【迫る驚異に二丁拳銃】
文字数 4,528文字
誰にだって癒し切れない深いキズのひとつやふたつはあるだろう。
それは外傷の場合もあれば、内面についた傷もある。ひとついえるのは、誰だってひとつは癒し切れないキズを飼っているということだ。
傷はトラウマと化し、恐怖となって、その人のマインドを蝕み続ける。中にはそれを克服できる人もいるだろうが、そんなのは少数といっていい。問題はそんなこころの傷とどう向き合って生きていくかだ。
かくいうおれも、パニック障害という深い傷をマインドの奥底に宿している。今では殆ど克服したといっても過言ではないが、やはり、思い出したくもないーーむしろ、今すぐそこの記憶だけを消してしまいたいと思っている。
さて、今日で東北の地震から十年目。そんなワケで、今日は『マキャベリスト』ではなく、十年前の東北地震の時の話を書いていこうと思う。じゃ、やってくーー
十年前の三月十日のことだった。おれは大学の春休みで五村に帰省中だったが、翌日までに大学に提出しなければならない資料があったこともあって、荷物をまとめて当時の下宿先へと二時間掛けて戻ったのだ。
自室は何ともなかったーーはずだった。玄関扉を潜った瞬間までは。部屋に入るとおれは何か異様な空気を全身に感じた。
何だ、この感じ。
もしかして、泥棒か?ーーおれは部屋の中へ恐る恐る入っていった。
リビングーー何ともない。
クローゼットーー何ともない。
キッチンーー何ともない。
トイレに浴室ーー何ともない。
特に変化はなかった。盗まれたモノもなければ、可笑しなこともなかった。しかし、おれの中で何か胸騒ぎが起きていた。
何だろう、この胸の奥が粟立つような感じ。
一度は気のせいだろうと思い、そのまま夕食を取りながら、自分の好きな映画を観ていたのだが、どうにも違和感が止まらない。それどころかーー
ここにいたくない。
そう感じて仕方なかった。そうだ、明日、大学に資料を提出したら、五村に戻ろう。下宿先へ戻ったらそのまま新学期まで自室に籠る予定だったが、予定変更だ。そう思っておれは床に就こうとしたのだが、
眠れない。
どういうワケか、目がギンギンに開いていて、全然眠れる気配がないのだ。
一体、どうしてしまったというのだ。
何が起きているというのだ。
この、全身に覆い被さるような違和感、不快感は一体何だというのだ。
結局、それから一睡もせずに、翌三月十一日の昼になって、おれは大学に資料を提出した。部屋に戻ると、蹴飛ばされた掛け布団が目に入った。少し寝てから帰ろうか。一瞬、そう考えた。だが、
すぐにここを出たほうがいい。
何故かそう思った。まぁ、電車の中で寝れるし、それでいいだろう。おれは歩いて一時間弱掛けて駅まで向かった。
駅に着いて鈍行か特急かを選らばなければならなかったのだが、おれは迷わず特急券を買った。快適なシートで安心して眠りに就くため、というのもあったのかもしれないが、どういうワケか、鈍行は眼中に入らなかったのだ。
それから特急に乗って一時間強で都内に着いた。が、一睡もできなかった。イヤホンから流れる歪んだギターと激しいシャウトは、陽の照り返す平和な都市の光景には不釣り合いだったかもしれないが、やはり、眠るには相応しくない程の緊張感が肩に乗っかっていたのだ。
特急列車を降りてそのまま山手線に乗り換えた。下宿先に帰った時のモヤモヤは少しはマシになっていた。とはいえ、それが完全に消えたワケではない。マインドは曇り空、照り返す現実の青空。何かが解離していた。
電車のドアが開いた。周囲の音はヘヴィなギターリフで殆ど消えていたが、その中で微かに「日暮里」というワードだけが聴こえていた。出発を待って、シートに背中を押しつけていた。が、突然、
車体が大きく揺れ始めたのだ。
地震ーーすぐにわかった。
が、それがどれくらいの規模のモノかはわからなかった。わかるのは、車体がかなり大きく傾いているということだけだった。
それからすぐに電車を降りるようアナウンスがあり、おれは他の乗客と共に、二階の改札口まで向かった。とはいえ、おれはわからなかった。何故、こんな地震でこんな大騒ぎをしているのだろう。
二階改札口へ行くと、全便運行未定であることが告げられた。その間も余震が発生し、駅の天井が揺れていた。子供の肩を抱き、悲鳴を挙げる母親、恐怖におののく子供、ビジネスマンや華美な服装をしたギャルは苛立ち、冴えない大学たちは一様にオロオロしていた。
ワケがわからなかった。今、何が起きているのか。何もわかっていなかった。ひとついえるのは、携帯電話が不通で、ネットワークで情報を収集することはおろか、電話やメールをすることも不可能だったということだけ。
それからアナウンスに従い、乗客たちは改札から駅の外へ出た。が、外で三十分待っても具体的な運行再開は未定とのことだった。
おれは上野まで歩いてみることにした。歩いて時間を潰せば、電車の運行も再開しているだろうと思ったからだった。確かに数百円は無駄になるが、それは大きな問題ではなかった。
兎に角、この情報が殆ど遮断された状況下では、考えて行動することだけが正義だった。
上野まで歩いた、歩いたーー歩き続けた。
途中、通り掛かりに、「千葉の駅の天井が落ちた」という話を耳にした。そんな大規模な地震だったのだろうか。おれは漸くこの地震が大変なモノなのだと認識し始めた。
ちょっとしたエクスキューズをいうと、情報が遮断されていて、本当に何が起こっているのかわからなかったのだ。
人間は情報を遮断されても、過剰に提供されてもダメになる。おれは完全にこの東京という街にひとり取り残されていた。周りに人がたくさんいるとかは関係なかった。ただ、精神的に孤独だったのだ。
それから一時間程して上野に着いた。だが、電車は復旧していなかった。こうなれば、あと出来るのは、私鉄の通っている池袋まで歩くことだけだった。JRがダメでも、私鉄、西武線なら運行しているのではないか。そんな一抹の希望を胸に、おれは上野の駅を後にした。
正直、上野から池袋まで歩いて到達できるほどの土地勘はなかった。看板を見て、おおよそ此方だろうと、池袋周辺の土地へリンクするであろう方向へと向かうしかなかった。
歩いていると、あることに気づいた。
いつしか、自分が集団の中のひとりになっていたのだ。
それでわかった。
この人たちもおれ同様、池袋、或いはその周辺を目指しているのだろう、と。
理由は訊かなくともわかった気がした。Aが駄目ならBは、と考えるのは、人間の持つ普通の思考だ。彼らはおれ同様、遠回りして別の可能性に手を伸ばしているだけなのだ。
おれは人の海を形作る波のひとつとなって、池袋まで歩いた。
上野から歩き出して一時間程だろうか、足が痛み出して来た。
元来、おれは散歩が好きで、何時間も歩く習慣はあったのだが、この日ばかりは別だった。精神的な疲労に加え、一睡もしていないような状態では、筋肉の疲労の仕方も馬鹿みたいに早い。足の裏は軋み、腿とふくらはぎは悲鳴を上げていた。その内、寒さが身体にまとわりついて来た。鞭のような寒風が、おれの皮膚を打った。ストレスが脳を焼いた。
どうしてこんな目に遭わなければならないのだ。
おれの脳内は罵詈雑言。どうしてこんなことになったのだ。やはり神などいないのだろう。或いは、ノアのように一部の人間だけ助けてそれで終わりといったところか。
何れにせよ、東京はパニックになっていた。ストリートを歩いていても、ビルの外壁に寄り掛かってうずくまっている人の姿をいくつも見掛けることとなった。
冗談じゃない。どうして、こんなクソみたいな状況に屈しなければならないのだ。おれは意地になっていた。これが神の試練だというのなら、その先に待っているのは達成感ではなく淀んだ感情だけだろう。ふざけやがって。怒りと不信感が沸々と沸いてくる。
上野を出発した二時間が経った頃、漸く池袋に着いた。もはや足はパンパン、寒さも限界に近づいていた。が、そこに待っていたのは、
西武線、全便運行未定という現実だった。
おれは精神を吐き出しそうになった。ウソだ。そんなことばが白い霞となって消え入る。諦めが雨水のように精神にに零れ落ちる。
疲労と寒気と空腹が徒労感により急激に加速する。もうダメだ。諦観が前頭葉を占拠する。
飲食店は全店閉まっていた。コンビニは食料品ばかりがゴッソリなくなっていた。
もはや、東京はソドムとゴモラのように背徳に満ちていた。そこにはモラルなどというモノはなく、ただ自分がどう生きるかという最終防衛ラインで背水の陣を敷いているよう。
間違いなく、東京は燃えていた。
携帯電話を開いた。充電も残り五パーセントになっていた。おれは最後の最後、実家に電話を掛けることにした。
寒さと空腹で指が震えた。いや、それ以外の要因もあったかもしれない。ただ、これが最後のチャンスだったのはいうまでもない。
無機質なコール音が虚しく内耳に響いた。
一回……
二回…………
三回………………
繋がった。
電話に出たのは父だった。おれは今自分が置かれている状況を伝えた。すると父は、
「今から行く」
とだけいって電話を切った。針を刺して出来たほどの穴とそこから漏れ出る光が、おれのマインドを照らしていた。希望が見えた。
父を待っていた間のことは何も覚えていない。というより、空腹と寒さと疲労以外は何もなかったと思う。おれは限界だった。
それから一時間か二時間ほどだったと思う。父がやって来た。車に乗り込み、おれは池袋を後にした。
車内のテレビ、そこで漸くおれは国内を揺るがした大地震のことを知った。地獄のようだった。というより、地獄そのものだった。
後に新聞やネットニュースで知ったことだが、その日、家に帰れず、駅前で過ごした帰宅難民がたくさんいたという。おれも池袋の駅でそれらしき人をたくさん目撃した。何より、おれもそうなり掛けていた。
おれはただ運が良かっただけなのだ。
三月十一日、悪夢はまだ人々の脳内にこびりつき、精神には多大な傷痕を残した。
我々は、この傷痕から何を学び、何を思い、どう生きていくべきか、改めて考えるべきなのかもしれない。
まぁ、ショーン・コネリーが剣を振るって闘う映画や、四つん這いになって迫って来るエイリアンに向かって、「死ねぇー!」と叫びながら二丁拳銃をぶっぱなすのもいいのだけど。
ちなみに、おれは黙祷とSNSに書き込む位なら午後のロードショーを観て歓喜しているほうがよっぽど健全だと思うけどな。
今年の午後のロードショーは『スペース・カウボーイ』か。熱いじいさんたちが地球を救う熱い映画とは、いいもんだ。映画のように、現実にもヒーローが必要なのかもしれない。
迫る驚異に二丁拳銃を突き付けて、「死ね」と数発銃弾を打ち込んで危難が去るならばどれだけ良いだろう。
だけど、地震にもウイルスにも、二丁拳銃を突き付けたい気分は、今でも変わらない。
すべての驚異に、アスタラビスタ。
それは外傷の場合もあれば、内面についた傷もある。ひとついえるのは、誰だってひとつは癒し切れないキズを飼っているということだ。
傷はトラウマと化し、恐怖となって、その人のマインドを蝕み続ける。中にはそれを克服できる人もいるだろうが、そんなのは少数といっていい。問題はそんなこころの傷とどう向き合って生きていくかだ。
かくいうおれも、パニック障害という深い傷をマインドの奥底に宿している。今では殆ど克服したといっても過言ではないが、やはり、思い出したくもないーーむしろ、今すぐそこの記憶だけを消してしまいたいと思っている。
さて、今日で東北の地震から十年目。そんなワケで、今日は『マキャベリスト』ではなく、十年前の東北地震の時の話を書いていこうと思う。じゃ、やってくーー
十年前の三月十日のことだった。おれは大学の春休みで五村に帰省中だったが、翌日までに大学に提出しなければならない資料があったこともあって、荷物をまとめて当時の下宿先へと二時間掛けて戻ったのだ。
自室は何ともなかったーーはずだった。玄関扉を潜った瞬間までは。部屋に入るとおれは何か異様な空気を全身に感じた。
何だ、この感じ。
もしかして、泥棒か?ーーおれは部屋の中へ恐る恐る入っていった。
リビングーー何ともない。
クローゼットーー何ともない。
キッチンーー何ともない。
トイレに浴室ーー何ともない。
特に変化はなかった。盗まれたモノもなければ、可笑しなこともなかった。しかし、おれの中で何か胸騒ぎが起きていた。
何だろう、この胸の奥が粟立つような感じ。
一度は気のせいだろうと思い、そのまま夕食を取りながら、自分の好きな映画を観ていたのだが、どうにも違和感が止まらない。それどころかーー
ここにいたくない。
そう感じて仕方なかった。そうだ、明日、大学に資料を提出したら、五村に戻ろう。下宿先へ戻ったらそのまま新学期まで自室に籠る予定だったが、予定変更だ。そう思っておれは床に就こうとしたのだが、
眠れない。
どういうワケか、目がギンギンに開いていて、全然眠れる気配がないのだ。
一体、どうしてしまったというのだ。
何が起きているというのだ。
この、全身に覆い被さるような違和感、不快感は一体何だというのだ。
結局、それから一睡もせずに、翌三月十一日の昼になって、おれは大学に資料を提出した。部屋に戻ると、蹴飛ばされた掛け布団が目に入った。少し寝てから帰ろうか。一瞬、そう考えた。だが、
すぐにここを出たほうがいい。
何故かそう思った。まぁ、電車の中で寝れるし、それでいいだろう。おれは歩いて一時間弱掛けて駅まで向かった。
駅に着いて鈍行か特急かを選らばなければならなかったのだが、おれは迷わず特急券を買った。快適なシートで安心して眠りに就くため、というのもあったのかもしれないが、どういうワケか、鈍行は眼中に入らなかったのだ。
それから特急に乗って一時間強で都内に着いた。が、一睡もできなかった。イヤホンから流れる歪んだギターと激しいシャウトは、陽の照り返す平和な都市の光景には不釣り合いだったかもしれないが、やはり、眠るには相応しくない程の緊張感が肩に乗っかっていたのだ。
特急列車を降りてそのまま山手線に乗り換えた。下宿先に帰った時のモヤモヤは少しはマシになっていた。とはいえ、それが完全に消えたワケではない。マインドは曇り空、照り返す現実の青空。何かが解離していた。
電車のドアが開いた。周囲の音はヘヴィなギターリフで殆ど消えていたが、その中で微かに「日暮里」というワードだけが聴こえていた。出発を待って、シートに背中を押しつけていた。が、突然、
車体が大きく揺れ始めたのだ。
地震ーーすぐにわかった。
が、それがどれくらいの規模のモノかはわからなかった。わかるのは、車体がかなり大きく傾いているということだけだった。
それからすぐに電車を降りるようアナウンスがあり、おれは他の乗客と共に、二階の改札口まで向かった。とはいえ、おれはわからなかった。何故、こんな地震でこんな大騒ぎをしているのだろう。
二階改札口へ行くと、全便運行未定であることが告げられた。その間も余震が発生し、駅の天井が揺れていた。子供の肩を抱き、悲鳴を挙げる母親、恐怖におののく子供、ビジネスマンや華美な服装をしたギャルは苛立ち、冴えない大学たちは一様にオロオロしていた。
ワケがわからなかった。今、何が起きているのか。何もわかっていなかった。ひとついえるのは、携帯電話が不通で、ネットワークで情報を収集することはおろか、電話やメールをすることも不可能だったということだけ。
それからアナウンスに従い、乗客たちは改札から駅の外へ出た。が、外で三十分待っても具体的な運行再開は未定とのことだった。
おれは上野まで歩いてみることにした。歩いて時間を潰せば、電車の運行も再開しているだろうと思ったからだった。確かに数百円は無駄になるが、それは大きな問題ではなかった。
兎に角、この情報が殆ど遮断された状況下では、考えて行動することだけが正義だった。
上野まで歩いた、歩いたーー歩き続けた。
途中、通り掛かりに、「千葉の駅の天井が落ちた」という話を耳にした。そんな大規模な地震だったのだろうか。おれは漸くこの地震が大変なモノなのだと認識し始めた。
ちょっとしたエクスキューズをいうと、情報が遮断されていて、本当に何が起こっているのかわからなかったのだ。
人間は情報を遮断されても、過剰に提供されてもダメになる。おれは完全にこの東京という街にひとり取り残されていた。周りに人がたくさんいるとかは関係なかった。ただ、精神的に孤独だったのだ。
それから一時間程して上野に着いた。だが、電車は復旧していなかった。こうなれば、あと出来るのは、私鉄の通っている池袋まで歩くことだけだった。JRがダメでも、私鉄、西武線なら運行しているのではないか。そんな一抹の希望を胸に、おれは上野の駅を後にした。
正直、上野から池袋まで歩いて到達できるほどの土地勘はなかった。看板を見て、おおよそ此方だろうと、池袋周辺の土地へリンクするであろう方向へと向かうしかなかった。
歩いていると、あることに気づいた。
いつしか、自分が集団の中のひとりになっていたのだ。
それでわかった。
この人たちもおれ同様、池袋、或いはその周辺を目指しているのだろう、と。
理由は訊かなくともわかった気がした。Aが駄目ならBは、と考えるのは、人間の持つ普通の思考だ。彼らはおれ同様、遠回りして別の可能性に手を伸ばしているだけなのだ。
おれは人の海を形作る波のひとつとなって、池袋まで歩いた。
上野から歩き出して一時間程だろうか、足が痛み出して来た。
元来、おれは散歩が好きで、何時間も歩く習慣はあったのだが、この日ばかりは別だった。精神的な疲労に加え、一睡もしていないような状態では、筋肉の疲労の仕方も馬鹿みたいに早い。足の裏は軋み、腿とふくらはぎは悲鳴を上げていた。その内、寒さが身体にまとわりついて来た。鞭のような寒風が、おれの皮膚を打った。ストレスが脳を焼いた。
どうしてこんな目に遭わなければならないのだ。
おれの脳内は罵詈雑言。どうしてこんなことになったのだ。やはり神などいないのだろう。或いは、ノアのように一部の人間だけ助けてそれで終わりといったところか。
何れにせよ、東京はパニックになっていた。ストリートを歩いていても、ビルの外壁に寄り掛かってうずくまっている人の姿をいくつも見掛けることとなった。
冗談じゃない。どうして、こんなクソみたいな状況に屈しなければならないのだ。おれは意地になっていた。これが神の試練だというのなら、その先に待っているのは達成感ではなく淀んだ感情だけだろう。ふざけやがって。怒りと不信感が沸々と沸いてくる。
上野を出発した二時間が経った頃、漸く池袋に着いた。もはや足はパンパン、寒さも限界に近づいていた。が、そこに待っていたのは、
西武線、全便運行未定という現実だった。
おれは精神を吐き出しそうになった。ウソだ。そんなことばが白い霞となって消え入る。諦めが雨水のように精神にに零れ落ちる。
疲労と寒気と空腹が徒労感により急激に加速する。もうダメだ。諦観が前頭葉を占拠する。
飲食店は全店閉まっていた。コンビニは食料品ばかりがゴッソリなくなっていた。
もはや、東京はソドムとゴモラのように背徳に満ちていた。そこにはモラルなどというモノはなく、ただ自分がどう生きるかという最終防衛ラインで背水の陣を敷いているよう。
間違いなく、東京は燃えていた。
携帯電話を開いた。充電も残り五パーセントになっていた。おれは最後の最後、実家に電話を掛けることにした。
寒さと空腹で指が震えた。いや、それ以外の要因もあったかもしれない。ただ、これが最後のチャンスだったのはいうまでもない。
無機質なコール音が虚しく内耳に響いた。
一回……
二回…………
三回………………
繋がった。
電話に出たのは父だった。おれは今自分が置かれている状況を伝えた。すると父は、
「今から行く」
とだけいって電話を切った。針を刺して出来たほどの穴とそこから漏れ出る光が、おれのマインドを照らしていた。希望が見えた。
父を待っていた間のことは何も覚えていない。というより、空腹と寒さと疲労以外は何もなかったと思う。おれは限界だった。
それから一時間か二時間ほどだったと思う。父がやって来た。車に乗り込み、おれは池袋を後にした。
車内のテレビ、そこで漸くおれは国内を揺るがした大地震のことを知った。地獄のようだった。というより、地獄そのものだった。
後に新聞やネットニュースで知ったことだが、その日、家に帰れず、駅前で過ごした帰宅難民がたくさんいたという。おれも池袋の駅でそれらしき人をたくさん目撃した。何より、おれもそうなり掛けていた。
おれはただ運が良かっただけなのだ。
三月十一日、悪夢はまだ人々の脳内にこびりつき、精神には多大な傷痕を残した。
我々は、この傷痕から何を学び、何を思い、どう生きていくべきか、改めて考えるべきなのかもしれない。
まぁ、ショーン・コネリーが剣を振るって闘う映画や、四つん這いになって迫って来るエイリアンに向かって、「死ねぇー!」と叫びながら二丁拳銃をぶっぱなすのもいいのだけど。
ちなみに、おれは黙祷とSNSに書き込む位なら午後のロードショーを観て歓喜しているほうがよっぽど健全だと思うけどな。
今年の午後のロードショーは『スペース・カウボーイ』か。熱いじいさんたちが地球を救う熱い映画とは、いいもんだ。映画のように、現実にもヒーローが必要なのかもしれない。
迫る驚異に二丁拳銃を突き付けて、「死ね」と数発銃弾を打ち込んで危難が去るならばどれだけ良いだろう。
だけど、地震にもウイルスにも、二丁拳銃を突き付けたい気分は、今でも変わらない。
すべての驚異に、アスタラビスタ。