【いろは歌地獄旅~画竜点睛~】
文字数 2,138文字
何かに取り組む時はすべてが終わるその時まで気を抜いてはならないーー
これは当たり前の話だ。だが、人間、自分の勝ちを悟った時に詰めの甘さが出てしまうことはどうにも仕方ないのかもしれない。
だが、彼は違う。どんな状況であっても傲ったりすることはないーーと本人ではいっている。
今、彼は敵を追い詰めている。彼の背後にはいくつもの兵士が待ち構えている。そして、敵陣には、もはや敵の武将と多少の軍勢しか残っていない。
もはや勝ちは約束されたようなモノだった。
「どうした? 降参か?」
彼がいう。だが、相手はニコニコとして、
「いやぁ、強いですねぇ……」
とのらりくらりといって見せる。何とも不気味な姿勢。敗けている人間のことばと調子とはとても思えない。彼はそんな相手に負けず劣らずの笑顔を見せてやり、
「随分と余裕だな。背水の陣を敷いて、まだ尚策があるとでもいいたげだな」
「いやぁ、そんなモノはありませんよ」
彼は口をキュッと結んだ。だが、敗北し掛けている相手はより一層顔に笑みを刻む。
彼は様子を見た。特に敵陣営に隠しだねがあるようには思えなかった。そして、残る敵も他の兵卒が制圧している。
「降参か?」
彼は訊ねる。ただし、その表情は緊張感に満ちている。先程からの相手の余裕そうな表情が彼から余裕を奪っていた。それを裏付けるかのように、相手は満更でもなさそうにして、
「はい」
と答えた。終わった。戦いは終わった。この戦の中でたくさんの兵卒が死んだ。幾多もの犠牲の元に、この戦いは終結したのだーー
「いやぁ、お強いですねぇ」
相手が声を上げて笑った。
「いえいえ、こちらも勝ちはしましたが、何か納得が行かなくてですねぇ」
彼はいった。そして、今一度、兵卒たちが殺し合った『盤面』に目を落とした。
「いえいえ、お強いじゃないですか。駒の動かし方といい、まるでプロみたいですよ」
相手は止まらない。先程から彼のことを褒め称えてはいるが、彼はそれに対して愛想笑いを浮かべることなく、首を傾げている。
「うーん、そうかなぁ……」
彼は腕を組み、盤面を見る。確かに駒数はこちらのほうが多く、流れも優勢ではあった。王手も打った。だが、何なのだ、この違和感は。
「今日はありがとうございました」相手が立ち上がった。「わたしはこれにて失礼します。また、いい将棋を打ちましょうね」
そういって相手は彼の前から姿を消した。彼は相手が去った後も、じっと盤面を眺め続けていた。するとーー
「あれ、どうしたんですか?」
将棋場の店主が声を掛けると、彼はーー
「いやぁ、勝ちはしたけど、どうにも腑に落ちなくて」
「へぇ、何がですか?」
「それがわからないんです」
「そうなんですか」店主は盤面を見、目を見開いた。「……これ、相手は誰ですか?」
彼は相手の名前を知らなかった。だが、その容姿の特徴を伝えると店主はーー
「ちょっと、来て頂けますか?」そういうと、アルバイトの店員らしきやる気なさそうな青年に、「ちょっと奥へ行くから、ここ頼む」
青年は気だるそうに相槌を打った。彼はその場を後にしようとする店主に首を傾げた。が、店主に再度来るよういわれ、席を立って店主についていった。
彼が連れて行かれたのは監視カメラのある店の奥の部屋だった。店主は将棋板と駒をカメラの映像が映るディスプレイの前に置き、監視カメラの映像をいじり録画分を巻き戻すと、彼と相手が対局している映像を呼び起こした。
「遠目で見辛いが、動きをこちらでおおよそ再現してみよう」
店主はそういって、映像に合わせつつ、彼に話を聞きながら駒の動きを再現していった。彼にはその真意がわからなかった。
だが、対局も序盤の序盤に、店主は駒を動かして首を傾げると、
「んー、ほんとにここに打ったの?」
ということがあった。そして、それは一度だけでなく、二度も三度も。
「可笑しいなぁ……」
「何が、ですか?」
「いやぁ、あの人がこんな変な打ち方をするなんて、ね。にしてはケアレスミスのような打ち筋が多すぎる」
「あの人はそんな強い方なんですか?」
「うん、まぁ……」
店主はそういいつつ、映像に合わせて駒を動かし続けた。が、突然、ハッとした。
「……キミ、負けてるよ」
「は?」彼はワケもわからず口を開いた。「どういうことですか?」
彼が訊ねると、店主は何手も前の駒の配置に戻すと、その動きを詳細に説明し始めた。
「ほら、こうやって、こうやって……。一見すると相手に圧されて敗けているように見えるけど、ほら、ここ。詰んでるよ……」
店主は盤面を人差し指でトントン叩くといった。彼はことばを失った。
敗けているーー本当に敗けたのは自分だった。だが、自分はそんなことにも気づかずに、相手もそれを指摘せずに。そう、彼は完全に勝ちを譲って貰ったということになる。
彼は歯ぎしりをし、悔しそうに唸り声を上げた。屈辱的な勝利。
最後の仕上げ、画竜点睛を欠くことは勝負に敗けたも同然だ。だが、最後の仕上げどころか、自分ははじめから将棋板という盤面の上で踊らされていた憐れなピエロでしかなかった。
彼はことばを失った。相手は画竜点睛を欠いたのではない。
はじめから勝つ気がなかったのだ。
屈辱が涙となって頬を伝った。
これは当たり前の話だ。だが、人間、自分の勝ちを悟った時に詰めの甘さが出てしまうことはどうにも仕方ないのかもしれない。
だが、彼は違う。どんな状況であっても傲ったりすることはないーーと本人ではいっている。
今、彼は敵を追い詰めている。彼の背後にはいくつもの兵士が待ち構えている。そして、敵陣には、もはや敵の武将と多少の軍勢しか残っていない。
もはや勝ちは約束されたようなモノだった。
「どうした? 降参か?」
彼がいう。だが、相手はニコニコとして、
「いやぁ、強いですねぇ……」
とのらりくらりといって見せる。何とも不気味な姿勢。敗けている人間のことばと調子とはとても思えない。彼はそんな相手に負けず劣らずの笑顔を見せてやり、
「随分と余裕だな。背水の陣を敷いて、まだ尚策があるとでもいいたげだな」
「いやぁ、そんなモノはありませんよ」
彼は口をキュッと結んだ。だが、敗北し掛けている相手はより一層顔に笑みを刻む。
彼は様子を見た。特に敵陣営に隠しだねがあるようには思えなかった。そして、残る敵も他の兵卒が制圧している。
「降参か?」
彼は訊ねる。ただし、その表情は緊張感に満ちている。先程からの相手の余裕そうな表情が彼から余裕を奪っていた。それを裏付けるかのように、相手は満更でもなさそうにして、
「はい」
と答えた。終わった。戦いは終わった。この戦の中でたくさんの兵卒が死んだ。幾多もの犠牲の元に、この戦いは終結したのだーー
「いやぁ、お強いですねぇ」
相手が声を上げて笑った。
「いえいえ、こちらも勝ちはしましたが、何か納得が行かなくてですねぇ」
彼はいった。そして、今一度、兵卒たちが殺し合った『盤面』に目を落とした。
「いえいえ、お強いじゃないですか。駒の動かし方といい、まるでプロみたいですよ」
相手は止まらない。先程から彼のことを褒め称えてはいるが、彼はそれに対して愛想笑いを浮かべることなく、首を傾げている。
「うーん、そうかなぁ……」
彼は腕を組み、盤面を見る。確かに駒数はこちらのほうが多く、流れも優勢ではあった。王手も打った。だが、何なのだ、この違和感は。
「今日はありがとうございました」相手が立ち上がった。「わたしはこれにて失礼します。また、いい将棋を打ちましょうね」
そういって相手は彼の前から姿を消した。彼は相手が去った後も、じっと盤面を眺め続けていた。するとーー
「あれ、どうしたんですか?」
将棋場の店主が声を掛けると、彼はーー
「いやぁ、勝ちはしたけど、どうにも腑に落ちなくて」
「へぇ、何がですか?」
「それがわからないんです」
「そうなんですか」店主は盤面を見、目を見開いた。「……これ、相手は誰ですか?」
彼は相手の名前を知らなかった。だが、その容姿の特徴を伝えると店主はーー
「ちょっと、来て頂けますか?」そういうと、アルバイトの店員らしきやる気なさそうな青年に、「ちょっと奥へ行くから、ここ頼む」
青年は気だるそうに相槌を打った。彼はその場を後にしようとする店主に首を傾げた。が、店主に再度来るよういわれ、席を立って店主についていった。
彼が連れて行かれたのは監視カメラのある店の奥の部屋だった。店主は将棋板と駒をカメラの映像が映るディスプレイの前に置き、監視カメラの映像をいじり録画分を巻き戻すと、彼と相手が対局している映像を呼び起こした。
「遠目で見辛いが、動きをこちらでおおよそ再現してみよう」
店主はそういって、映像に合わせつつ、彼に話を聞きながら駒の動きを再現していった。彼にはその真意がわからなかった。
だが、対局も序盤の序盤に、店主は駒を動かして首を傾げると、
「んー、ほんとにここに打ったの?」
ということがあった。そして、それは一度だけでなく、二度も三度も。
「可笑しいなぁ……」
「何が、ですか?」
「いやぁ、あの人がこんな変な打ち方をするなんて、ね。にしてはケアレスミスのような打ち筋が多すぎる」
「あの人はそんな強い方なんですか?」
「うん、まぁ……」
店主はそういいつつ、映像に合わせて駒を動かし続けた。が、突然、ハッとした。
「……キミ、負けてるよ」
「は?」彼はワケもわからず口を開いた。「どういうことですか?」
彼が訊ねると、店主は何手も前の駒の配置に戻すと、その動きを詳細に説明し始めた。
「ほら、こうやって、こうやって……。一見すると相手に圧されて敗けているように見えるけど、ほら、ここ。詰んでるよ……」
店主は盤面を人差し指でトントン叩くといった。彼はことばを失った。
敗けているーー本当に敗けたのは自分だった。だが、自分はそんなことにも気づかずに、相手もそれを指摘せずに。そう、彼は完全に勝ちを譲って貰ったということになる。
彼は歯ぎしりをし、悔しそうに唸り声を上げた。屈辱的な勝利。
最後の仕上げ、画竜点睛を欠くことは勝負に敗けたも同然だ。だが、最後の仕上げどころか、自分ははじめから将棋板という盤面の上で踊らされていた憐れなピエロでしかなかった。
彼はことばを失った。相手は画竜点睛を欠いたのではない。
はじめから勝つ気がなかったのだ。
屈辱が涙となって頬を伝った。