【冷たい墓石で鬼は泣く~弐拾捌~】

文字数 1,110文字

 屋敷を飛び出して一年が経っていた。

 わたしは江戸で長屋を借り、何とかとある剣術の道場の師範代に収まって細々と暮らしていた。 師範代といえば聞こえはいいが、それは所詮わたしの持つ牛野という名前に与えられた一種の特権であったといってしまっていい。

 わたしが人に剣術を教えられるワケがない。かつていた道場では中堅程度の腕しかなかったわたしが、技術や能力に関して人にあれこれ指導できるワケがなかった。

 師範には牛野の名前を告げていた。最初はちょっと道場の門を叩いただけで、新しく江戸へ越して来たから稽古をつけて頂きたかっただけなのに、名前を告げるとそれまで神妙な表情だった師範が目を見開き、房州のほうにあるわたしの生家のほうのことを訊ねてきた。

 わたしはウソをつくことなく、そうだと答えた。が、それがよろしくなかった。牛野家の人間は武術に関して非常に手練れであるーーそんなウワサが何処からか立っていたらしい。そして、牛野家の子息が剣術では右に出る者がいないと評判だとも聞かされた。

 剣術で右に出る者がいないほどの腕を持った牛野家の子息。それは紛れもない馬乃助のことだった。馬乃助のウワサはどうやら江戸まで広まっていたらしい。

 では、わたしはーーわたしは?

 わたしに関するウワサは出回っているのか?

 出回っているとしたら、ろくなモノではないだろう。だが、こうして牛野の名前を告げただけで一道場の師範が目を剥いて驚くというのだから、もしかしたらわたしに関するウワサはまったくといっていいほど通っておらず、むしろ馬乃助の話がひとり歩きしているのかもしれない。

 だとしたら、何と恥ずかしく屈辱的なことか。

 しかし、わたしは牛野の名を隠さずに名乗らざるを得なくなってしまった。牛野家の人間ならば門下生でなく師範代をお願いしたい、と打診されたからだった。本来ならばこのような屈辱的な話を承けるはずはないが、わたしも生きて行かなければならなかった。

 わたしは貧困に負けたのだった。 

 わたしはそれ以降、道場の師範代として収まり、月々の稽古料を幾ばくか頂いて暮らしていた。ひもじいかといわれるとひもじかったかもしれない。だが、生活自体は悪くはなかった。むしろ、わたしが未だに牛野という呪いに掛けられているーーそのことが頭を過って仕方なかった。

 師範代になって数ヶ月が経っていた。

 その時には既に木刀のかち合う音が耳をこだまして離れなくなっていた。床には無数の汗が垂れて、部屋中の熱気は床で弾けた汗を一瞬で空気へと変えてしまわんほどの熱気に慣れ始め、こんな暮らしも悪くはないかと思い始めたところだった。

 だが、嵐は突然にやってきたーー

 【続く】
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登場人物紹介

どうも!    五条です!


といっても、作中の登場人物とかではなくて、作者なんですが。


ここでは適当に思ったことや経験したことをダラダラと書いていこうかな、と。


ま、そんな感じですわ。

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