【西陽の当たる地獄花~弐拾壱~】
文字数 2,419文字
闇は何処までも深く、地平すら見えないほどに濃い。
何処までも遠く、何処へも辿り着けないような闇ーーまるで、あらゆる生命の存在を拒絶しているような無限の黒が広がっている。
右を向いても闇、左を向いても闇、そんな中で闇に紛れた微かな光が水晶体に流れ込む。
「気がついたか」
低く五臓六腑に響き渡るような重い声音、まるで地獄の底から響いてくるような音が内耳を震わせる。
「……あ?」
起き上がる。如何にもダルそうに。頭痛が酷いのか、片手で頭を抑え、重いからだをもう片方の手で何とか起こす。半開きといっていいほど薄く開いていた目が、ハッと開く。
「猿田……、源之助……ッ!」
男は気だるさも忘れたように勢いよく起き上がる。そして、手には震え。震える手で腰に差してある長い刀に手を掛ける。
猿田源之助ーー紺色の着物に黒い袴、総髪の髪を金属の髪留めでうしろに撫で付けているその男は、男を憐れむように見下ろしている。
「テメェ、どうして……!」
男の質問に猿田源之助は顔色ひとつ変えず、
「そうか、この男は猿田源之助というのか」
猿田源之助の思いも掛けないことばに、男は絶望を見たように顔を引き吊らせる。
「テメェ、バカにしているのか?」
猿田源之助は依然として表情を変えずにいう。
「バカになどしていない。この猿田源之助という男は、主にとって最も因果の深い相手なのだろう?」
まったくといっていいほど不純さのない、動じることのない猿田源之助のひとことが、男に突き刺さる。男は、
「じゃあ、別人なのか……?」
「別人、といえば別人だ。わたしは『無』から生まれた、主が作り出した幻影だ。この猿田源之助という男も主が生前に見た姿がそのまま反映されている。わたしが猿田源之助の姿をしているのは『無』へと辿り着いた主の精神が、主の『恐怖の象徴』として猿田源之助の姿形を作り出したからに過ぎないのだ」
「おれが、猿田源之助を恐れている、だと?」
「そうだ。ある者の精神はその恐怖を魑魅魍魎とし、その果てに発狂する。ある者の精神は、てて親か母親を具現化し、果ては悲しみに泣き狂う。主は猿田源之助という男を恐れている。だからこそ、わたしは猿田源之助なのだ」
「……下らねぇ。ただひとついえるのは、つまりはテメェはここに存在してねぇってことか」
「そうだ」
「……それだったら何故おれはここにいる?」
「それは、主が極楽にて死んだからだ」
無の音がけたたましく響く。少しの沈黙を置いて、男は言い訳がましい微笑を漏らす。
「おれが死んだ、か。……そうだったな」無限の闇を仰ぐ男。「あの白装束の男ーーこの暗闇の中ですら目映く映りそうなあの男の姿は忘れねぇだろうな。……これで、因縁の相手がふたりに増えちまったのか」
男は笑う。まるで自分自身を嘲笑するかのように。だが、猿田源之助は、そんな男に同情や情けを一辺も掛けようとせず、ただただ立ち尽くし、無表情を貫いている。
「おれは、どうなるんだ?」
「どうなるか、か。どうにもならんな。この『無』の空間は彼岸の中でも最下層といっていい。いわば、極悪非道な罪人を遠島する流刑地。主は人を殺し過ぎた。本来なら『大地獄』に落ちるところを、主はこの『無の牢』へと入れられ、終わることのない孤独と苦痛に苛まれることとなる。発狂しても終わらず、自害しようとしても死ぬことのない終わることのない無限の苦痛が待っている」
「孤独で終わることのない無限の苦痛、か。テメェがおれが生み出したこころの幻影なのはわかった。だけどよ、ならテメェは何でおれの前に現れたんだ? 猿田源之助の格好をして、本当におれに恐怖心を与えるためだけにその姿になったっていうのか?」問いに答えない猿田源之助ーー男は続ける。「本当は、おれに何か頼みがあるんじゃねぇのか? じゃなきゃ、そんな姿でおれの前に現れねぇはずだ」
猿田源之助はふと息を吐く。
「……察しが良すぎて吐き気がするな。この『無』の空間が何故存在するかわかるか?」
「おれが罪人だから。加えて、神の野郎の悪趣味な嗜好だろ? あのクズは人が苦しむところを見るのが大好きだからな」
「……吐き気がする。主が極楽院で食を取ったあの広場、あそこで現世の苦しみを写し出していたように、神はあそこで食をしながら、『無』で苦しみ、発狂する者を観るのが楽しみなのだ」
「ハッ! 相変わらず気持ちの悪いジジイだな。で、おれはどうすればいいんだ?」
「『無』と同化して頂く」
男はワケもわからないといった調子で頭をボリボリ掻き、困惑してみせる。
「意味がわからんね。『無』と同化する? そりゃ『存在しない』ことと何が違うんだ?」
「存在はする。だが、『無』になるということだ。もっというならば、『無』に近づく、といったところだろうか」
「その面でそんなワケのわからんことをいわれりゃイラっと来るぜ。おれも学がねぇワケじゃねぇけどよ。勿体ぶる野郎は嫌われんぜ」
「嫌われたところで何になる。殺すか? 残念だが、主にわたしを殺すことは出来ない。わたしは存在しながら存在しないモノなのだから」
「黙れ、それ以上いうと殺すぞ」
「いったろう、わたしは主が生み出した幻影が具現化したモノだ、と。幻を斬るのは霞を斬るのと同じこと。わたしを消す方法は意図も簡単。主が『無』になればいいのだ」
「……ハッ! なら仕方ねぇな。そのうるせえ口を塞ぐためにも、『無』にならなきゃいけねぇってことか。そうなんだろ?」
「その通りだ」
「なら話は早い。で、早速『無』になるのもいいんだが、まだテメェの名を聴いてなかったな。何て呼べばいいんだよ?」
「そうだな。この者の姿の通り『サルタ』でも『ゲンノスケ』で構わぬ」
「……ケンカ売ってんのか?」
「売っておらぬ。で、主の名は?」
「……食えねぇ野郎だ」
「名は?」
「……おれは『牛馬』。極楽を血に染める西陽の当たる地獄花だ」
【続く】
何処までも遠く、何処へも辿り着けないような闇ーーまるで、あらゆる生命の存在を拒絶しているような無限の黒が広がっている。
右を向いても闇、左を向いても闇、そんな中で闇に紛れた微かな光が水晶体に流れ込む。
「気がついたか」
低く五臓六腑に響き渡るような重い声音、まるで地獄の底から響いてくるような音が内耳を震わせる。
「……あ?」
起き上がる。如何にもダルそうに。頭痛が酷いのか、片手で頭を抑え、重いからだをもう片方の手で何とか起こす。半開きといっていいほど薄く開いていた目が、ハッと開く。
「猿田……、源之助……ッ!」
男は気だるさも忘れたように勢いよく起き上がる。そして、手には震え。震える手で腰に差してある長い刀に手を掛ける。
猿田源之助ーー紺色の着物に黒い袴、総髪の髪を金属の髪留めでうしろに撫で付けているその男は、男を憐れむように見下ろしている。
「テメェ、どうして……!」
男の質問に猿田源之助は顔色ひとつ変えず、
「そうか、この男は猿田源之助というのか」
猿田源之助の思いも掛けないことばに、男は絶望を見たように顔を引き吊らせる。
「テメェ、バカにしているのか?」
猿田源之助は依然として表情を変えずにいう。
「バカになどしていない。この猿田源之助という男は、主にとって最も因果の深い相手なのだろう?」
まったくといっていいほど不純さのない、動じることのない猿田源之助のひとことが、男に突き刺さる。男は、
「じゃあ、別人なのか……?」
「別人、といえば別人だ。わたしは『無』から生まれた、主が作り出した幻影だ。この猿田源之助という男も主が生前に見た姿がそのまま反映されている。わたしが猿田源之助の姿をしているのは『無』へと辿り着いた主の精神が、主の『恐怖の象徴』として猿田源之助の姿形を作り出したからに過ぎないのだ」
「おれが、猿田源之助を恐れている、だと?」
「そうだ。ある者の精神はその恐怖を魑魅魍魎とし、その果てに発狂する。ある者の精神は、てて親か母親を具現化し、果ては悲しみに泣き狂う。主は猿田源之助という男を恐れている。だからこそ、わたしは猿田源之助なのだ」
「……下らねぇ。ただひとついえるのは、つまりはテメェはここに存在してねぇってことか」
「そうだ」
「……それだったら何故おれはここにいる?」
「それは、主が極楽にて死んだからだ」
無の音がけたたましく響く。少しの沈黙を置いて、男は言い訳がましい微笑を漏らす。
「おれが死んだ、か。……そうだったな」無限の闇を仰ぐ男。「あの白装束の男ーーこの暗闇の中ですら目映く映りそうなあの男の姿は忘れねぇだろうな。……これで、因縁の相手がふたりに増えちまったのか」
男は笑う。まるで自分自身を嘲笑するかのように。だが、猿田源之助は、そんな男に同情や情けを一辺も掛けようとせず、ただただ立ち尽くし、無表情を貫いている。
「おれは、どうなるんだ?」
「どうなるか、か。どうにもならんな。この『無』の空間は彼岸の中でも最下層といっていい。いわば、極悪非道な罪人を遠島する流刑地。主は人を殺し過ぎた。本来なら『大地獄』に落ちるところを、主はこの『無の牢』へと入れられ、終わることのない孤独と苦痛に苛まれることとなる。発狂しても終わらず、自害しようとしても死ぬことのない終わることのない無限の苦痛が待っている」
「孤独で終わることのない無限の苦痛、か。テメェがおれが生み出したこころの幻影なのはわかった。だけどよ、ならテメェは何でおれの前に現れたんだ? 猿田源之助の格好をして、本当におれに恐怖心を与えるためだけにその姿になったっていうのか?」問いに答えない猿田源之助ーー男は続ける。「本当は、おれに何か頼みがあるんじゃねぇのか? じゃなきゃ、そんな姿でおれの前に現れねぇはずだ」
猿田源之助はふと息を吐く。
「……察しが良すぎて吐き気がするな。この『無』の空間が何故存在するかわかるか?」
「おれが罪人だから。加えて、神の野郎の悪趣味な嗜好だろ? あのクズは人が苦しむところを見るのが大好きだからな」
「……吐き気がする。主が極楽院で食を取ったあの広場、あそこで現世の苦しみを写し出していたように、神はあそこで食をしながら、『無』で苦しみ、発狂する者を観るのが楽しみなのだ」
「ハッ! 相変わらず気持ちの悪いジジイだな。で、おれはどうすればいいんだ?」
「『無』と同化して頂く」
男はワケもわからないといった調子で頭をボリボリ掻き、困惑してみせる。
「意味がわからんね。『無』と同化する? そりゃ『存在しない』ことと何が違うんだ?」
「存在はする。だが、『無』になるということだ。もっというならば、『無』に近づく、といったところだろうか」
「その面でそんなワケのわからんことをいわれりゃイラっと来るぜ。おれも学がねぇワケじゃねぇけどよ。勿体ぶる野郎は嫌われんぜ」
「嫌われたところで何になる。殺すか? 残念だが、主にわたしを殺すことは出来ない。わたしは存在しながら存在しないモノなのだから」
「黙れ、それ以上いうと殺すぞ」
「いったろう、わたしは主が生み出した幻影が具現化したモノだ、と。幻を斬るのは霞を斬るのと同じこと。わたしを消す方法は意図も簡単。主が『無』になればいいのだ」
「……ハッ! なら仕方ねぇな。そのうるせえ口を塞ぐためにも、『無』にならなきゃいけねぇってことか。そうなんだろ?」
「その通りだ」
「なら話は早い。で、早速『無』になるのもいいんだが、まだテメェの名を聴いてなかったな。何て呼べばいいんだよ?」
「そうだな。この者の姿の通り『サルタ』でも『ゲンノスケ』で構わぬ」
「……ケンカ売ってんのか?」
「売っておらぬ。で、主の名は?」
「……食えねぇ野郎だ」
「名は?」
「……おれは『牛馬』。極楽を血に染める西陽の当たる地獄花だ」
【続く】