【明日、白夜になる前に~伍拾四~】
文字数 2,603文字
人間、希望的観測よりも悪い予感のほうが的中するモノだ。
世の中は不公平だと思うが、それもそのはず。希望的観測には確たる根拠が不足しがちであり、それはあくまで願望として完結することが殆どだ。だが、悪い予感というのは、自分の人生における経験値から導いた、ひとつの教訓から予測されるモノであって、だからこそ、そこには確たる根拠が存在することが多い。故に悪い予感というのは当たりがちになる。
だが、今ぼくが思い描いている悪い予感に根拠はない。普通に考えればそんなことは有り得ない、のだから。
有り得ない、どうしてそのようなことがいえるのか。ぼくは全知全能じゃない。それにすべての話を隙間なく絡め取って頭に入れるほど勤勉でもなければ、賢くもない。
「斎藤さん!」
名前を呼ばれてハッとする。どうも白昼夢を見たように、自分の考えに耽っていたようだ。
ここは居酒屋。目の前にいるのは後輩の宗方さん。ぼくの反応がないから心配になったのだろう、その顔には不安が浮かび上がっている。
「あ、ごめん……」
「どうしたのかと思いました。わたしが変なこと訊いたから、機嫌悪くしちゃったかと……」
「いや、そんなんじゃ……」
ふと、更なるイヤな予感が浮かぶ。
里村さんに何かが起きて、かつそれが人為的なモノだとしたら、そうなった原因はぼくによるモノが大きいだろう。でなければ、あんな風に不自然なメッセージは返って来ない。
ぼくは宗方さんのことを見る。じっと見る。穴が空くほどに。
「どうしたんですか……!?」
ふと宗方さんがぼくから顔を反らし、ぼくから顔を隠すように両手を翳す。
「いや、別に」
「何か今日の斎藤さん、変ですよ?」
変。変にもなるだろう。何故ならそこにあからさまなトラップがあるのに、ぼくにはそれが見えていないような気がしているのだから。
いや、もしかしたらそれは逆で、本当はトラップなんかないのに、そこが地雷原だと勘違いしているパターンなのかも。
考えれば考えるほどにドツボにハマる。悪い流れ。一度空気を入れ換えなければならない。
「ごめん、ちょっとトイレ……」
そういってぼくは席を立つ。ボックスから出るところでふと見えた宗方さんの顔は不安か悲しみか、深刻な表情で揺れている。ぼくはそれを無視するようにボックスを出て、すぐそばにあるトイレへと入る。
トイレに入ると特に催したワケでもないのに個室に入る。申しワケ程度に下を下ろして便座に座ると、ぼくは大きく息を吐く。喧騒から僅かに離れ、ぼくは今ひとり。安堵出来るかというと、それはノーだ。
確かにひと息つくことは出来たが、それもすぐに破られる。ひとりでいると不安は波のように一気に押し寄せて来る。そして、更なる不安も。ダメだ。不安ばかり抱いても何の解決にもならないではないか。
不安は連鎖する。ひとつの不安は別の不安を呼び、不安は不安を食って肥大する。肥大した不安はもはやそこに根拠なんかないのに、それがまるで必ず起こると錯覚して気持ちはドンドン落ち込んで行く。
だが、それではダメなのだ。
兎に角、今は客観的な事実に基づいて思考を組み立てていくべきだ。ぼくは顔を二度、両手のひらで叩くと、最後にもう一度大きく息を吐いて個室を出、トイレを後にする。
不安なんか考えないようにしたかった。だが、考えないようにすることは考えていることと何ら変わりはなかった。
トイレを出てドアをゆっくりと閉める。
「あれ? お久しぶりですね!」
突然そんな風に声を掛けられて心臓が跳ね上がらんばかりだったが、その声の主を見て、ぼくは思わず安堵のため息をつく。
「あぁ、あなたでしたか……」
あなた。そのあなたとは、黒澤さんだった。そう、ぼくの勤めている会社のすぐ近くの会社に勤めているOLさんだ。にしても久しぶりだ。ここ最近、全然顔を合わせていなかったこともあって、懐かしさすら感じる。
「どうか、されたんですか……?」黒澤さんはぼくの様子を伺うように訊ねる。
「いや、何でもないんですよ。それより、お元気でしたか?」
「えぇ、まぁ。アナタは?」
ぼくは無難に元気だと答える。と、黒澤さんはそのことばを鵜呑みにしなかったようで、
「そうですか? 何か疲れてるみたい。あまり無理しないで下さいね」
明るい笑顔で黒澤さんはいう。純粋無垢な笑みに、ぼくは思わずドキッとする。久しぶりとはいえ、やはり魅力的な女性はいつ見ても魅力的に映るモノだ。
「ありがとうございます」
「あ、そうだ」そういって黒澤さんは切り出す。「実は、この度結婚することになりまして、遠くへ引っ越すことになったんです」
結婚?……ぼくの中で疑問が浮かぶ。だが、その事実はすぐにぼくを現実へと振り落とす。
「そうですか。おめでとうございます……」
そうはいったモノの、ぼくのこころは複雑だった。祝いのことばは口にしても、それをこころから祝福していないというか、こころがここにないのは明らかだった。だが、黒澤さんはより一層明るい笑顔を浮かべて、
「ありがとうございます!」という。
だが、考えてみれば当たり前のことなのだ。そもそも、そこまで顔を合わせていないのだから、そこから先に発展するワケがない。
だが、ぼくは何処かで夢を見たかったのかもしれない。あまり会うことのない美人の女性が実は自分のことを好いてくれていて、とあることをキッカケに深い仲になることを、無意識のうちに理想的な未来像として頭に描いていなかったかといわれるとウソになる。
やはり、希望的観測なんて、いつだって破れ去るのみなのだ。
ぼくは改めて、おめでとうございますという。と、黒澤さんは、
「短い間でしたが、こちらこそありがとうございました。では、これで」
といって去って行く。
そうか、結婚、か……。
ぼくは去りゆく彼女の背中をただ黙って見送る。まるで去りゆくチャンスをまたひとつ見送るように。
「……大丈夫ですか?」
ボックスに戻って座ると、宗方さんはより心配そうにぼくに訊ねる。ぼくは今の自分に出来る精一杯の笑顔を浮かべて大丈夫だと答える。
だが、こころは水漏れを起こした水槽のように虚無的になっていた。そして、今、目の前にいる宗方さんも、いずれは結婚し、ぼくは彼女の背中を見送ることとなり、再び虚無感に苛まれることだろうと思った。
寂しさが、空気のように浸透した。
【続く】
世の中は不公平だと思うが、それもそのはず。希望的観測には確たる根拠が不足しがちであり、それはあくまで願望として完結することが殆どだ。だが、悪い予感というのは、自分の人生における経験値から導いた、ひとつの教訓から予測されるモノであって、だからこそ、そこには確たる根拠が存在することが多い。故に悪い予感というのは当たりがちになる。
だが、今ぼくが思い描いている悪い予感に根拠はない。普通に考えればそんなことは有り得ない、のだから。
有り得ない、どうしてそのようなことがいえるのか。ぼくは全知全能じゃない。それにすべての話を隙間なく絡め取って頭に入れるほど勤勉でもなければ、賢くもない。
「斎藤さん!」
名前を呼ばれてハッとする。どうも白昼夢を見たように、自分の考えに耽っていたようだ。
ここは居酒屋。目の前にいるのは後輩の宗方さん。ぼくの反応がないから心配になったのだろう、その顔には不安が浮かび上がっている。
「あ、ごめん……」
「どうしたのかと思いました。わたしが変なこと訊いたから、機嫌悪くしちゃったかと……」
「いや、そんなんじゃ……」
ふと、更なるイヤな予感が浮かぶ。
里村さんに何かが起きて、かつそれが人為的なモノだとしたら、そうなった原因はぼくによるモノが大きいだろう。でなければ、あんな風に不自然なメッセージは返って来ない。
ぼくは宗方さんのことを見る。じっと見る。穴が空くほどに。
「どうしたんですか……!?」
ふと宗方さんがぼくから顔を反らし、ぼくから顔を隠すように両手を翳す。
「いや、別に」
「何か今日の斎藤さん、変ですよ?」
変。変にもなるだろう。何故ならそこにあからさまなトラップがあるのに、ぼくにはそれが見えていないような気がしているのだから。
いや、もしかしたらそれは逆で、本当はトラップなんかないのに、そこが地雷原だと勘違いしているパターンなのかも。
考えれば考えるほどにドツボにハマる。悪い流れ。一度空気を入れ換えなければならない。
「ごめん、ちょっとトイレ……」
そういってぼくは席を立つ。ボックスから出るところでふと見えた宗方さんの顔は不安か悲しみか、深刻な表情で揺れている。ぼくはそれを無視するようにボックスを出て、すぐそばにあるトイレへと入る。
トイレに入ると特に催したワケでもないのに個室に入る。申しワケ程度に下を下ろして便座に座ると、ぼくは大きく息を吐く。喧騒から僅かに離れ、ぼくは今ひとり。安堵出来るかというと、それはノーだ。
確かにひと息つくことは出来たが、それもすぐに破られる。ひとりでいると不安は波のように一気に押し寄せて来る。そして、更なる不安も。ダメだ。不安ばかり抱いても何の解決にもならないではないか。
不安は連鎖する。ひとつの不安は別の不安を呼び、不安は不安を食って肥大する。肥大した不安はもはやそこに根拠なんかないのに、それがまるで必ず起こると錯覚して気持ちはドンドン落ち込んで行く。
だが、それではダメなのだ。
兎に角、今は客観的な事実に基づいて思考を組み立てていくべきだ。ぼくは顔を二度、両手のひらで叩くと、最後にもう一度大きく息を吐いて個室を出、トイレを後にする。
不安なんか考えないようにしたかった。だが、考えないようにすることは考えていることと何ら変わりはなかった。
トイレを出てドアをゆっくりと閉める。
「あれ? お久しぶりですね!」
突然そんな風に声を掛けられて心臓が跳ね上がらんばかりだったが、その声の主を見て、ぼくは思わず安堵のため息をつく。
「あぁ、あなたでしたか……」
あなた。そのあなたとは、黒澤さんだった。そう、ぼくの勤めている会社のすぐ近くの会社に勤めているOLさんだ。にしても久しぶりだ。ここ最近、全然顔を合わせていなかったこともあって、懐かしさすら感じる。
「どうか、されたんですか……?」黒澤さんはぼくの様子を伺うように訊ねる。
「いや、何でもないんですよ。それより、お元気でしたか?」
「えぇ、まぁ。アナタは?」
ぼくは無難に元気だと答える。と、黒澤さんはそのことばを鵜呑みにしなかったようで、
「そうですか? 何か疲れてるみたい。あまり無理しないで下さいね」
明るい笑顔で黒澤さんはいう。純粋無垢な笑みに、ぼくは思わずドキッとする。久しぶりとはいえ、やはり魅力的な女性はいつ見ても魅力的に映るモノだ。
「ありがとうございます」
「あ、そうだ」そういって黒澤さんは切り出す。「実は、この度結婚することになりまして、遠くへ引っ越すことになったんです」
結婚?……ぼくの中で疑問が浮かぶ。だが、その事実はすぐにぼくを現実へと振り落とす。
「そうですか。おめでとうございます……」
そうはいったモノの、ぼくのこころは複雑だった。祝いのことばは口にしても、それをこころから祝福していないというか、こころがここにないのは明らかだった。だが、黒澤さんはより一層明るい笑顔を浮かべて、
「ありがとうございます!」という。
だが、考えてみれば当たり前のことなのだ。そもそも、そこまで顔を合わせていないのだから、そこから先に発展するワケがない。
だが、ぼくは何処かで夢を見たかったのかもしれない。あまり会うことのない美人の女性が実は自分のことを好いてくれていて、とあることをキッカケに深い仲になることを、無意識のうちに理想的な未来像として頭に描いていなかったかといわれるとウソになる。
やはり、希望的観測なんて、いつだって破れ去るのみなのだ。
ぼくは改めて、おめでとうございますという。と、黒澤さんは、
「短い間でしたが、こちらこそありがとうございました。では、これで」
といって去って行く。
そうか、結婚、か……。
ぼくは去りゆく彼女の背中をただ黙って見送る。まるで去りゆくチャンスをまたひとつ見送るように。
「……大丈夫ですか?」
ボックスに戻って座ると、宗方さんはより心配そうにぼくに訊ねる。ぼくは今の自分に出来る精一杯の笑顔を浮かべて大丈夫だと答える。
だが、こころは水漏れを起こした水槽のように虚無的になっていた。そして、今、目の前にいる宗方さんも、いずれは結婚し、ぼくは彼女の背中を見送ることとなり、再び虚無感に苛まれることだろうと思った。
寂しさが、空気のように浸透した。
【続く】