【丑寅は静かに嗤う~兄妹】
文字数 2,620文字
盛る炎は屋敷を包み飲み込んでいた。
四つの小さなまなこが見詰めるは、炎上する屋敷。水晶のような目玉に屋敷が反射した。小さなふたつのまなこは涙で溢れ、大きなふたつのまなこは何か強烈な感情を思わせるような真っ直ぐな視線を向けていた。
ことはその半刻前に起きた。
屋敷の中が血で染まるのに、そう時間は掛からなかった。控えの武士たちに仕いの女たち、みんな死んでしまった。土足で踏み込んで来た盗賊たちが不意をついて殺してしまった。
ただ、控えのモノたちの悲鳴は、主である旗本とその女房の目を覚まさせるには充分過ぎるほどにうるさかった。
旗本は寝起きとは思えないほどに素早く起き上がると、刀掛けに掛けてあった愛刀を手に取り、鞘を投げ棄てた。
女房は刀掛けのうしろにある壁に掛けてあった薙刀を手にし、臨戦体勢となった。
ふたりとも荒い息を吐き、何処から来るであろう侵入者に備えた。
来ない。
微かにモノ音は聴こえるが、ド派手に立ち回ったり、喧しかったりということはなかった。震える切先が二本。やけつくような吐息がふたつ。畳を踏み締めるギシッという音が緊張感を煽っていた。空気が振動していた。
無音が何処までも鳴り響いていた。
微かな呼吸の音がこだまし、騒がしい。旗本は正面にある月明かりに照らされた障子と右横にある襖に、交互に視線をやる。
湿った空気がふたりの皮膚に張りついた。
ふと、障子の向こうで灯りが灯った。
旗本と女房は得物を握る手をグッと締めた。
突然、襖がぶっ飛んだ。
同時に数人の丑と寅の面の者たちが雪崩れ込んだ。旗本は意表をつかれつつも、それらを三人ほど斬り、女房はひとりを突いて殺した。
だが、一瞬の隙が命取りだった。
突如、旗本の右腕が落ちた。呻き声を上げる旗本。右腕は刀を握ったまま畳の上に転がる。
女房がハッとした時にはもう遅い。薙刀は抑えられ、女房はすぐさま手下たちに拘束されてしまった。女房が旗本に声を掛ける。旗本は、大丈夫といいつつもかなり苦しそう。
障子が開いた。その奥から丑と寅の面の手下を引き連れた、死神のように肩をダランと落として揺れる者の姿が現れた。
丑寅。
面の奥の目玉はギョロッと剥かれている。まるで獲物を見つけたヘビのようだった。袴は穿かず、着流し一本。大きな身体にはよく映えた。丑寅はゆっくりと刀を抜いた。
障子がピシャリと閉められた。
ーーそんな光景を、縁の下で震えながら見詰めているふたりの子供の姿があった。
ひとりは男の子で、もうひとりは女の子だ。
男の子は震える女の子の身体をしっかりと抱き、障子の向こうで行われている陰惨な光景の影を見詰め続けていた。
絶叫が轟いた。
ふたつの絶叫が轟いた。
男と女、ふたつの絶叫だった。
障子紙は血で赤黒く染まり、ふたつの人影が苦しみながら蠢く姿があった。
女の子は顔を臥し、男の子は身体を震わしながらも、女の子を庇うように強く強く抱き締めた。男の子の顔は恐怖を感じつつも、今そこにある現実をしっかりと見据えようとしているように見えた。
乱れた足音が響いた。その足音は次第に疎らとなり、気づけばまったく聴こえなくなった。
糸が張ったような無音が内耳を突いた。
男の子はゴクリと息を飲んだ。右へ左へ視線をやった。誰もいない。誰の姿もない。男の子はゆっくりと縁の下から出ようとした。
女の子が男の子の着物の袖を掴んだ。
「兄上……、行かないで下され……」その声は震えていた。「ひとりにしないで……」
男の子は女の子をギュッと抱き締めた。それから何かを呟き、ふたり一緒に縁の下を出た。
向かいの縁の下から旗本と女房が寝ている部屋までは大した距離もない。だが、この時ばかりは、とてつもない距離を感じたことだろう。ジリジリと前へ進み、部屋の前まで来た時には、男の子の全身は汗まみれとなっていた。
男の子は、ゆっくりと障子に手を掛けた。それから静かに障子を少しだけ開き、中の様子を覗き見た。と、そこには変わり果てた旗本とその女房の姿があった。
男の子は目を見開き、ハッと吐息を漏らした。女の子はどうしたのか訊ね、中を覗こうとした。が、それは男の子の手によって阻止された。見てはいけない。中に広がるは陰惨な悲劇のみ。まだ見ぬ死がそこにある。
男の子は女の子の肩をギュッと抱き寄せた。指が着物越しに女の子の肌へと食い込む。そして、その力が強すぎたか、女の子は、痛いと声を上げた。男の子は咄嗟に謝り、手を離した。
背後で足音がした。
男の子の頬から汗が垂れた。瞳孔は大きく開き、息は浅くなっていた。
女の子はうしろを向いた。男の子はそれを止めようとしたが、時は既に遅かった。
丑寅。
丑と寅の折衷面を被った亡霊のような存在がすぐそこに立ち尽くしていた。他の仲間の姿は何処にもなかった。今、ここにいるのは、男の子と女の子と、丑寅の三人だけだった。
男の子は女の子を庇い、前へ出た。とはいえ、刀も何も持っていない男の子は、その体格差も相まって不利なのはいうまでもなかった。
「見たのか?」丑寅はいった。
「見た」男の子は恐怖を圧し殺しつつ威風堂々とした姿勢で答えた。
「そうか……」
丑寅は子供ふたりに歩み寄った。ふたりの身体が締め付けられるように強張った。が、丑寅はふたりの前に立つと男の子に対して、
「小わっぱ、両の手を出せ」
男の子は震えながら両の手を器状にして差し出した。と、丑寅は懐をガサゴソと探り、何かを取り出した。巾着袋だった。
丑寅は巾着袋から幾分かの小判、銭を取り出すと、男の子のほうへと手を伸ばした。その裾から見えたのは、遠島された者に刻まれる刺青。男の子は、それを見逃さなかった。
丑寅は握った銭を男の子の手の上に落とし、
「悪かったな……。これで、妹と共に美味いモンでも喰え……」
銭がかち合う甲高い音。
カチンという天まで昇りそうな音。
ーー大人になった桃川の頭では今でもその音がこだましている。そして、村に来て少し経った頃に良顕から銭を渡された時の光景を見る。
『これで、酒でも飲んで来なさい』
銭が手の上でかち合う音。銀貨と銅貨がかち合う音。音は違えど、記憶にはこびりつく。
『これで、美味いモノでも喰え』
金銀銅、すべてが入り交じり手の上でかち合う音。ふたつの過去の記憶が交差する。重なり合う。そして、それらはひとつとなった。
桃川は声を上げて笑い出した。
【続く】
四つの小さなまなこが見詰めるは、炎上する屋敷。水晶のような目玉に屋敷が反射した。小さなふたつのまなこは涙で溢れ、大きなふたつのまなこは何か強烈な感情を思わせるような真っ直ぐな視線を向けていた。
ことはその半刻前に起きた。
屋敷の中が血で染まるのに、そう時間は掛からなかった。控えの武士たちに仕いの女たち、みんな死んでしまった。土足で踏み込んで来た盗賊たちが不意をついて殺してしまった。
ただ、控えのモノたちの悲鳴は、主である旗本とその女房の目を覚まさせるには充分過ぎるほどにうるさかった。
旗本は寝起きとは思えないほどに素早く起き上がると、刀掛けに掛けてあった愛刀を手に取り、鞘を投げ棄てた。
女房は刀掛けのうしろにある壁に掛けてあった薙刀を手にし、臨戦体勢となった。
ふたりとも荒い息を吐き、何処から来るであろう侵入者に備えた。
来ない。
微かにモノ音は聴こえるが、ド派手に立ち回ったり、喧しかったりということはなかった。震える切先が二本。やけつくような吐息がふたつ。畳を踏み締めるギシッという音が緊張感を煽っていた。空気が振動していた。
無音が何処までも鳴り響いていた。
微かな呼吸の音がこだまし、騒がしい。旗本は正面にある月明かりに照らされた障子と右横にある襖に、交互に視線をやる。
湿った空気がふたりの皮膚に張りついた。
ふと、障子の向こうで灯りが灯った。
旗本と女房は得物を握る手をグッと締めた。
突然、襖がぶっ飛んだ。
同時に数人の丑と寅の面の者たちが雪崩れ込んだ。旗本は意表をつかれつつも、それらを三人ほど斬り、女房はひとりを突いて殺した。
だが、一瞬の隙が命取りだった。
突如、旗本の右腕が落ちた。呻き声を上げる旗本。右腕は刀を握ったまま畳の上に転がる。
女房がハッとした時にはもう遅い。薙刀は抑えられ、女房はすぐさま手下たちに拘束されてしまった。女房が旗本に声を掛ける。旗本は、大丈夫といいつつもかなり苦しそう。
障子が開いた。その奥から丑と寅の面の手下を引き連れた、死神のように肩をダランと落として揺れる者の姿が現れた。
丑寅。
面の奥の目玉はギョロッと剥かれている。まるで獲物を見つけたヘビのようだった。袴は穿かず、着流し一本。大きな身体にはよく映えた。丑寅はゆっくりと刀を抜いた。
障子がピシャリと閉められた。
ーーそんな光景を、縁の下で震えながら見詰めているふたりの子供の姿があった。
ひとりは男の子で、もうひとりは女の子だ。
男の子は震える女の子の身体をしっかりと抱き、障子の向こうで行われている陰惨な光景の影を見詰め続けていた。
絶叫が轟いた。
ふたつの絶叫が轟いた。
男と女、ふたつの絶叫だった。
障子紙は血で赤黒く染まり、ふたつの人影が苦しみながら蠢く姿があった。
女の子は顔を臥し、男の子は身体を震わしながらも、女の子を庇うように強く強く抱き締めた。男の子の顔は恐怖を感じつつも、今そこにある現実をしっかりと見据えようとしているように見えた。
乱れた足音が響いた。その足音は次第に疎らとなり、気づけばまったく聴こえなくなった。
糸が張ったような無音が内耳を突いた。
男の子はゴクリと息を飲んだ。右へ左へ視線をやった。誰もいない。誰の姿もない。男の子はゆっくりと縁の下から出ようとした。
女の子が男の子の着物の袖を掴んだ。
「兄上……、行かないで下され……」その声は震えていた。「ひとりにしないで……」
男の子は女の子をギュッと抱き締めた。それから何かを呟き、ふたり一緒に縁の下を出た。
向かいの縁の下から旗本と女房が寝ている部屋までは大した距離もない。だが、この時ばかりは、とてつもない距離を感じたことだろう。ジリジリと前へ進み、部屋の前まで来た時には、男の子の全身は汗まみれとなっていた。
男の子は、ゆっくりと障子に手を掛けた。それから静かに障子を少しだけ開き、中の様子を覗き見た。と、そこには変わり果てた旗本とその女房の姿があった。
男の子は目を見開き、ハッと吐息を漏らした。女の子はどうしたのか訊ね、中を覗こうとした。が、それは男の子の手によって阻止された。見てはいけない。中に広がるは陰惨な悲劇のみ。まだ見ぬ死がそこにある。
男の子は女の子の肩をギュッと抱き寄せた。指が着物越しに女の子の肌へと食い込む。そして、その力が強すぎたか、女の子は、痛いと声を上げた。男の子は咄嗟に謝り、手を離した。
背後で足音がした。
男の子の頬から汗が垂れた。瞳孔は大きく開き、息は浅くなっていた。
女の子はうしろを向いた。男の子はそれを止めようとしたが、時は既に遅かった。
丑寅。
丑と寅の折衷面を被った亡霊のような存在がすぐそこに立ち尽くしていた。他の仲間の姿は何処にもなかった。今、ここにいるのは、男の子と女の子と、丑寅の三人だけだった。
男の子は女の子を庇い、前へ出た。とはいえ、刀も何も持っていない男の子は、その体格差も相まって不利なのはいうまでもなかった。
「見たのか?」丑寅はいった。
「見た」男の子は恐怖を圧し殺しつつ威風堂々とした姿勢で答えた。
「そうか……」
丑寅は子供ふたりに歩み寄った。ふたりの身体が締め付けられるように強張った。が、丑寅はふたりの前に立つと男の子に対して、
「小わっぱ、両の手を出せ」
男の子は震えながら両の手を器状にして差し出した。と、丑寅は懐をガサゴソと探り、何かを取り出した。巾着袋だった。
丑寅は巾着袋から幾分かの小判、銭を取り出すと、男の子のほうへと手を伸ばした。その裾から見えたのは、遠島された者に刻まれる刺青。男の子は、それを見逃さなかった。
丑寅は握った銭を男の子の手の上に落とし、
「悪かったな……。これで、妹と共に美味いモンでも喰え……」
銭がかち合う甲高い音。
カチンという天まで昇りそうな音。
ーー大人になった桃川の頭では今でもその音がこだましている。そして、村に来て少し経った頃に良顕から銭を渡された時の光景を見る。
『これで、酒でも飲んで来なさい』
銭が手の上でかち合う音。銀貨と銅貨がかち合う音。音は違えど、記憶にはこびりつく。
『これで、美味いモノでも喰え』
金銀銅、すべてが入り交じり手の上でかち合う音。ふたつの過去の記憶が交差する。重なり合う。そして、それらはひとつとなった。
桃川は声を上げて笑い出した。
【続く】