【帝王霊~伍~】
文字数 3,284文字
深夜、人工的な白色灯はリノリウム張りの廊下に無機質な冷たさを与えている。
合皮張りの長椅子に掛けているシンゴとヤエは、ふたりとも沈黙を守って口を利こうともしない。五村署でのふたりの取調べは終わったとはいえ、弓永の指示で署の廊下で待つよういわれていたのだ。
重い空気。まるでふたりのことばを押し潰してしまったかのような重圧がそこにある。
リノリウムを叩くゴム底のコツコツと響く音が長い長い廊下にこだまする。
「待たせちまったな」弓永が現れる。「しかし助かった。武井の姉貴はともかく、そこのボウズの親父が川澄署の生活安全課の警部補だなんて、話が出来すぎてる」
ヘラヘラとしながらいう弓永に、ヤエもシンゴも同調することはなく、険しい表情を浮かべて五村署刑事組織犯罪対策課の警部補を見る。
「それで、林崎くんのお父様はどうおっしゃってたんですか?」ヤエが訊ねる。
「あぁ、おおよその時間を答えたら、車で迎えに来るってよ。まったくいい親父だな」
弓永がそういっても、シンゴは俯くばかりで何もいわない。その表情からは、先ほどまで見られた元気は見えない。突然の出来事に、まだ気持ちが落ち着かないのだろう。
「で、犯人のことですけど……」
シンゴのことを庇うようにヤエが話をスライドさせると弓永は、
「あぁ……」と相槌を打ち、靴底で二、三歩廊下を叩くと「そのことなんだがーー」
といって、口を一文字に結んでしまう。如何にも話しづらそうな雰囲気。それはヤエにもわかっていただろう。
だが、それで済ませられるワケがなかった。
「何か、いいづらいことでもあるんですか?」
核心を突いたようなヤエの質問に対し、弓永はヤエを一瞥することで代弁する。が、そんなことではヤエは満足するワケはなく、
「やっぱり、そうなんですね」
「まぁ、いいづらいといえば、かなりいいづらいな。というか、何ていえばいいのか……」
「そんな、ここまで待たせておいて黙りを決め込むのはあんまりじゃないですか?」
「まぁ、そうだよな。おれだって、そのことでお前らを待たせたんだ。でもーー」弓永はそこで一旦ことばを切ると、「……いや、正直おれもワケがわからねぇんだ」
「……どういうこと、ですか?」
弓永の困惑した様子に引っ張られたのか、ヤエの語調にも緊張が走る。弓永は依然としてヘラヘラしたように笑っている。だが、その表情は何処か強張っている。
弓永は黙り込んでいる。ヤエとシンゴはそんな弓永を静かに見守っている。あたかも、弓永が話し出す瞬間を見逃さんとするように。
弓永の口許が開く。だが、その口許は微かに震えており、吐息が漏れ出している。
「……これからいうことは、あまりに可笑しな話。きっと、お前らはおれがウソをいっていると思うだろう。それでも構わないか?」
弓永の問いにふたりは頷く。珍しく弓永は緊張しているよう。ヤエがいうーー
「……わかりました。話して下さい」
大きく息をつく弓永ーーそれから幾分の間を取り、口を開く。
「……あの野郎、何も覚えてねぇんだ」
「え……?」シンゴは呆然と呟く。「覚えて、ない、ってどういうことですか?」
ヤエも信じられないといった様子。弓永の次のことばを固唾を飲んで見守っている。
「どういうこと、ってーー」弓永はふたりから視線を外して再び口を開く。「そのままの意味だ。あの野郎、自分が強盗したことも、お前らと追い掛けっこしたことも、お前らを殺そうとしたことも、何もかもを覚えてねぇんだ」
「そんなバカな!」シンゴは立ち上がる。「刑事さんだって、おれたちが殺されそうになったのを見たでしょう?」
「あぁ、見た。でも、アイツは覚えてねぇっていうんだ。それも、人が変わっちまったように気弱になっちまって。あの真に迫った感じは一見するとウソには思えない」
人間、瞬間的に強烈なストレスを感じると、脳が防衛機制として、その経験に対する記憶を薄めてしまうことがある。
代表的な例でいえば、過去にアメリカでフットボール選手が女房を殺したにも関わらず、その事実を覚えていなかったといったモノがあるが、そんなことがそうそう起こりうるはずもなく、仮にそれが事実だとしても、そんなことを信じられる人間は多くない。
「でも、犯人はウソをつくモンじゃないんですか!? それにおれらの件に関しては現行犯での逮捕なんだから、いいのがれなんてーー」
「出来るはずがない。だが、ヤツは泣きじゃくって知らないの一点張りだ。それにお前らの写真を見せても、こんな人たち知らない、自分は無実だ、信じてくれーーそればかりだ」
「そんな……」
「兎に角、もう少しあの野郎のことは調べなきゃならない。だが、ヤツに前科はないし、ヤツの知人から訊いた限りでは、ヤツは非常に温厚でマジメ、頭もよく勤務態度もいいとのことだ。金に困っている様子は皆無、給料もよく、仕事上の人間関係も良好で学歴も申し分ない」
「そんなこと……」
「詭弁だ、っていいたいんだろ? おれもそう思った。だが、ヤツの態度には苦し紛れにウソをつく人間の特徴がない。微かに見せる挙動に瞳孔の開き具合、そのすべてが自分が無実だと物語ってる。まぁ、ちゃんとした捜査をしないと具体的なことはわからねぇけどな。でも、少なくとも今の段階、おれの勘でいえば、ヤツのいっていることは紛れもない事実だろうな」
「そんなの……」
シンゴはことばを失う。現職の警官にそういわれてしまっては、もはやどうしようもない。あとは捜査がどう進行するか、だがーー
「それに困ったことに、あの野郎は盗みのことやお前らを殺そうとするまでの間のことも何も覚えてねぇんだ。オマケに数日前から失踪、会社にも来なければ、部屋に電気が点いていた様子もないっていうんだからお笑いだ」
こうなるともはやワケがわからない。男はこの数日、何処で何をしていたか、それがわからなければ話にすらならないだろう。
「それに、アイツは五村には殆ど来たことがなくて、土地勘も全然ないらしい。そんなヤツが何処がどうなってるかわからない場所で盗みなんかするか? お前らを誘導したように走れるか?それだけじゃない。お前らの写真を見せても、誰だかわからないってよ」
「え!?」ヤエが声を上げる。「わからないって、どういうこと!?」
「それはこっちが訊きたいね。お前らの写真を見せても、初めて見た、だから殺す理由なんかないってさ。そこのボウズーーシンゴだったかーーシンゴのいう通り、犯人はウソをつく。でも、この男に関していえば、色々とイレギュラーなことが多過ぎてワケがわからない」
弓永の話に、ヤエとシンゴは、長椅子に腰掛けたままうつむき加減になって黙り込む。
「シンゴ!」
コツコツという靴音と共にバリトンの心地よいトーン声が甲高い緊迫感をもって廊下に響く。三人の視線が声のほうへと向く。
その先には、シンゴの父である林崎新助の姿。弓永と違い、細身で清潔な紺のスーツに背の高いスマートな雰囲気を纏った新助は、その表情に警官としての落ち着きを宿しつつも、その乱れた歩き方からは父親としての焦燥感、不安と恐怖を隠し切れていなかった。
「父さん!」
シンゴは立ち上がり新助のほうへと走ると、新助を前にして頭を垂れて立ち止まる。新助はそんなシンゴの肩に手を掛け、
「大丈夫か?」
シンゴは静かに頷く。
「林崎さん」傍らまで来ていたヤエがいう。
「あぁ……、先生は大丈夫ですか?」
「えぇ……、大丈夫です」
「なら良かった」
「わたしがついていながら、本当にごめんなさい」ヤエは頭を下げる。
「とんでもない! 長谷川先生がいなければ、息子はどうなっていたことか。本当にありがとうございます」
新助も頭を下げる。頭を上げると新助の視線の先には弓永の姿。新助はシンゴに少し待つよういうと、弓永の手前まで歩き立ち止まると、己の警察手帳を取り出して提示し、
「川澄署生活安全課の林崎です。この度は息子がお世話になりました」
「いや、そのことは別にいいんだ。そんなことよりもーー」
弓永は再度語り出した。
【続く】
合皮張りの長椅子に掛けているシンゴとヤエは、ふたりとも沈黙を守って口を利こうともしない。五村署でのふたりの取調べは終わったとはいえ、弓永の指示で署の廊下で待つよういわれていたのだ。
重い空気。まるでふたりのことばを押し潰してしまったかのような重圧がそこにある。
リノリウムを叩くゴム底のコツコツと響く音が長い長い廊下にこだまする。
「待たせちまったな」弓永が現れる。「しかし助かった。武井の姉貴はともかく、そこのボウズの親父が川澄署の生活安全課の警部補だなんて、話が出来すぎてる」
ヘラヘラとしながらいう弓永に、ヤエもシンゴも同調することはなく、険しい表情を浮かべて五村署刑事組織犯罪対策課の警部補を見る。
「それで、林崎くんのお父様はどうおっしゃってたんですか?」ヤエが訊ねる。
「あぁ、おおよその時間を答えたら、車で迎えに来るってよ。まったくいい親父だな」
弓永がそういっても、シンゴは俯くばかりで何もいわない。その表情からは、先ほどまで見られた元気は見えない。突然の出来事に、まだ気持ちが落ち着かないのだろう。
「で、犯人のことですけど……」
シンゴのことを庇うようにヤエが話をスライドさせると弓永は、
「あぁ……」と相槌を打ち、靴底で二、三歩廊下を叩くと「そのことなんだがーー」
といって、口を一文字に結んでしまう。如何にも話しづらそうな雰囲気。それはヤエにもわかっていただろう。
だが、それで済ませられるワケがなかった。
「何か、いいづらいことでもあるんですか?」
核心を突いたようなヤエの質問に対し、弓永はヤエを一瞥することで代弁する。が、そんなことではヤエは満足するワケはなく、
「やっぱり、そうなんですね」
「まぁ、いいづらいといえば、かなりいいづらいな。というか、何ていえばいいのか……」
「そんな、ここまで待たせておいて黙りを決め込むのはあんまりじゃないですか?」
「まぁ、そうだよな。おれだって、そのことでお前らを待たせたんだ。でもーー」弓永はそこで一旦ことばを切ると、「……いや、正直おれもワケがわからねぇんだ」
「……どういうこと、ですか?」
弓永の困惑した様子に引っ張られたのか、ヤエの語調にも緊張が走る。弓永は依然としてヘラヘラしたように笑っている。だが、その表情は何処か強張っている。
弓永は黙り込んでいる。ヤエとシンゴはそんな弓永を静かに見守っている。あたかも、弓永が話し出す瞬間を見逃さんとするように。
弓永の口許が開く。だが、その口許は微かに震えており、吐息が漏れ出している。
「……これからいうことは、あまりに可笑しな話。きっと、お前らはおれがウソをいっていると思うだろう。それでも構わないか?」
弓永の問いにふたりは頷く。珍しく弓永は緊張しているよう。ヤエがいうーー
「……わかりました。話して下さい」
大きく息をつく弓永ーーそれから幾分の間を取り、口を開く。
「……あの野郎、何も覚えてねぇんだ」
「え……?」シンゴは呆然と呟く。「覚えて、ない、ってどういうことですか?」
ヤエも信じられないといった様子。弓永の次のことばを固唾を飲んで見守っている。
「どういうこと、ってーー」弓永はふたりから視線を外して再び口を開く。「そのままの意味だ。あの野郎、自分が強盗したことも、お前らと追い掛けっこしたことも、お前らを殺そうとしたことも、何もかもを覚えてねぇんだ」
「そんなバカな!」シンゴは立ち上がる。「刑事さんだって、おれたちが殺されそうになったのを見たでしょう?」
「あぁ、見た。でも、アイツは覚えてねぇっていうんだ。それも、人が変わっちまったように気弱になっちまって。あの真に迫った感じは一見するとウソには思えない」
人間、瞬間的に強烈なストレスを感じると、脳が防衛機制として、その経験に対する記憶を薄めてしまうことがある。
代表的な例でいえば、過去にアメリカでフットボール選手が女房を殺したにも関わらず、その事実を覚えていなかったといったモノがあるが、そんなことがそうそう起こりうるはずもなく、仮にそれが事実だとしても、そんなことを信じられる人間は多くない。
「でも、犯人はウソをつくモンじゃないんですか!? それにおれらの件に関しては現行犯での逮捕なんだから、いいのがれなんてーー」
「出来るはずがない。だが、ヤツは泣きじゃくって知らないの一点張りだ。それにお前らの写真を見せても、こんな人たち知らない、自分は無実だ、信じてくれーーそればかりだ」
「そんな……」
「兎に角、もう少しあの野郎のことは調べなきゃならない。だが、ヤツに前科はないし、ヤツの知人から訊いた限りでは、ヤツは非常に温厚でマジメ、頭もよく勤務態度もいいとのことだ。金に困っている様子は皆無、給料もよく、仕事上の人間関係も良好で学歴も申し分ない」
「そんなこと……」
「詭弁だ、っていいたいんだろ? おれもそう思った。だが、ヤツの態度には苦し紛れにウソをつく人間の特徴がない。微かに見せる挙動に瞳孔の開き具合、そのすべてが自分が無実だと物語ってる。まぁ、ちゃんとした捜査をしないと具体的なことはわからねぇけどな。でも、少なくとも今の段階、おれの勘でいえば、ヤツのいっていることは紛れもない事実だろうな」
「そんなの……」
シンゴはことばを失う。現職の警官にそういわれてしまっては、もはやどうしようもない。あとは捜査がどう進行するか、だがーー
「それに困ったことに、あの野郎は盗みのことやお前らを殺そうとするまでの間のことも何も覚えてねぇんだ。オマケに数日前から失踪、会社にも来なければ、部屋に電気が点いていた様子もないっていうんだからお笑いだ」
こうなるともはやワケがわからない。男はこの数日、何処で何をしていたか、それがわからなければ話にすらならないだろう。
「それに、アイツは五村には殆ど来たことがなくて、土地勘も全然ないらしい。そんなヤツが何処がどうなってるかわからない場所で盗みなんかするか? お前らを誘導したように走れるか?それだけじゃない。お前らの写真を見せても、誰だかわからないってよ」
「え!?」ヤエが声を上げる。「わからないって、どういうこと!?」
「それはこっちが訊きたいね。お前らの写真を見せても、初めて見た、だから殺す理由なんかないってさ。そこのボウズーーシンゴだったかーーシンゴのいう通り、犯人はウソをつく。でも、この男に関していえば、色々とイレギュラーなことが多過ぎてワケがわからない」
弓永の話に、ヤエとシンゴは、長椅子に腰掛けたままうつむき加減になって黙り込む。
「シンゴ!」
コツコツという靴音と共にバリトンの心地よいトーン声が甲高い緊迫感をもって廊下に響く。三人の視線が声のほうへと向く。
その先には、シンゴの父である林崎新助の姿。弓永と違い、細身で清潔な紺のスーツに背の高いスマートな雰囲気を纏った新助は、その表情に警官としての落ち着きを宿しつつも、その乱れた歩き方からは父親としての焦燥感、不安と恐怖を隠し切れていなかった。
「父さん!」
シンゴは立ち上がり新助のほうへと走ると、新助を前にして頭を垂れて立ち止まる。新助はそんなシンゴの肩に手を掛け、
「大丈夫か?」
シンゴは静かに頷く。
「林崎さん」傍らまで来ていたヤエがいう。
「あぁ……、先生は大丈夫ですか?」
「えぇ……、大丈夫です」
「なら良かった」
「わたしがついていながら、本当にごめんなさい」ヤエは頭を下げる。
「とんでもない! 長谷川先生がいなければ、息子はどうなっていたことか。本当にありがとうございます」
新助も頭を下げる。頭を上げると新助の視線の先には弓永の姿。新助はシンゴに少し待つよういうと、弓永の手前まで歩き立ち止まると、己の警察手帳を取り出して提示し、
「川澄署生活安全課の林崎です。この度は息子がお世話になりました」
「いや、そのことは別にいいんだ。そんなことよりもーー」
弓永は再度語り出した。
【続く】