【丑寅は静かに嗤う~相愛】
文字数 2,766文字
ポカポカ陽気の縁側は、まるで布団の中のようにヌクヌクしていた。
縁側にて頬杖をついて寝転がっている男ーー紺色の着物に黒の袴、髷は結わずに総髪の髪を金属の髪留めでうしろに撫で付けており、目の前には淡青色の柄巻の刀が置かれていた。
男は大口を開けてアクビをした。
「これ、源之助」
「ん?」男ーー猿田源之助は寝転がったまま首だけで振り返った。
川越藩の直参旗本、松平天馬がそこにいた。天馬の脇には天馬の右腕である守山が眉間にシワを寄せて佇んでいた。
そして、そのとなりには若い娘ーー簡易的に結った髪に薄汚れた着物、背は小さく困惑したような表情を浮かべて人形のようにちょこんと立ち尽くしていた。
「あぁ、天馬殿。どうされたんで?」猿田は寝転がったままいった。
「どうされたんで、じゃない!」守山。「居候の分際で何という態度! 姿勢を正さんか!」
「いいのだよ、守山」
寛容な笑い声を上げる松平天馬。だが守山、
「しかし……」
猿田はゴロンと転がってうつ伏せになって勢い良く跳ね起き膝立ちの状態になると、愛刀の『狂犬』を拾って立ち上がった。
「えっと、そちらさんは?」猿田は視線で女を指しながらいった。
「何だその態度は! 無礼にもほどがあるぞ」
「たく、うるせぇジイサンだ」
「何だと、コワッパ!」
「まぁ、やめないか」宥めるようにいう天馬。
そのやり取りを遮るように暖かい笑い声が立ち上って燃え上がった。困惑する猿田と守山、笑顔を浮かべる松平天馬。女はハッとし、
「ごめんなさい。でも、何だか可笑しくって」
守山はバツが悪そうに口を真一文字に結んで腕を組み、猿田はへこっと頭を下げた。女は改まって姿勢を正すと、
「わたし、この度こちらでお世話になることになりました。お羊といいます」
お羊がニッコリと笑うと、猿田は豪快に笑って見せた。守山がみっともないと猿田を質す。
お羊は飛騨の高山にて生まれた。年齢は十七。両親によって定められた相手との結婚がイヤになり、飛騨を飛び出したという。
はじめは江戸を目指していたのだが、いつの間にか道に迷って川越街道に入り、気づけば川越の街にたどり着いていたのだが、財布を盗まれてしまい、無一文となって泣いていたところを松平天馬が見つけた。
事情が事情なだけに行き場もなく、天馬の計らいで、お羊は松平邸に居候しながら女中として奉公することとなったのだった。
「よろしくお願いします、守山様、源之助様」
猿田は照れくさそうに頭に手をやると、
「あ、はぁ、よろしく……」
それからお羊の松平邸での奉公生活が始まった。松平天馬はこころ優しく親切な人物だった。いつも笑顔を絶やさず、お羊のことを見守っていた。
とある日のことである。いつも通り縁側で頬杖をついて寝ている猿田を見つけたお羊は、猿田のとなりに腰掛けた。
「おとなり、失礼します」
ボケッとしていた猿田は、お羊がとなりに座ったのを見て飛び上がり、慌てて姿勢を正した。クスクス笑うお羊。
「そんなに慌ててどうされたのですか?」
「いやぁ……、急、だったモノで」
「ふふ、ごめんなさい、驚かせてしまって」
「い、いえ、そんなことは全然」
静寂が膜を張ったように空気に漂う。沈黙。口をモゴモゴさせつつ、横目でお羊のほうを伺う猿田ーーだが、お羊は澄み渡った青空を見上げて何とも清々しい表情を浮かべていた。互いに何も話そうとはしない。
結局、その日ふたりが交わしたことばは、
「では、お仕事がありますので」
「あ、ではまた……」
という味気ないふたことのみだった。
それから更に時間は経ち、ふたりも顔を合わせれば最低限の会話が出来るようになった頃のある夜、腹をすかした猿田が夜食を求めに台所へ忍び込んだことがあった。
「誰だ?」鋭い声。
「か、かたじけない……ッ!」猿田は声を裏返させていった。
「何だ、源之助様でしたか」
猿田に声を掛けたのは、お羊だった。ドスの切先のように鋭かった声色も、気づけば柔らかで暖かい手拭いのようにほぐれていた。
「……あぁ、お羊か。守山かと思った」
「わたしと守山様を間違えるなんて、酷うございますよ」含み笑い。
「あ、いや、やけに鋭い調子だったから」
「それはそうですよ。台所で作業していたら、誰かが忍び込んで来るんですモノ」
「まぁ、それは……、そうだな」猿田は気まずさを誤魔化すように笑って見せた。
「でも、どうされたんです? こんな時間に。お腹ペコペコになっちゃいました?」
猿田はお羊から目線を外し、曖昧に頷いた。お羊はそんな猿田を見て、
「もっと素直になればよろしいのに。何か作りますから、そこに座ってて下さいな」
「あ、あぁ、かたじけない」
食の準備をするお羊を目にし、猿田はギコチナイ動きで軒先に腰掛けた。
「……しかし、こんな時間に台所で何をやってたんだ?」
「明日の朝御飯の準備ですよ。いつも早い時間にお出し出来るように、夜に準備をしてそれから寝ることにしているんです」
「へぇ、そうだったのか……」
「あの、源之助様に以前からお訊きしたかったことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
猿田は一瞬の沈黙を置き、相槌を打った。
「何だ?」
「源之助様は、どうしてこちらに御厄介になることになったのですか?」
「……あぁ、それはーー」
猿田は語り出す。父親の仇を討ち、江戸にて死に掛けの女を助けた果てに、もはや生きる意味を見失ってしまったこと。すべてを失い故郷である川越に帰って来たこと。そこで自害も同然な形で旗本の行列に因縁を吹っ掛けたこと。そして、その因縁を吹き掛けた旗本が松平天馬その人で、それが切っ掛けとなって、松平邸にて居候をすることになったこと。
「……そうだったのですね」沈黙、そしてーー「……そういえば、源之助様はいつも縁側にてお昼寝なさっていますが、お手伝いというか、何かお仕事はなさらないのですか?」
「ん?……まぁな」
答えられるはずがない。確かに猿田は、一見すると自堕落でただ縁側にて昼寝を繰り返す穀潰しにしか見えないが、その実、裏では天馬を元締とした『川越天誅屋』という闇の仕事をしている。そして、その仕事は狙った相手を必ず殺すという過酷なモノである。
そんなことを、何も知らないであろうお羊にはいえるはずがなかった。
ふとお羊は笑い出した。
「確かに源之助様ってどんくさそうですモノね」
「はぁ?」思いも掛けない答えに猿田の顔には唖然の色。「何だよそれ」
「失礼なこといってごめんなさい。でも、源之助様のようにのんびりとした方は、剣術の道場通いをしたり、剣を人に教えたりといったこともなさらないかな、と思って。それに、源之助様のようにこころ優しい方では、悪いことなんか絶対に出来ないでしょうから」
「……こころ優しい、か」
猿田は寂しげに笑った。
【続く】
縁側にて頬杖をついて寝転がっている男ーー紺色の着物に黒の袴、髷は結わずに総髪の髪を金属の髪留めでうしろに撫で付けており、目の前には淡青色の柄巻の刀が置かれていた。
男は大口を開けてアクビをした。
「これ、源之助」
「ん?」男ーー猿田源之助は寝転がったまま首だけで振り返った。
川越藩の直参旗本、松平天馬がそこにいた。天馬の脇には天馬の右腕である守山が眉間にシワを寄せて佇んでいた。
そして、そのとなりには若い娘ーー簡易的に結った髪に薄汚れた着物、背は小さく困惑したような表情を浮かべて人形のようにちょこんと立ち尽くしていた。
「あぁ、天馬殿。どうされたんで?」猿田は寝転がったままいった。
「どうされたんで、じゃない!」守山。「居候の分際で何という態度! 姿勢を正さんか!」
「いいのだよ、守山」
寛容な笑い声を上げる松平天馬。だが守山、
「しかし……」
猿田はゴロンと転がってうつ伏せになって勢い良く跳ね起き膝立ちの状態になると、愛刀の『狂犬』を拾って立ち上がった。
「えっと、そちらさんは?」猿田は視線で女を指しながらいった。
「何だその態度は! 無礼にもほどがあるぞ」
「たく、うるせぇジイサンだ」
「何だと、コワッパ!」
「まぁ、やめないか」宥めるようにいう天馬。
そのやり取りを遮るように暖かい笑い声が立ち上って燃え上がった。困惑する猿田と守山、笑顔を浮かべる松平天馬。女はハッとし、
「ごめんなさい。でも、何だか可笑しくって」
守山はバツが悪そうに口を真一文字に結んで腕を組み、猿田はへこっと頭を下げた。女は改まって姿勢を正すと、
「わたし、この度こちらでお世話になることになりました。お羊といいます」
お羊がニッコリと笑うと、猿田は豪快に笑って見せた。守山がみっともないと猿田を質す。
お羊は飛騨の高山にて生まれた。年齢は十七。両親によって定められた相手との結婚がイヤになり、飛騨を飛び出したという。
はじめは江戸を目指していたのだが、いつの間にか道に迷って川越街道に入り、気づけば川越の街にたどり着いていたのだが、財布を盗まれてしまい、無一文となって泣いていたところを松平天馬が見つけた。
事情が事情なだけに行き場もなく、天馬の計らいで、お羊は松平邸に居候しながら女中として奉公することとなったのだった。
「よろしくお願いします、守山様、源之助様」
猿田は照れくさそうに頭に手をやると、
「あ、はぁ、よろしく……」
それからお羊の松平邸での奉公生活が始まった。松平天馬はこころ優しく親切な人物だった。いつも笑顔を絶やさず、お羊のことを見守っていた。
とある日のことである。いつも通り縁側で頬杖をついて寝ている猿田を見つけたお羊は、猿田のとなりに腰掛けた。
「おとなり、失礼します」
ボケッとしていた猿田は、お羊がとなりに座ったのを見て飛び上がり、慌てて姿勢を正した。クスクス笑うお羊。
「そんなに慌ててどうされたのですか?」
「いやぁ……、急、だったモノで」
「ふふ、ごめんなさい、驚かせてしまって」
「い、いえ、そんなことは全然」
静寂が膜を張ったように空気に漂う。沈黙。口をモゴモゴさせつつ、横目でお羊のほうを伺う猿田ーーだが、お羊は澄み渡った青空を見上げて何とも清々しい表情を浮かべていた。互いに何も話そうとはしない。
結局、その日ふたりが交わしたことばは、
「では、お仕事がありますので」
「あ、ではまた……」
という味気ないふたことのみだった。
それから更に時間は経ち、ふたりも顔を合わせれば最低限の会話が出来るようになった頃のある夜、腹をすかした猿田が夜食を求めに台所へ忍び込んだことがあった。
「誰だ?」鋭い声。
「か、かたじけない……ッ!」猿田は声を裏返させていった。
「何だ、源之助様でしたか」
猿田に声を掛けたのは、お羊だった。ドスの切先のように鋭かった声色も、気づけば柔らかで暖かい手拭いのようにほぐれていた。
「……あぁ、お羊か。守山かと思った」
「わたしと守山様を間違えるなんて、酷うございますよ」含み笑い。
「あ、いや、やけに鋭い調子だったから」
「それはそうですよ。台所で作業していたら、誰かが忍び込んで来るんですモノ」
「まぁ、それは……、そうだな」猿田は気まずさを誤魔化すように笑って見せた。
「でも、どうされたんです? こんな時間に。お腹ペコペコになっちゃいました?」
猿田はお羊から目線を外し、曖昧に頷いた。お羊はそんな猿田を見て、
「もっと素直になればよろしいのに。何か作りますから、そこに座ってて下さいな」
「あ、あぁ、かたじけない」
食の準備をするお羊を目にし、猿田はギコチナイ動きで軒先に腰掛けた。
「……しかし、こんな時間に台所で何をやってたんだ?」
「明日の朝御飯の準備ですよ。いつも早い時間にお出し出来るように、夜に準備をしてそれから寝ることにしているんです」
「へぇ、そうだったのか……」
「あの、源之助様に以前からお訊きしたかったことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
猿田は一瞬の沈黙を置き、相槌を打った。
「何だ?」
「源之助様は、どうしてこちらに御厄介になることになったのですか?」
「……あぁ、それはーー」
猿田は語り出す。父親の仇を討ち、江戸にて死に掛けの女を助けた果てに、もはや生きる意味を見失ってしまったこと。すべてを失い故郷である川越に帰って来たこと。そこで自害も同然な形で旗本の行列に因縁を吹っ掛けたこと。そして、その因縁を吹き掛けた旗本が松平天馬その人で、それが切っ掛けとなって、松平邸にて居候をすることになったこと。
「……そうだったのですね」沈黙、そしてーー「……そういえば、源之助様はいつも縁側にてお昼寝なさっていますが、お手伝いというか、何かお仕事はなさらないのですか?」
「ん?……まぁな」
答えられるはずがない。確かに猿田は、一見すると自堕落でただ縁側にて昼寝を繰り返す穀潰しにしか見えないが、その実、裏では天馬を元締とした『川越天誅屋』という闇の仕事をしている。そして、その仕事は狙った相手を必ず殺すという過酷なモノである。
そんなことを、何も知らないであろうお羊にはいえるはずがなかった。
ふとお羊は笑い出した。
「確かに源之助様ってどんくさそうですモノね」
「はぁ?」思いも掛けない答えに猿田の顔には唖然の色。「何だよそれ」
「失礼なこといってごめんなさい。でも、源之助様のようにのんびりとした方は、剣術の道場通いをしたり、剣を人に教えたりといったこともなさらないかな、と思って。それに、源之助様のようにこころ優しい方では、悪いことなんか絶対に出来ないでしょうから」
「……こころ優しい、か」
猿田は寂しげに笑った。
【続く】