて着物を赤く染める。
歯を食い縛る牛馬。休んでいる暇などない。痛がっている暇などない。苦しんでいる暇などない。それよりも殺さなければならない。
牛馬は苦痛を無視するように動き続ける。
またひとり、またひとり殺していく。敵の刀を打ち折り、槍を落とし、矢を弾いて。
時に敵を盾にして相討ちにさせ、時にまとめて敵を凪ぎ払う。
豪雨の中で悲鳴がこだまする。だが、その悲鳴も雨に打ち消される。まるで、そこにある生命を、死を、すべて否定するかのよう。
牛馬は息を荒げつつ尚も敵を殺していく。
突然、泥濘に足を取られ、牛馬は転ぶ。
それを見た兵卒たちは一斉に牛馬の命を狙って襲い掛かる。だが、牛馬のほうがどの兵卒よりも上手だった。転ぶとすぐに兵卒たちから身をかわしつつ、兵卒たちの足を刈っていく。
足を刈られた兵卒はその場に倒れ込み、苦痛に悶える。転がった兵卒は他の兵卒の邪魔となり、動く兵卒は転がった兵卒に足を取られて転ぶ者もあれば、前に出るのを躊躇う者も出た。
牛馬は転がった兵卒どもを次から次へと斬り、刺し、殺していく。それもひとりずつではなく、ふたり、三人をまとめて。
気づけば極楽と地獄の連合、その数はあと僅かというところまで来ていた。
残りは地獄の四天王と宗顕、閻魔、そして神だけだった。
「閻魔、行け」神がいうと、閻魔は躊躇いを見せる。「行け!」
神に押され、巨大な棍棒片手に閻魔は走り出す。牛馬に向かって棍棒を振り下ろす。だが、それは地面を打ったのみ。次の瞬間には閻魔の目は神殺によって貫かれていた。
牛馬が刀を抜くと、閻魔はバタリと倒れる。閻魔の死によって地獄の四天王は閻魔の屍に群がる。牛馬はエサに群がるアリを踏み潰すように、四天王の内、三人を袈裟、胴、真っ向斬りで殺害する。
そして残ったのは鬼水、宗顕、神の三人。
鬼水はその場にハタリと尻餅をつくと、股を濡らした。
「ハッ、小便垂らし、か」
牛馬は呟くと、そのまま無抵抗の鬼水の喉を刀で突いて殺す。続いて宗顕。うしろじさる宗顕を歩いて追い詰める。宗顕はしどろもどろに何かをいおうとしていたが、牛馬はそれを無視し、袈裟、逆袈裟、突きで宗顕を絶命させる。
最後、神だ。牛馬が神へと向かって行くと、神はすぐさま地面に膝をつき、命乞いを始める。
「かたじけない! 許して!」
だが、次の瞬間、神の背には『神殺』が突き刺さっていた。神は鈍い声を上げた。牛馬は刀を抜くとそのまま神の首を斬り落とした。
神の首が泥にまみれて転がる。
牛馬はゼイゼイ息を吐きながら、落とした神の首の元へと行くと、神の首を思い切り蹴り飛ばす。
神の首は鈍い音を立てて飛ぶと、水溜まりに落ちて無様にその場に鎮座する。
首が飛んだ方向を見る牛馬。ハッとする。と、その先にはーー
白装束ーー奥村新兵衛がいた。
【続く】