【丑寅は静かに嗤う~跡形】
文字数 2,772文字
夜の大鳥邸は勢い良く燃え盛る炎によって、全体が明るく照らされている。
秋も深まり虫の音は既に聴こえないが、その冷たい空気の流れが今にも聴こえて来そうだ。
そんな中、昼間に決闘が行われていた中庭を見詰めながら縁側に立つ大鳥の姿がある。
「どうされたのですか?」
背後から大鳥に声を掛ける誰かの声。大鳥が振り返って見せると、そこには牛野。
「牛野、か」
「突然のことで誠にかたじけない」
「いや、構わぬ」
「そうですか、なら良いのですが。にしても、行ってしまわれましたね」牛野がいうと、大鳥平兵衛は大きく頷く。「すぐ夜になるのだから、今晩くらいは泊まっていけばいいモノを」
「まぁ、それはあの人らが自分たちでお決めになったことだ。拙者たちが何かをいって引き止めるのは無粋というモンだろう」
「それはそうですがーーでも、本当に良かったのですか、あのまま行かせてしまって」
「何がマズイことがある」大鳥平兵衛。「あの四人は己のやるべきことを終えてここから出て行かれた。それだけだ」
「それは確かにそうですがーー」
口をつぐむ牛野に、大鳥は不思議そうな表情を浮かべて訊ねる。
「そうだが、何だ?」
「いえ、ただ、あの……桃川様、でしたっけ。あの方も随分と根性のある方だと」
牛野の曖昧な言い種に、大鳥は思わず頷く。
「あぁ……、あの後、何もないことを祈るが」
「しかし、どうされるんです?」
「何が、だ?」
「一真様と政様のことですよ」
大鳥は口をつぐむ。だが、少しして意を決したように口を開くとーー
一真と政は暫くの間、交流のある長州の旗本の元に預け、その根性を叩き直して貰うとのことだった。何でも、大鳥が息子ふたりをあまりにも甘やかしてしまったこともあって、他者の元へ行き、しっかりと修行して来るよういいつけたとのことだった。ちなみに、もうふたりは大鳥の託けの書かれた文を持って、屋敷を出たということだった。
「このままこの屋敷にいても、あのふたりはダメになる一方だ。それならば、ちゃんとしたお方に鍛え直して貰う他はない」
「おことばではありますが、その通りかと」
大鳥の顔がどこか寂しげに沈む。牛野はそれを横目にしつつも、その視線を揺らがせたようではあった。が、大鳥はーー
「それはそうと、だ。主こそ彼らを行かせてしまって良かったのか?」
「え?」牛野は呆気に取られたようだったが、すぐさま微笑して見せ、「それはもちろん。ですが、どうしてそのようなことを?」
「いや、源之助殿のことだーー」大鳥が意味深長に顔をしかめる。「あの方は、お主の兄の仇ではないのか?」
そう大鳥が訊ねると、牛野はゆっくりと笑い出す。かと思いきやーー
「何を今更。それに、兄の天誅を依頼し、その仲介するよう貴方様に頼み申したのは、紛れもないわたしではありませんか」
「……そうだな」
伏し目がちになって大鳥はいう。沈黙が薄い膜のようになって辺りを包み込む。沈黙する大鳥を見て、牛野はおもむろに口を開くーー
「確かに自分の兄の天誅を依頼するのは、かなり気が引けることではあります。ですが、兄はあの時点で既に鬼と化していました。鬼を殺すなら、それを超える鬼に頼まなければならないーーそれだけのことです」
「……それもそうだな。しかし、懐かしいモノだな。あれからもう数年が経つのか」
ふたりの話によって過去が蘇って来る。
あれは数年前に牛野が川越街道を歩いていた時のことである。木々に囲まれた砂利道を歩いていると、真っ向から何やら身体の大きなモノが歩いてくるのが、牛野には見えた。
牛野は、それが『鬼』であると気がついてしまった。そして、互いが互いの顔を見ると、その『鬼』は、笑みを浮かべてこういったーー
「テメェか。久しぶりだな」
「兄上、まさかここでお会いになるとは」
思ってもいなかったであろう。当の『鬼』本人もそうは思っていなかったようでーー
「それはお互い、だな。だが、何故テメェがこんなところにいる。あのジジイの後を継いだんじゃなかったのか?」
「最初はそのつもりでした。ですが、わたしも唐突に兄上の後を追ってみたくなったのです。今は、養子となった又五郎が継いでおります」
「又五郎?……あの小間使いか」
「えぇ、又五郎はよく務める男で、父上と家老様もその仕事をよく買っておりましたから。そんなことよりも、その風体からして、ずっとそこらをさ迷っておられるようですな」『鬼』は微笑したまま何もいわない。「聴くところによると、かなり多くの人を斬ってきたのだとか」
不気味に微笑む『鬼』はいったーー
「だとしたら、何だ? 殺すか?」
牛野は刀を抜いた。『鬼』も。だが、結果はいうまでもなく、『鬼』の圧勝だった。だが、牛野が生きているのは、『鬼』が瞬間的に棟で牛野の腹を打ったからだった。
「純粋な疑問だから余り気を悪くしないで欲しいのだが、何故、その兄上は主を斬らなかったのだろう」
大鳥が疑問を口にすると、牛野はーー
「わかりませぬ。ただ、本人がいうには、兄弟が久しぶりに再会したことへの餞別とのことだったらしいですーー」
「鬼の目にも涙、か」
「……そうだったのでしょうか」
複雑な表情を浮かべつつ、牛野は更に続ける。牛野はそれから兄である『鬼』のことを訊いて回った。それによれば、『鬼』は、その当時、盗賊の用心棒となっており、暴虐の限りを尽くしているとのことだった。
「鬼を止めるには、闇に潜む鬼の力が必要だった。そこで色々調べて回った結果、大鳥様の元にたどり着き、頼みを仲介して頂いたのです」
「そうだったか。にしてもーー」
「大鳥様!」嗄れた女性の声。大鳥と牛野が振り返ると、そこには両手で桶を抱えたお卯乃の姿がある。「本当に、よろしいのでしょうか……?」
「……あぁ。主にはうちの息子たちが迷惑を掛けた。その息子たちも外へ出すところだし、ひとりであのような森の中で暮らすのは不便だろう。ならば、拙者の元で働いて欲しいのだ」
「それは、構わねぇですけんど……」
不安そうに顔を歪めるお卯乃に、大鳥は笑顔で応えるーー
「なに、心配するな。何かあれば、ここにいる牛野や、奉公人たち、或いは女中たちに申せば何とかなるだろう。それに、拙者は主に何か悪いことをしようなどとは考えておらん。だから、是非信頼して欲しい」
「……わかりました」
そういってお卯乃は屋敷の中へと潜っていく。その顔にはまだ隠しきれない不安が宿っているようにふたりには見えたはずだ。
「おことばですが」牛野。「どうして、わたしたちがあの老婆を虐げないといえるので?」
「それは、あの老婆が酷い目に遭えば、今度は『本物の鬼』が我々を天誅しに来るだろうから、な」
「……それもそうですね」
「牛野、兄上と源之助殿から頂いた御命、大切にするのだぞ」
牛野は頷くーー炎が揺れるように。
【続く】
秋も深まり虫の音は既に聴こえないが、その冷たい空気の流れが今にも聴こえて来そうだ。
そんな中、昼間に決闘が行われていた中庭を見詰めながら縁側に立つ大鳥の姿がある。
「どうされたのですか?」
背後から大鳥に声を掛ける誰かの声。大鳥が振り返って見せると、そこには牛野。
「牛野、か」
「突然のことで誠にかたじけない」
「いや、構わぬ」
「そうですか、なら良いのですが。にしても、行ってしまわれましたね」牛野がいうと、大鳥平兵衛は大きく頷く。「すぐ夜になるのだから、今晩くらいは泊まっていけばいいモノを」
「まぁ、それはあの人らが自分たちでお決めになったことだ。拙者たちが何かをいって引き止めるのは無粋というモンだろう」
「それはそうですがーーでも、本当に良かったのですか、あのまま行かせてしまって」
「何がマズイことがある」大鳥平兵衛。「あの四人は己のやるべきことを終えてここから出て行かれた。それだけだ」
「それは確かにそうですがーー」
口をつぐむ牛野に、大鳥は不思議そうな表情を浮かべて訊ねる。
「そうだが、何だ?」
「いえ、ただ、あの……桃川様、でしたっけ。あの方も随分と根性のある方だと」
牛野の曖昧な言い種に、大鳥は思わず頷く。
「あぁ……、あの後、何もないことを祈るが」
「しかし、どうされるんです?」
「何が、だ?」
「一真様と政様のことですよ」
大鳥は口をつぐむ。だが、少しして意を決したように口を開くとーー
一真と政は暫くの間、交流のある長州の旗本の元に預け、その根性を叩き直して貰うとのことだった。何でも、大鳥が息子ふたりをあまりにも甘やかしてしまったこともあって、他者の元へ行き、しっかりと修行して来るよういいつけたとのことだった。ちなみに、もうふたりは大鳥の託けの書かれた文を持って、屋敷を出たということだった。
「このままこの屋敷にいても、あのふたりはダメになる一方だ。それならば、ちゃんとしたお方に鍛え直して貰う他はない」
「おことばではありますが、その通りかと」
大鳥の顔がどこか寂しげに沈む。牛野はそれを横目にしつつも、その視線を揺らがせたようではあった。が、大鳥はーー
「それはそうと、だ。主こそ彼らを行かせてしまって良かったのか?」
「え?」牛野は呆気に取られたようだったが、すぐさま微笑して見せ、「それはもちろん。ですが、どうしてそのようなことを?」
「いや、源之助殿のことだーー」大鳥が意味深長に顔をしかめる。「あの方は、お主の兄の仇ではないのか?」
そう大鳥が訊ねると、牛野はゆっくりと笑い出す。かと思いきやーー
「何を今更。それに、兄の天誅を依頼し、その仲介するよう貴方様に頼み申したのは、紛れもないわたしではありませんか」
「……そうだな」
伏し目がちになって大鳥はいう。沈黙が薄い膜のようになって辺りを包み込む。沈黙する大鳥を見て、牛野はおもむろに口を開くーー
「確かに自分の兄の天誅を依頼するのは、かなり気が引けることではあります。ですが、兄はあの時点で既に鬼と化していました。鬼を殺すなら、それを超える鬼に頼まなければならないーーそれだけのことです」
「……それもそうだな。しかし、懐かしいモノだな。あれからもう数年が経つのか」
ふたりの話によって過去が蘇って来る。
あれは数年前に牛野が川越街道を歩いていた時のことである。木々に囲まれた砂利道を歩いていると、真っ向から何やら身体の大きなモノが歩いてくるのが、牛野には見えた。
牛野は、それが『鬼』であると気がついてしまった。そして、互いが互いの顔を見ると、その『鬼』は、笑みを浮かべてこういったーー
「テメェか。久しぶりだな」
「兄上、まさかここでお会いになるとは」
思ってもいなかったであろう。当の『鬼』本人もそうは思っていなかったようでーー
「それはお互い、だな。だが、何故テメェがこんなところにいる。あのジジイの後を継いだんじゃなかったのか?」
「最初はそのつもりでした。ですが、わたしも唐突に兄上の後を追ってみたくなったのです。今は、養子となった又五郎が継いでおります」
「又五郎?……あの小間使いか」
「えぇ、又五郎はよく務める男で、父上と家老様もその仕事をよく買っておりましたから。そんなことよりも、その風体からして、ずっとそこらをさ迷っておられるようですな」『鬼』は微笑したまま何もいわない。「聴くところによると、かなり多くの人を斬ってきたのだとか」
不気味に微笑む『鬼』はいったーー
「だとしたら、何だ? 殺すか?」
牛野は刀を抜いた。『鬼』も。だが、結果はいうまでもなく、『鬼』の圧勝だった。だが、牛野が生きているのは、『鬼』が瞬間的に棟で牛野の腹を打ったからだった。
「純粋な疑問だから余り気を悪くしないで欲しいのだが、何故、その兄上は主を斬らなかったのだろう」
大鳥が疑問を口にすると、牛野はーー
「わかりませぬ。ただ、本人がいうには、兄弟が久しぶりに再会したことへの餞別とのことだったらしいですーー」
「鬼の目にも涙、か」
「……そうだったのでしょうか」
複雑な表情を浮かべつつ、牛野は更に続ける。牛野はそれから兄である『鬼』のことを訊いて回った。それによれば、『鬼』は、その当時、盗賊の用心棒となっており、暴虐の限りを尽くしているとのことだった。
「鬼を止めるには、闇に潜む鬼の力が必要だった。そこで色々調べて回った結果、大鳥様の元にたどり着き、頼みを仲介して頂いたのです」
「そうだったか。にしてもーー」
「大鳥様!」嗄れた女性の声。大鳥と牛野が振り返ると、そこには両手で桶を抱えたお卯乃の姿がある。「本当に、よろしいのでしょうか……?」
「……あぁ。主にはうちの息子たちが迷惑を掛けた。その息子たちも外へ出すところだし、ひとりであのような森の中で暮らすのは不便だろう。ならば、拙者の元で働いて欲しいのだ」
「それは、構わねぇですけんど……」
不安そうに顔を歪めるお卯乃に、大鳥は笑顔で応えるーー
「なに、心配するな。何かあれば、ここにいる牛野や、奉公人たち、或いは女中たちに申せば何とかなるだろう。それに、拙者は主に何か悪いことをしようなどとは考えておらん。だから、是非信頼して欲しい」
「……わかりました」
そういってお卯乃は屋敷の中へと潜っていく。その顔にはまだ隠しきれない不安が宿っているようにふたりには見えたはずだ。
「おことばですが」牛野。「どうして、わたしたちがあの老婆を虐げないといえるので?」
「それは、あの老婆が酷い目に遭えば、今度は『本物の鬼』が我々を天誅しに来るだろうから、な」
「……それもそうですね」
「牛野、兄上と源之助殿から頂いた御命、大切にするのだぞ」
牛野は頷くーー炎が揺れるように。
【続く】