【丑寅は静かに嗤う~朧気】
文字数 2,221文字
「婆さん、いっぱい釣れたぜ」
そういってお卯乃の住む家に犬蔵が現れる。手には釣竿、背中には竹で編まれたかごを背負っている。
「ありがとうねぇ」
お卯乃の顔に笑みが浮かぶ。だが、犬蔵はどこか寂しげに笑う。それもそうだろう。犬蔵は釣りをする前に、猪之助の亡骸を地に埋め、弔ったのだ。仮に裏切られた相手とはいえ、かつては兄弟分として同じ釜のメシを食った仲だ。そんな相手の亡骸を葬るのは、誰だって辛い。
だが、お卯乃はそんなことは露知らず。犬蔵が降ろした竹かごの中で活き良くはねる魚を眺めては目を輝かす。
「何か、おれにやれることないかな?」
犬蔵は訊ねる。これまで横暴な態度を取り続けて来た犬蔵の姿はそこにはない。そんな犬蔵の申し出に対して、お卯乃はーー
「いいんだよぉ。ゆっくりしててね」
少しして、お卯乃の家の前で木片を叩き割る音が何度となく森の中で響く。斧を持った犬蔵が、いくつもの薪を割っている。
「何か仕事がしたい」
怠惰な犬蔵とは思えない申し出だった。お卯乃は答えに困ったが、ならばと力のありそうなアナタに薪をたくさん割って欲しいと頼んだのだ。
たくさんの薪に向き合う犬蔵。その額には珠のような汗。息をはぁはぁと吐きながらも、真剣な表情で薪を割り続ける。ひたすらーー
すべてを割り終えると、犬蔵は地面に大の字になって、青い空を眺める。ゆっくりと動く白い雲。時は刻一刻と過ぎていくのに、青い空と白い雲はそんな忙しさとは無縁なよう。
きっと今頃は、桃川をはじめ、お雉に猿田は十二鬼面の隠れ家に向かっていることだろう。いや、もしかしたらもう着いてしまったかもしれない。にも関わらず、自分は一体何をしているのだろうーー犬蔵の顔にはそう書いてある。
突然、犬蔵の前にお卯乃の顔が現れる。犬蔵が声を上げて驚くと、お卯乃は、
「驚かせてごめんねぇ。でも、あれだけあった薪を全部割ってくれたんだねぇ。ご苦労様。お茶と握りメシを作ったよ。食べなぁ」
犬蔵は体勢を整えて起き上がる。
「犬蔵さん、食欲ないねぇ」不意にお卯乃がいう。「何だか顔が寂しそうだよぉ」
「そんなこと……」
犬蔵はちびちびと握りメシを食べながらいう。それから湯飲みを持ち、茶を喉に通すーー
「アンタ、衣服はずぶ濡れで砂まみれだったし、海に流されて来たんじゃないかい?」
蒸せ返る犬蔵。お卯乃はそんな犬蔵の背中を叩いてやりながら、
「大丈夫かい? 変なことを訊いちゃったかな。だとしたら、ごめんねぇ」
犬蔵は何回か咳き込んだのちに呼吸を整えて、
「……いや、いいさ。確かにおれは海から流れてここまで来た。でもよーー」
犬蔵は唐突に口をつぐむ。お卯乃は無理して話を訊き出そうとはしない。だが、犬蔵は徐に話し始めるーー
「……今日、こうやって婆さんと会って、話をして、仕事して、茶に握りメシをご馳走してもらうようなゆったりとした生活も悪くねぇと思っちまって、な」
ふと、犬蔵は笑みを浮かべる。お卯乃は嬉しそうだが、どこか悟ったように微笑み、
「そうかい、だったら、ずっとここで暮らすかい?」
お卯乃の問いに、犬蔵は驚いたように目を向いて彼女を見ると、すぐさま視線を逸らす。お卯乃は静かに目を閉じる。
「……やっぱり、アンタには帰るべき場所があるのかもしれないねぇ」
ハッとする犬蔵ーーだが、
「帰る場所なんて……。いったじゃねぇか。おれにはそんなモノはねぇって」
「だったら、そんな風に驚いたりはしないと思うけどねぇ」お卯乃の言い分に、犬蔵は何も答えられない。「……アンタは何か、家族かお仲間かにうしろめたいモノがあるんじゃない?」
「おれには、家族も仲間もいねぇ、よ……」
「どんな強がったところで、誰もアナタに手を差し伸べてはくれないよ。独りよがりってのは、周りにいる人を遠ざけていく。アンタはまだ若いからわからないかもしれないけど、人間、ひとりじゃ生きていけないんだよ。アンタも素直に助けを求めてみたほうがいいんじゃないかい?」
犬蔵は何も反論できないかと思いきや、
「……ひとりで生きていけないんじゃ、婆さんだってそうじゃねぇか。婆さんはここでひとりで生きている。だとしたらーー」
「確かに、アンタのいう通りだねぇ。でもね、あたしだって好きでここにひとりで住んでいるワケじゃないんだ。旦那はもう死んじまったし、たったひとりの息子も殺されちまった。きっと、生きてたらアンタぐらいの年にはなってただろうね」
お卯乃の突然の告白に、犬蔵は暗い顔をし、
「……悪い、そんなこととはーー」
「いや、いいんだよぉ。アンタのことも考えずに偉そうなこといったあたしも悪かったんだ。でも、あたしもここから動いて別のところに移るには年を取りすぎた。後は、ここで野垂れ死にするのが、あたしの運命なのさ」
「いや……、でも、だとしたら、おれだってそうじゃねぇか。家族だと思ってたヤツラには裏切られ、敵だと思ってたヤツラにはーー」
犬蔵は口をつぐむ。
「……そっか、家族だと思ってた人たちに裏切られたんだねぇ。そりゃ辛いはずだ。でもね、悪いことがあればいいこともあるんだよ。家族だと思っていた人とは相容れなかったかもしれない。でもね、その敵だと思っていた人とはこころを通わせることができるかもしれないーーそういうことなんじゃないのかい?」犬蔵はきゅっと口を結ぶ。「ね、ならーー」
「おい!」怒号。
お卯乃と犬蔵は声のしたほうに目を向けたーー
【続く】
そういってお卯乃の住む家に犬蔵が現れる。手には釣竿、背中には竹で編まれたかごを背負っている。
「ありがとうねぇ」
お卯乃の顔に笑みが浮かぶ。だが、犬蔵はどこか寂しげに笑う。それもそうだろう。犬蔵は釣りをする前に、猪之助の亡骸を地に埋め、弔ったのだ。仮に裏切られた相手とはいえ、かつては兄弟分として同じ釜のメシを食った仲だ。そんな相手の亡骸を葬るのは、誰だって辛い。
だが、お卯乃はそんなことは露知らず。犬蔵が降ろした竹かごの中で活き良くはねる魚を眺めては目を輝かす。
「何か、おれにやれることないかな?」
犬蔵は訊ねる。これまで横暴な態度を取り続けて来た犬蔵の姿はそこにはない。そんな犬蔵の申し出に対して、お卯乃はーー
「いいんだよぉ。ゆっくりしててね」
少しして、お卯乃の家の前で木片を叩き割る音が何度となく森の中で響く。斧を持った犬蔵が、いくつもの薪を割っている。
「何か仕事がしたい」
怠惰な犬蔵とは思えない申し出だった。お卯乃は答えに困ったが、ならばと力のありそうなアナタに薪をたくさん割って欲しいと頼んだのだ。
たくさんの薪に向き合う犬蔵。その額には珠のような汗。息をはぁはぁと吐きながらも、真剣な表情で薪を割り続ける。ひたすらーー
すべてを割り終えると、犬蔵は地面に大の字になって、青い空を眺める。ゆっくりと動く白い雲。時は刻一刻と過ぎていくのに、青い空と白い雲はそんな忙しさとは無縁なよう。
きっと今頃は、桃川をはじめ、お雉に猿田は十二鬼面の隠れ家に向かっていることだろう。いや、もしかしたらもう着いてしまったかもしれない。にも関わらず、自分は一体何をしているのだろうーー犬蔵の顔にはそう書いてある。
突然、犬蔵の前にお卯乃の顔が現れる。犬蔵が声を上げて驚くと、お卯乃は、
「驚かせてごめんねぇ。でも、あれだけあった薪を全部割ってくれたんだねぇ。ご苦労様。お茶と握りメシを作ったよ。食べなぁ」
犬蔵は体勢を整えて起き上がる。
「犬蔵さん、食欲ないねぇ」不意にお卯乃がいう。「何だか顔が寂しそうだよぉ」
「そんなこと……」
犬蔵はちびちびと握りメシを食べながらいう。それから湯飲みを持ち、茶を喉に通すーー
「アンタ、衣服はずぶ濡れで砂まみれだったし、海に流されて来たんじゃないかい?」
蒸せ返る犬蔵。お卯乃はそんな犬蔵の背中を叩いてやりながら、
「大丈夫かい? 変なことを訊いちゃったかな。だとしたら、ごめんねぇ」
犬蔵は何回か咳き込んだのちに呼吸を整えて、
「……いや、いいさ。確かにおれは海から流れてここまで来た。でもよーー」
犬蔵は唐突に口をつぐむ。お卯乃は無理して話を訊き出そうとはしない。だが、犬蔵は徐に話し始めるーー
「……今日、こうやって婆さんと会って、話をして、仕事して、茶に握りメシをご馳走してもらうようなゆったりとした生活も悪くねぇと思っちまって、な」
ふと、犬蔵は笑みを浮かべる。お卯乃は嬉しそうだが、どこか悟ったように微笑み、
「そうかい、だったら、ずっとここで暮らすかい?」
お卯乃の問いに、犬蔵は驚いたように目を向いて彼女を見ると、すぐさま視線を逸らす。お卯乃は静かに目を閉じる。
「……やっぱり、アンタには帰るべき場所があるのかもしれないねぇ」
ハッとする犬蔵ーーだが、
「帰る場所なんて……。いったじゃねぇか。おれにはそんなモノはねぇって」
「だったら、そんな風に驚いたりはしないと思うけどねぇ」お卯乃の言い分に、犬蔵は何も答えられない。「……アンタは何か、家族かお仲間かにうしろめたいモノがあるんじゃない?」
「おれには、家族も仲間もいねぇ、よ……」
「どんな強がったところで、誰もアナタに手を差し伸べてはくれないよ。独りよがりってのは、周りにいる人を遠ざけていく。アンタはまだ若いからわからないかもしれないけど、人間、ひとりじゃ生きていけないんだよ。アンタも素直に助けを求めてみたほうがいいんじゃないかい?」
犬蔵は何も反論できないかと思いきや、
「……ひとりで生きていけないんじゃ、婆さんだってそうじゃねぇか。婆さんはここでひとりで生きている。だとしたらーー」
「確かに、アンタのいう通りだねぇ。でもね、あたしだって好きでここにひとりで住んでいるワケじゃないんだ。旦那はもう死んじまったし、たったひとりの息子も殺されちまった。きっと、生きてたらアンタぐらいの年にはなってただろうね」
お卯乃の突然の告白に、犬蔵は暗い顔をし、
「……悪い、そんなこととはーー」
「いや、いいんだよぉ。アンタのことも考えずに偉そうなこといったあたしも悪かったんだ。でも、あたしもここから動いて別のところに移るには年を取りすぎた。後は、ここで野垂れ死にするのが、あたしの運命なのさ」
「いや……、でも、だとしたら、おれだってそうじゃねぇか。家族だと思ってたヤツラには裏切られ、敵だと思ってたヤツラにはーー」
犬蔵は口をつぐむ。
「……そっか、家族だと思ってた人たちに裏切られたんだねぇ。そりゃ辛いはずだ。でもね、悪いことがあればいいこともあるんだよ。家族だと思っていた人とは相容れなかったかもしれない。でもね、その敵だと思っていた人とはこころを通わせることができるかもしれないーーそういうことなんじゃないのかい?」犬蔵はきゅっと口を結ぶ。「ね、ならーー」
「おい!」怒号。
お卯乃と犬蔵は声のしたほうに目を向けたーー
【続く】