【いろは歌地獄旅~バクも食わない~】
文字数 2,539文字
夢が夢であることに気づくと自由自在にコントロール出来るという。
だが、それが夢であると気づくことは容易ではなく、むしろ気づけたとしても、気づいた少し後に目が覚めることが殆どだ。
そもそも夢をコントロール出来るといったところで、その時見ている夢がどのようなモノかにもよるーー例えるなら、その夢が非常に恐ろしいモノであれば、夢が夢であると気づく余裕はないだろうし、そのような夢をコントロールするほどの価値はない。
ろくでもない夢は何処までもろくでもなく、そんな夢は夢食いのバクも食わないほどだ。
そして、そんな夢も、その時々の精神状況が反映されているといわれている。
高垣明夫は二十代後半の男だ。職業は平凡なサラリーマン。結婚はおろか、彼女はおらず、趣味もこれといったモノはないが、休日にはパチンコを打って一喜一憂している。
ただ、そんな高垣にもパチンコ以外で、たったひとつだけ楽しみにしていることがあった。
それは、その日見る夢をコントロール出来るように努力することと、見た夢の内容をノートに記録することだった。
これは所謂、明晰夢のやり方といわれており、夢の中で非常にリアルな感覚や雰囲気を味わうことが出来るといわれている。
夢見心地。
高垣は今、水族館でとても大きな水槽を眺めている。その水槽は非常に汚く、水槽の中には巨大なサメが一匹いる。
サメは汚れた水槽の中をもがくように蠢いている。高垣はそんなサメの姿を呆然と眺めている。が、突然、高垣は立ち上がる。
かと思いきや、高垣は走ってその場を離れる。その顔は何処か強張っており、その動きも何処かギコチナイ。手は腹部を押さえている。
高垣はカーペットの上を音を立てながら走り、ある一角に向かう。そこは、
トイレだった。
高垣は突然の便意を催し、トイレへと駆け込んだのだ。が、トイレはろくに掃除もされていないようで、そこらじゅうにカビが繁殖し、何かわからないようなどす黒い汚れが沈殿している。においもドブにヘドロを打ち込んだような悪臭で、とてもじゃないが人の利用する場所とはいえないような状況だった。
だが、背に腹は変えられない。高垣は一度は鼻を押さえ、不快感を露にしたが、限界が近づいていたこともあって、そのまま開いていた個室へと飛び込んだ。
すべての用を足してトイレを出る。まるで服と身体ににおいが移ってしまったのを気にするかのように、高垣は衣服のにおいをかぐ。だが、自分が放つにおいはわかりづらい。高垣は特に何もなかったといわんばかりに、においに反応することなく、その場から移動する。
水族館ということもあって、行くところ行くところ魚の入った水槽に満ちているが、どの水槽も閉塞感に満ち満ちている。しかも、どの水槽のどの魚も窮屈そうで、逃げ道を探すように右へ左へもがいている。
にしても、夢とはいえ人がいない水族館というのは不気味なモノだった。まるで世界そのものが死んでしまったように沈黙している。
高垣は水族館内部を歩く。カーペットを踏み締める微かな音が、けたたましく内耳で響く。
高垣は足を止めた。
足を止め、そのまま辺りを見渡す。
音がした。確かに何かが音を立てた。確かにそれが聞こえた。高垣の目は見開かれ、まるで毛が逆立つように神経を尖らせている。
耳を澄ませるーー何も聴こえない。ただの気のせいだったのだろうか。
結局、何も聞こえはしなかった。高垣は大きくため息をついた。
神経が逆立った。
確かにカーペットを乱暴に踏み締める音が高垣の耳へと届いたのだ。
高垣は口を開けて緊張を息という形で吐く。
カーペットを踏み締める音が少しずつ大きくなってくる。そして、そのスピードが増して行く。
誰かが近づいて来る。
高垣はその場から離れようと振り返り、早歩きで動き出す。が、それに合わせて背後の足音も少し早さを増す。
追い掛けて来る。
高垣は本能でそう悟り、走り出す。それに合わせて、背後の足音もそのテンポを早める。
間違いなく背後の何者かは高垣を追っている。高垣もそれに気づいたようだ。息を荒げてそのまま走る、走るーー全力で走る。
そうだ、これは夢なのだ。夢だと気づいているなら、それをコントロールして追跡者を消してしまえばいいのではないか。
高垣は走りながら「消えろ」と頭の中で唱えるーー何度も、何度も。
ある程度走ったところで高垣は足を緩め、うしろを振り返る。聴こえるのは高垣の息づかいだけ。他には何も聴こえない。
追跡者はいなくなった。高垣はホッと胸を撫で下ろす。
足音が聴こえる。
神経が逆立つ。消えていない。追跡者は依然として存在している。何故だ。何故、夢だというのに、これが夢だと自覚しているのにコントロール出来ないのだ。
高垣は再び走り出す。足音から逃げる。走る、走るーー疾走する。階段を上がり、廊下を駆ける。暗い建物の中、リノリウムの床を叩く靴のゴム底の音がうるさい。
そして、気づけば高垣は建物の吹き抜けまで来ていた。室内から屋外へ。高い建物の外へ出ると、曇り空と行き止まりが高垣を出迎えた。
追い詰められた。高垣は振り返る。屋内へと続くドアを見る。屋内の暗闇に黒い影が蠢く。その影は確実に高垣を追い詰める。
いや、これは夢なんだ。
ならば、別に死んだところで目覚めて終わりではないか。
そう考えたら、高垣は緊張して強張った表情を緩め、そのままフェンスを乗り越えると、建物の崖っぷちに立った。
夢とはいえ流石に怖い。だが、死んでしまえば現実に戻れる。高垣は声を上げる。次の瞬間には高垣は宙を舞っていた。
そして、高垣は地面に叩きつけられた。
高垣の手足はグチャグチャに曲がっていた。激痛が高垣の身体を貫く。何故だ、何故夢が覚めないのだ。高垣は薄れ行く意識の中で何度も反芻する。そうか、これは夢だから、すべての意識が途切れたその時にーー
だが、高垣が目を覚ますことはなかった。
見た夢を起床後に記録する行為は、危険だといわれている。その理由は、いつしか夢と現実の区別がつかなくなり、幻覚を見るほどに精神が崩壊するからだ、といわれている。
バクも食わないのは当たり前だ。だって、これは夢ではないのだからーー
だが、それが夢であると気づくことは容易ではなく、むしろ気づけたとしても、気づいた少し後に目が覚めることが殆どだ。
そもそも夢をコントロール出来るといったところで、その時見ている夢がどのようなモノかにもよるーー例えるなら、その夢が非常に恐ろしいモノであれば、夢が夢であると気づく余裕はないだろうし、そのような夢をコントロールするほどの価値はない。
ろくでもない夢は何処までもろくでもなく、そんな夢は夢食いのバクも食わないほどだ。
そして、そんな夢も、その時々の精神状況が反映されているといわれている。
高垣明夫は二十代後半の男だ。職業は平凡なサラリーマン。結婚はおろか、彼女はおらず、趣味もこれといったモノはないが、休日にはパチンコを打って一喜一憂している。
ただ、そんな高垣にもパチンコ以外で、たったひとつだけ楽しみにしていることがあった。
それは、その日見る夢をコントロール出来るように努力することと、見た夢の内容をノートに記録することだった。
これは所謂、明晰夢のやり方といわれており、夢の中で非常にリアルな感覚や雰囲気を味わうことが出来るといわれている。
夢見心地。
高垣は今、水族館でとても大きな水槽を眺めている。その水槽は非常に汚く、水槽の中には巨大なサメが一匹いる。
サメは汚れた水槽の中をもがくように蠢いている。高垣はそんなサメの姿を呆然と眺めている。が、突然、高垣は立ち上がる。
かと思いきや、高垣は走ってその場を離れる。その顔は何処か強張っており、その動きも何処かギコチナイ。手は腹部を押さえている。
高垣はカーペットの上を音を立てながら走り、ある一角に向かう。そこは、
トイレだった。
高垣は突然の便意を催し、トイレへと駆け込んだのだ。が、トイレはろくに掃除もされていないようで、そこらじゅうにカビが繁殖し、何かわからないようなどす黒い汚れが沈殿している。においもドブにヘドロを打ち込んだような悪臭で、とてもじゃないが人の利用する場所とはいえないような状況だった。
だが、背に腹は変えられない。高垣は一度は鼻を押さえ、不快感を露にしたが、限界が近づいていたこともあって、そのまま開いていた個室へと飛び込んだ。
すべての用を足してトイレを出る。まるで服と身体ににおいが移ってしまったのを気にするかのように、高垣は衣服のにおいをかぐ。だが、自分が放つにおいはわかりづらい。高垣は特に何もなかったといわんばかりに、においに反応することなく、その場から移動する。
水族館ということもあって、行くところ行くところ魚の入った水槽に満ちているが、どの水槽も閉塞感に満ち満ちている。しかも、どの水槽のどの魚も窮屈そうで、逃げ道を探すように右へ左へもがいている。
にしても、夢とはいえ人がいない水族館というのは不気味なモノだった。まるで世界そのものが死んでしまったように沈黙している。
高垣は水族館内部を歩く。カーペットを踏み締める微かな音が、けたたましく内耳で響く。
高垣は足を止めた。
足を止め、そのまま辺りを見渡す。
音がした。確かに何かが音を立てた。確かにそれが聞こえた。高垣の目は見開かれ、まるで毛が逆立つように神経を尖らせている。
耳を澄ませるーー何も聴こえない。ただの気のせいだったのだろうか。
結局、何も聞こえはしなかった。高垣は大きくため息をついた。
神経が逆立った。
確かにカーペットを乱暴に踏み締める音が高垣の耳へと届いたのだ。
高垣は口を開けて緊張を息という形で吐く。
カーペットを踏み締める音が少しずつ大きくなってくる。そして、そのスピードが増して行く。
誰かが近づいて来る。
高垣はその場から離れようと振り返り、早歩きで動き出す。が、それに合わせて背後の足音も少し早さを増す。
追い掛けて来る。
高垣は本能でそう悟り、走り出す。それに合わせて、背後の足音もそのテンポを早める。
間違いなく背後の何者かは高垣を追っている。高垣もそれに気づいたようだ。息を荒げてそのまま走る、走るーー全力で走る。
そうだ、これは夢なのだ。夢だと気づいているなら、それをコントロールして追跡者を消してしまえばいいのではないか。
高垣は走りながら「消えろ」と頭の中で唱えるーー何度も、何度も。
ある程度走ったところで高垣は足を緩め、うしろを振り返る。聴こえるのは高垣の息づかいだけ。他には何も聴こえない。
追跡者はいなくなった。高垣はホッと胸を撫で下ろす。
足音が聴こえる。
神経が逆立つ。消えていない。追跡者は依然として存在している。何故だ。何故、夢だというのに、これが夢だと自覚しているのにコントロール出来ないのだ。
高垣は再び走り出す。足音から逃げる。走る、走るーー疾走する。階段を上がり、廊下を駆ける。暗い建物の中、リノリウムの床を叩く靴のゴム底の音がうるさい。
そして、気づけば高垣は建物の吹き抜けまで来ていた。室内から屋外へ。高い建物の外へ出ると、曇り空と行き止まりが高垣を出迎えた。
追い詰められた。高垣は振り返る。屋内へと続くドアを見る。屋内の暗闇に黒い影が蠢く。その影は確実に高垣を追い詰める。
いや、これは夢なんだ。
ならば、別に死んだところで目覚めて終わりではないか。
そう考えたら、高垣は緊張して強張った表情を緩め、そのままフェンスを乗り越えると、建物の崖っぷちに立った。
夢とはいえ流石に怖い。だが、死んでしまえば現実に戻れる。高垣は声を上げる。次の瞬間には高垣は宙を舞っていた。
そして、高垣は地面に叩きつけられた。
高垣の手足はグチャグチャに曲がっていた。激痛が高垣の身体を貫く。何故だ、何故夢が覚めないのだ。高垣は薄れ行く意識の中で何度も反芻する。そうか、これは夢だから、すべての意識が途切れたその時にーー
だが、高垣が目を覚ますことはなかった。
見た夢を起床後に記録する行為は、危険だといわれている。その理由は、いつしか夢と現実の区別がつかなくなり、幻覚を見るほどに精神が崩壊するからだ、といわれている。
バクも食わないのは当たり前だ。だって、これは夢ではないのだからーー