【丑寅は静かに嗤う~泥濘~】
文字数 2,192文字
人を殺して何が解決するというのだ。
刺して、斬って、撃って、打って、傷つけて、屈服させ、その果てに命を奪って、何が手に入るというのか。そこに答えはあるのか。
わからない。
そんなことは誰にもわからない。
衝動ーー殺したいという衝動。人を傷つけたいという欲望。そこにあるのは純粋な願望。
肉体がそれを体現す。魂が望むことを身体が叶えようとする。
雷雨、豪雨、泥にまみれた衣服。濡れた地面を踏み締める。跳ねる雨水。泥んだ地面は踏み締める足を掴んで離そうとせず。
逃げる侍の足裏にこびりついて身体は重くなる。雨と泥で衣服は鈍重な鎧のよう。息上がる。吐き気が肩で切る息となって表れる。
殺す。追っ手の怒号がそれを告げる。
三人。たった三人。刀を持った二人の仮面。巨大な鈍器を肩に担ぐは、もうひとりの仮面。
追い詰められる。そこに退路はなく、先もなく。地獄は滝という姿で侍を迎える。
侍の顔は濡れていた。雨か涙かは判別つくか。顔は強ばっていた。笑わず恐れず、矜持と絶望の狭間で揺らめく、感情が。視線が揺れていた。右に左に黒目は揺らいでいた。
三つの仮面ーー辰巳、坤、戌亥を模した仮面の悪夢。冷たく凍りついた手で心臓を握り潰される。まるでそんな恐怖。
刀身を赤黒く染める血糊は雨で洗われる。雷鳴が刀身を輝かす。刀身に反射する丑寅の仮面の顔は無機質。表情なんて読めはせず。
侍は亡霊のように立ち尽くす。濡れた繁みの奥で顔だけ出す。まるで傍観者のように侍を見つめる。目穴の眼は絶対零度の感情。そこに情があるかはわからず。露知らず。
切りつけるは辰巳。濡れた袖口、刀を上に構えて侍は辰巳の仮面の斬撃を捌き。だが、重すぎる衝撃。苦悶が刻まれる、侍の顔に。
次に来るは戌亥。上段構えで走り出し、侍目掛けて刀をひと振り。
払われる刀身ーー侍が戌亥の刀を弾く、弾き出す。戌亥はよろける。大した腕前ではないのだろう。辰巳が剣を横に薙ぐ。侍は刀を立てて平で受ける。侍の刀、刀身が折れる。平で受けると刀は軟弱、すぐ折れる。
万事休す。そこにあるのは絶望。闇の中で打つ手はすべて消え去る。内耳に響く雷雨。声は届かず。何も残らず。血は濡れた地面に溶けていく。吸収する。死が大地に飲み込まれる。
終幕はそこにある。死という悲劇の幕がそこにある。侍の顔に覚悟の表情。終わりを受け入れる虚無がそこにある。
鈍器を振るう坤。大きな鈍器に、その身体は細すぎる。だが、その振り様に淀みはなく。
横に避けようとする侍。だが、侍の足を掴んで離さない泥濘。逃げ切れない。侍の左腕を打つ鈍器。苦悶の表情、痛みに耐える侍。坤の追い打ち。侍は倒れて一撃を避け切り。左腕を庇い。転がり。そのまま立ち上がり。
追い詰められる。滝が侍の踵を掴んでいる。死が侍の命を捕捉する。
「終わりはいつだって唐突、知ってた?」辰巳の仮面が侍を追い詰めた。「覚悟なさい」
侍に突きつけられる刀の切っ先。それを払うは戌亥。何事かと激昂する辰巳。
「アンタ、何す……ッ!」
辰巳の仮面に構わず、戌亥の仮面は静かに刀を上段に構える。侍を見据える目にはひと筋の光もなく。侍は怯えをまったく見せず。
「アンタ、手柄を横取りする気?」
辰巳のひとことに、揺らがない戌亥の仮面。暗闇は無限。何もなかったかのように、戌亥の面の反応はさもあらん。
「……やんなさいよ。アンタには負けたわ」
辰巳は自棄になったか。放棄する、侍を殺す権利を、自分から。手柄はない残念ながら。血が噴き出すのも寸前だ。死は目前だ。自分の死を恐れないように、侍の目は開いていた。揺れる刀。戌亥は震えた。恐怖か。それとも緊張か。戌亥の仮面はーー
突然の轟音が雷雨に混じる。
何かが起きる。破裂音が仮面の注意を引く。一発、二発、そして三発。侍の足許、弾け飛ぶ。地面が崩れ、侍は平衡を崩す。宙に浮く。時間の流れが遅くなる。それは幻覚。侍は堕ちていく。滝に飲まれて姿消す。
残るは、仮面が三つとひとつ。丑寅、その手には煙を吹いた黒い何かがある。侍が消えたのを見届ける。丑寅の仮面はその場を後にし、姿消す。仕事を終えたか、消失す。
「何してんのよ! 仕損じじゃない!」
叫ぶ辰巳。語感は女で、語調は男声。鉄を切るような悲鳴。だが、それも雷雨のせいで戌亥には届かない。誰のこころにも響かない。そこに残るは、たったひとつの雨のにおい。
「……この始末、どうつけるんだい?」辰巳がいうも、戌亥は反応しない。「ねぇ、聴いてんのかい!?」
辰巳が戌亥に掴み掛かる。だが、戌亥はそれを振り払う。滝に目を向け何かいう。
「止めてよ」女声ーー坤が揉めるふたりを制して、「そんなことより、早く戻りましょ」
「……それもそうね」納得する辰巳。「その折れた刀はちゃんと回収なさい。あの男が死んだって証拠がなきゃ、丑寅も黙っちゃいない」
踵を返す辰巳と坤。だが、戌亥ひとりはそのまま流れる滝を眺め続ける。
「どうしたの、早く……」辰巳は戌亥に声を掛ける。「まさか……」
「バカいうな」戌亥はいった。「気のせいだ」
侍の折れた刀。戌亥がそれを拾うと三人の仮面は惨劇の現場から立ち去った。が、輝く何か。立ち去ったはずの丑寅。その目は滝に向けられているが、そこには水の流れがあるだけだ。耀く丑寅の目、何の意があるのか。
雷鳴と雨音が喧騒を撒き散らす。
【続く】
刺して、斬って、撃って、打って、傷つけて、屈服させ、その果てに命を奪って、何が手に入るというのか。そこに答えはあるのか。
わからない。
そんなことは誰にもわからない。
衝動ーー殺したいという衝動。人を傷つけたいという欲望。そこにあるのは純粋な願望。
肉体がそれを体現す。魂が望むことを身体が叶えようとする。
雷雨、豪雨、泥にまみれた衣服。濡れた地面を踏み締める。跳ねる雨水。泥んだ地面は踏み締める足を掴んで離そうとせず。
逃げる侍の足裏にこびりついて身体は重くなる。雨と泥で衣服は鈍重な鎧のよう。息上がる。吐き気が肩で切る息となって表れる。
殺す。追っ手の怒号がそれを告げる。
三人。たった三人。刀を持った二人の仮面。巨大な鈍器を肩に担ぐは、もうひとりの仮面。
追い詰められる。そこに退路はなく、先もなく。地獄は滝という姿で侍を迎える。
侍の顔は濡れていた。雨か涙かは判別つくか。顔は強ばっていた。笑わず恐れず、矜持と絶望の狭間で揺らめく、感情が。視線が揺れていた。右に左に黒目は揺らいでいた。
三つの仮面ーー辰巳、坤、戌亥を模した仮面の悪夢。冷たく凍りついた手で心臓を握り潰される。まるでそんな恐怖。
刀身を赤黒く染める血糊は雨で洗われる。雷鳴が刀身を輝かす。刀身に反射する丑寅の仮面の顔は無機質。表情なんて読めはせず。
侍は亡霊のように立ち尽くす。濡れた繁みの奥で顔だけ出す。まるで傍観者のように侍を見つめる。目穴の眼は絶対零度の感情。そこに情があるかはわからず。露知らず。
切りつけるは辰巳。濡れた袖口、刀を上に構えて侍は辰巳の仮面の斬撃を捌き。だが、重すぎる衝撃。苦悶が刻まれる、侍の顔に。
次に来るは戌亥。上段構えで走り出し、侍目掛けて刀をひと振り。
払われる刀身ーー侍が戌亥の刀を弾く、弾き出す。戌亥はよろける。大した腕前ではないのだろう。辰巳が剣を横に薙ぐ。侍は刀を立てて平で受ける。侍の刀、刀身が折れる。平で受けると刀は軟弱、すぐ折れる。
万事休す。そこにあるのは絶望。闇の中で打つ手はすべて消え去る。内耳に響く雷雨。声は届かず。何も残らず。血は濡れた地面に溶けていく。吸収する。死が大地に飲み込まれる。
終幕はそこにある。死という悲劇の幕がそこにある。侍の顔に覚悟の表情。終わりを受け入れる虚無がそこにある。
鈍器を振るう坤。大きな鈍器に、その身体は細すぎる。だが、その振り様に淀みはなく。
横に避けようとする侍。だが、侍の足を掴んで離さない泥濘。逃げ切れない。侍の左腕を打つ鈍器。苦悶の表情、痛みに耐える侍。坤の追い打ち。侍は倒れて一撃を避け切り。左腕を庇い。転がり。そのまま立ち上がり。
追い詰められる。滝が侍の踵を掴んでいる。死が侍の命を捕捉する。
「終わりはいつだって唐突、知ってた?」辰巳の仮面が侍を追い詰めた。「覚悟なさい」
侍に突きつけられる刀の切っ先。それを払うは戌亥。何事かと激昂する辰巳。
「アンタ、何す……ッ!」
辰巳の仮面に構わず、戌亥の仮面は静かに刀を上段に構える。侍を見据える目にはひと筋の光もなく。侍は怯えをまったく見せず。
「アンタ、手柄を横取りする気?」
辰巳のひとことに、揺らがない戌亥の仮面。暗闇は無限。何もなかったかのように、戌亥の面の反応はさもあらん。
「……やんなさいよ。アンタには負けたわ」
辰巳は自棄になったか。放棄する、侍を殺す権利を、自分から。手柄はない残念ながら。血が噴き出すのも寸前だ。死は目前だ。自分の死を恐れないように、侍の目は開いていた。揺れる刀。戌亥は震えた。恐怖か。それとも緊張か。戌亥の仮面はーー
突然の轟音が雷雨に混じる。
何かが起きる。破裂音が仮面の注意を引く。一発、二発、そして三発。侍の足許、弾け飛ぶ。地面が崩れ、侍は平衡を崩す。宙に浮く。時間の流れが遅くなる。それは幻覚。侍は堕ちていく。滝に飲まれて姿消す。
残るは、仮面が三つとひとつ。丑寅、その手には煙を吹いた黒い何かがある。侍が消えたのを見届ける。丑寅の仮面はその場を後にし、姿消す。仕事を終えたか、消失す。
「何してんのよ! 仕損じじゃない!」
叫ぶ辰巳。語感は女で、語調は男声。鉄を切るような悲鳴。だが、それも雷雨のせいで戌亥には届かない。誰のこころにも響かない。そこに残るは、たったひとつの雨のにおい。
「……この始末、どうつけるんだい?」辰巳がいうも、戌亥は反応しない。「ねぇ、聴いてんのかい!?」
辰巳が戌亥に掴み掛かる。だが、戌亥はそれを振り払う。滝に目を向け何かいう。
「止めてよ」女声ーー坤が揉めるふたりを制して、「そんなことより、早く戻りましょ」
「……それもそうね」納得する辰巳。「その折れた刀はちゃんと回収なさい。あの男が死んだって証拠がなきゃ、丑寅も黙っちゃいない」
踵を返す辰巳と坤。だが、戌亥ひとりはそのまま流れる滝を眺め続ける。
「どうしたの、早く……」辰巳は戌亥に声を掛ける。「まさか……」
「バカいうな」戌亥はいった。「気のせいだ」
侍の折れた刀。戌亥がそれを拾うと三人の仮面は惨劇の現場から立ち去った。が、輝く何か。立ち去ったはずの丑寅。その目は滝に向けられているが、そこには水の流れがあるだけだ。耀く丑寅の目、何の意があるのか。
雷鳴と雨音が喧騒を撒き散らす。
【続く】