【西陽の当たる地獄花~参拾玖~】
文字数 2,179文字
水底に漂っているような意識。
すべてが揺らめいていて、視界はボンヤリ。聴こえる音もすべてがくぐもっているようだ。目を覚ましても、まだ何処か夢見心地。現実と夢想が同居しているような桃源がそこにある。
まるで生きたまま土左衛門となって波に揺られているような心地よさがそこにある。
何かが聴こえる。
その声はくぐもっていて具体的に何といっているかはわからなかったが、その声も意識が明朗になっていくにつれ、その輪郭を明確にしていく。牛馬はダルそうに耳を傾ける。
「牛馬様ッ!」こころが張り裂けんばかりの悲鳴が轟く。
寝起きの牛馬はかったるそうに声のしたほうへと目を向けようとする。
が、違和感がそこにある。
全身が引っ張られているような、そんな窮屈さ。牛馬は腕を、脚を躍動させようとする。が、それは叶わぬ話だ。
動けない。
牛馬の身体は動かなくなっている。
見た感じ、キズはない。手負いで身体が動かなくなっているというワケではないようだ。縛られているということでもなさそうだ。縛られているにしては、身体を束縛する不快感、束縛感がなさすぎた。
「どういうことだ?」牛馬は目で声のしたほうを追う。
宗顕。猿の姿となった宗顕の姿がそこにある。だが、その格好は異様そのモノで、大の字の形で吊り下げられている、そんな感じ。
「テメェ、そんなところで何してやがる」
牛馬がそう訊ねるのも無理はない。宗顕は牛馬よりも高い位置で浮かんでいる。それも大の字の姿のまま、これといった動きも見せずに。
「それどころではありません!」宗顕は泣きじゃくるようにいう。「周りを見て下さい!」
牛馬は不満げに声を上げ、辺りを見渡す。
浮いている。
身体が宙を浮いている。
しかし、身体の自由は利かない。牛馬は悪態をつきながらもがく、もがくーーだが、その努力は空を掴もうとするように無為に終わる。
「どうなってやがる……」
「もっと、目を凝らしてみて下さい……」声を震わせて宗顕はいう。
牛馬は苛立ちを表に出しながらも、自分の身の回りに目を凝らす。じっくりと。集中力をもって。ボヤけた視界。辺りは暗く、その実態はよくわからない。
「こんなとこで目を凝らして何になる……」
ボヤく牛馬。目を細めてじっくりと先の視界に焦点を合わせようとする。
覚醒したばかりだと視界も定まらない。だが、それも闇の中では定まるべき対象もない。とはいえ、宗顕は周りをよく見ろという。
何かが牛馬たちを狙っている。恐らくそれはないだろう。ならば、とっくにふたりは殺されているはずだし、もし生かすとするならば、生かす理由は何があろうか。
その時、何かが輝く。
珠のような輝きだった。牛馬はより一層、何かが光った場所に目を凝らす。少しずつ視界が定まって行く。と、そこには、
何か線のようなモノが微かに見える。
線。だが、光ったモノは珠のような塊だった。線と珠、そこに何の関係がある。そもそも一瞬見えた珠のような光は一体。
突如、牛馬は額と目許に突き刺すような冷たさを感じる。痛みを伴うような冷たさは、少しずつ温さを帯びて目許から頬、頬から顎へと垂れて行く。牛馬は垂れた何かを、舌を伸ばして舐め取る。
味はない、においもない、牛馬はいう。
それはただの水のようだ。それも井戸の底に貯まった冷たく澄んだ水のよう。
上。まったくの盲点。そもそも、暗闇の中で自分の四肢や宗顕の姿を目視出来ること自体が可笑しかったのだ。牛馬は微かに頭を持ち上げ、出来る限り黒目を上へと動かす。
だが、そこにあるのは何処までも広がる無限の闇ばかりだ。
牛馬は疑念を表情として顕にする。が、すぐに何かに気づき、今度はゆっくりと頭を微かに垂らし、視線を下へと落とす。
ある。
光が確かにそこにある。
眩しい。牛馬は目を細める。極楽から『獄楽』へと変わって以降、まったく見られることのなかった純然たる光だ。
上から落ちる水滴に下から射す光。少なくともこの上にあるのは、闇の世界であり、下にあるのは光の……。そうだ。そもそも今は天地がひっくり返った状態。とすると、下にあるのは地ではなく天の世界。
だとしたら、牛馬と宗顕は今、完全に宙に浮いていることになる。しかし、何故。その答えを握るのは、光る珠と線だ。
光る珠と糸、牛馬は唐突に目を見開く。
生前の記憶、まだ子供の頃の話だった。睦月、雨が降り注ぐ薄暗い朝のことだった。
少年牛馬は剣術の道場に通うため、雨の中を傘をさして歩いていた。ぬかるんだ地面に草履が飲み込まれ、足許は既に泥だらけ。だが、そんな淀んだ足許とは裏腹に、辺りは美しい藍色の紫陽花が包み込んでいた。
雨で濡れ、弾けた紫陽花は美しさと妖艶さを漂わせていた。牛馬は思わず足を止め、紫陽花に見入っていた。と、そこに光る珠と糸が見えた。美しい紫陽花には似合わない禍々しさと業の強さが渦巻く珠と糸ーー
現実が甘ったるい過去の風景を牛馬の頭から吹き飛ばす。牛馬は暗闇の中に視線を散らした。下だ。光を追うのだ。光る珠に線。
「蜘蛛の巣……」牛馬は呟く。
牛馬の視界の隅で何かが動く。
息を吐く牛馬。吐息が白く凝固し霧散する。牛馬の目が血走る。牛馬の黒目が何かを捉える。と、そこにいたのはーー
蜘蛛とゴキブリ、ハエ、蚊を折衷したようなおぞましい姿をした化け物だった。
【続く】
すべてが揺らめいていて、視界はボンヤリ。聴こえる音もすべてがくぐもっているようだ。目を覚ましても、まだ何処か夢見心地。現実と夢想が同居しているような桃源がそこにある。
まるで生きたまま土左衛門となって波に揺られているような心地よさがそこにある。
何かが聴こえる。
その声はくぐもっていて具体的に何といっているかはわからなかったが、その声も意識が明朗になっていくにつれ、その輪郭を明確にしていく。牛馬はダルそうに耳を傾ける。
「牛馬様ッ!」こころが張り裂けんばかりの悲鳴が轟く。
寝起きの牛馬はかったるそうに声のしたほうへと目を向けようとする。
が、違和感がそこにある。
全身が引っ張られているような、そんな窮屈さ。牛馬は腕を、脚を躍動させようとする。が、それは叶わぬ話だ。
動けない。
牛馬の身体は動かなくなっている。
見た感じ、キズはない。手負いで身体が動かなくなっているというワケではないようだ。縛られているということでもなさそうだ。縛られているにしては、身体を束縛する不快感、束縛感がなさすぎた。
「どういうことだ?」牛馬は目で声のしたほうを追う。
宗顕。猿の姿となった宗顕の姿がそこにある。だが、その格好は異様そのモノで、大の字の形で吊り下げられている、そんな感じ。
「テメェ、そんなところで何してやがる」
牛馬がそう訊ねるのも無理はない。宗顕は牛馬よりも高い位置で浮かんでいる。それも大の字の姿のまま、これといった動きも見せずに。
「それどころではありません!」宗顕は泣きじゃくるようにいう。「周りを見て下さい!」
牛馬は不満げに声を上げ、辺りを見渡す。
浮いている。
身体が宙を浮いている。
しかし、身体の自由は利かない。牛馬は悪態をつきながらもがく、もがくーーだが、その努力は空を掴もうとするように無為に終わる。
「どうなってやがる……」
「もっと、目を凝らしてみて下さい……」声を震わせて宗顕はいう。
牛馬は苛立ちを表に出しながらも、自分の身の回りに目を凝らす。じっくりと。集中力をもって。ボヤけた視界。辺りは暗く、その実態はよくわからない。
「こんなとこで目を凝らして何になる……」
ボヤく牛馬。目を細めてじっくりと先の視界に焦点を合わせようとする。
覚醒したばかりだと視界も定まらない。だが、それも闇の中では定まるべき対象もない。とはいえ、宗顕は周りをよく見ろという。
何かが牛馬たちを狙っている。恐らくそれはないだろう。ならば、とっくにふたりは殺されているはずだし、もし生かすとするならば、生かす理由は何があろうか。
その時、何かが輝く。
珠のような輝きだった。牛馬はより一層、何かが光った場所に目を凝らす。少しずつ視界が定まって行く。と、そこには、
何か線のようなモノが微かに見える。
線。だが、光ったモノは珠のような塊だった。線と珠、そこに何の関係がある。そもそも一瞬見えた珠のような光は一体。
突如、牛馬は額と目許に突き刺すような冷たさを感じる。痛みを伴うような冷たさは、少しずつ温さを帯びて目許から頬、頬から顎へと垂れて行く。牛馬は垂れた何かを、舌を伸ばして舐め取る。
味はない、においもない、牛馬はいう。
それはただの水のようだ。それも井戸の底に貯まった冷たく澄んだ水のよう。
上。まったくの盲点。そもそも、暗闇の中で自分の四肢や宗顕の姿を目視出来ること自体が可笑しかったのだ。牛馬は微かに頭を持ち上げ、出来る限り黒目を上へと動かす。
だが、そこにあるのは何処までも広がる無限の闇ばかりだ。
牛馬は疑念を表情として顕にする。が、すぐに何かに気づき、今度はゆっくりと頭を微かに垂らし、視線を下へと落とす。
ある。
光が確かにそこにある。
眩しい。牛馬は目を細める。極楽から『獄楽』へと変わって以降、まったく見られることのなかった純然たる光だ。
上から落ちる水滴に下から射す光。少なくともこの上にあるのは、闇の世界であり、下にあるのは光の……。そうだ。そもそも今は天地がひっくり返った状態。とすると、下にあるのは地ではなく天の世界。
だとしたら、牛馬と宗顕は今、完全に宙に浮いていることになる。しかし、何故。その答えを握るのは、光る珠と線だ。
光る珠と糸、牛馬は唐突に目を見開く。
生前の記憶、まだ子供の頃の話だった。睦月、雨が降り注ぐ薄暗い朝のことだった。
少年牛馬は剣術の道場に通うため、雨の中を傘をさして歩いていた。ぬかるんだ地面に草履が飲み込まれ、足許は既に泥だらけ。だが、そんな淀んだ足許とは裏腹に、辺りは美しい藍色の紫陽花が包み込んでいた。
雨で濡れ、弾けた紫陽花は美しさと妖艶さを漂わせていた。牛馬は思わず足を止め、紫陽花に見入っていた。と、そこに光る珠と糸が見えた。美しい紫陽花には似合わない禍々しさと業の強さが渦巻く珠と糸ーー
現実が甘ったるい過去の風景を牛馬の頭から吹き飛ばす。牛馬は暗闇の中に視線を散らした。下だ。光を追うのだ。光る珠に線。
「蜘蛛の巣……」牛馬は呟く。
牛馬の視界の隅で何かが動く。
息を吐く牛馬。吐息が白く凝固し霧散する。牛馬の目が血走る。牛馬の黒目が何かを捉える。と、そこにいたのはーー
蜘蛛とゴキブリ、ハエ、蚊を折衷したようなおぞましい姿をした化け物だった。
【続く】