【丑寅は静かに嗤う~三角】
文字数 2,315文字
川越にある新河岸の川沿いはまるで霧がたったように夢幻の様相を呈していた。
長く伸びた芦と雑草が無作法に川岸を彩っていた。その所々には朽ち果てた小舟がまるで骸のように打ち上げられ絶命していた。
或いは藁で編まれた即席の屋根に枝で組まれた骨組みで建てられた簡易的な住まいが並んでおり、そこには確かにひとつの村があった。
女たちーー化粧気はあるが、艶っぽさはとっくに賞味期限切れ。まるで枯れ果てた美しい花のような女たちが藁座敷をその腋に抱えたり、甘い蜜を搾り出すようにして藁の住まいの前で売れっ子の芸者のように立ちつくしていた。
ここにいる女はみな夜鷹だった。
夜鷹とは、早い話が吉原や深川にあるような女郎小屋、そういった場所に属さずに、河原沿い等の場所で身体の売る商売女のことである。
が、そこにいるのは大抵女として「売り物」にならなくなった年増や年寄りが殆どで、もはや白粉のにおいの濃さが加齢臭を誤魔化すためといっても可笑しくないような有り様。
そんな夜鷹たちが商売っ気を出して通り掛かる男たちを誘惑し、即席に愛し合う中、そこから外れた川辺の一角にふたりの男女がいた。
ふたりは身体を交わし合うどころか、互いに距離を取って顔を見合わせようともしない。
「……あの女にはあまり関わらないほうがいいと思う」女のほうがいった。
女は、お雉だ。この場の雑然とした雰囲気にはおよそ似つかわしくないような派手できらびやかな着物を着ており、それから微かに覗ける赤い襦袢が妙に艶やかだった。襦袢の赤の奥には白くて豊満な乳房が蜜蜂を誘う食虫植物のように、大きな割れ目を作って待ち構えている。
だが、お雉は色気を振り撒きながらも、この世に生きるあらゆる男を否定するようにその表情を強張らせていた。
そんなお雉の艶やかさに、もうひとりの男はまったく目を向けようともしやかった。
「あの女って、誰のことだ?」男はいった。
男とは猿田源之助のことだ。猿田は微かな笑みを見せつつも、その視線をお雉に向けることは一向になかった。まるで、視線がお雉を見ることを拒否しているようだった。
「誰って、惚けるのは止めて」
「惚けるったって、わからないモノはわからないからな」猿田のことばは冷めていた。
お雉は大きくため息をついた。
「……天馬様の屋敷に住み込みで働いている、あの『お羊』って女のことだよ」
「お羊、か。アレはなかなかに良く出来た女だよ。仕事は早いし、よく気が利くし、オマケに料理もうまい。女としては上々だ」
「何それ。まるであたしが下の下みたいないい方じゃない?」お雉の顔に不快な色が浮かぶ。
確かにお雉のいうことにも一理はある。
みすぼらしい格好でありながら、化粧もしていない顔で屈託のない笑みを見せ、健気に屋敷の仕事をするお羊。それに対し、派手な見た目に化粧映えした顔、何処か醒めていて氷のように冷たく微笑し、自らの身体を売って糊口を凌いでいるお雉は、お羊とはおおよそ真逆の存在といって可笑しくなかった。
「誰もそんなことはいってないよ」
猿田の微笑は、そのことばから真剣さと信憑性を奪い去っていた。
「ウソ。顔に書いてあるよ。『お前は身体を売ることでしか、己の価値を見出だせない女だ』ってね」皮肉めいた口ぶり。
「誰がそんなこといった」
勝手な決めつけに、流石の猿田もムキになっていった。漸く、お雉に目を向けて。
「……やっと、あたしのほうを見た。こうでもしないとあたしと向き合えないなんて、あたしと猿ちゃんって一体何なの?」
「おれとお前の関係? そんなのーー」
「同業者。いつ切れても可笑しくない利害だけ一致している裏稼業の仲間。そうでしょ?」
「誰もそんなこといってーー」
「ないね。確かに。でも、猿ちゃん、あの女が来てから可笑しいよ。夢見心地というか、意識が雲のようにフワフワしてるっていうか……」
大袈裟に笑って見せる猿田。
「そんなの、気のせいだろ」
「気のせい。そう思うのは、きっと猿ちゃんが男だからなんでしょうね」
水の流れる音がささやかに響いた。
「……どういう意味だ」
「さぁ、どういう意味でしょう」
「お前、皮肉をいうためだけにわざわざおれをここまで呼び出したのか?」
「さぁ、ね。でも、少しはそれもあるかも」
「くだらんね」
猿田は踵を返し、お雉に背を向けて歩き出した。今すぐにでもこの場から消えてしまいたい。そう思わせるような躊躇いのない早歩きだった。その早歩きは、お雉のことばから目を叛けたい、否定したい気持ちが隠し切れていないのが丸わかりだった。
「猿ちゃん」猿田の背中に声を掛けるお雉。猿田は足を止め、顔をやや傾けてお雉のいる背後に意識を傾けた。「アンタ、自分が何をやっている人か、わかってる?」
猿田は何も返さなかった。ただ、その場に佇んでお雉の次のことばを待つばかり。
「……あたしもアナタも、人殺し。人の生き血を啜って生きる蛭のような人間のクズ。天馬様の計らいで『世のため、人のため』とか大義名分めいたことを謳ってはいるけれど、その薄皮一枚剥いでみれば、あたしもアナタもただの人殺し。俗世に背を向け、足を向けて生きていかなければならない落伍者に過ぎない。そんなあたしたちが、俗世の人たちと同じような生き方が出来ると思う? 幸せを手に入れられると思う? あたしとアナタは一心同体。たどり着く先は地獄のみ。アナタが足を洗うというのなら、あたしはーー」
猿田はお雉のことばに構わず歩き出した。お雉は猿田を引き止めようとしたが、猿田はもう足を止めなかった。
うつむき加減に歩く猿田。その姿は何処か俗世と闇の狭間でもがいているようだった。
【続く】
長く伸びた芦と雑草が無作法に川岸を彩っていた。その所々には朽ち果てた小舟がまるで骸のように打ち上げられ絶命していた。
或いは藁で編まれた即席の屋根に枝で組まれた骨組みで建てられた簡易的な住まいが並んでおり、そこには確かにひとつの村があった。
女たちーー化粧気はあるが、艶っぽさはとっくに賞味期限切れ。まるで枯れ果てた美しい花のような女たちが藁座敷をその腋に抱えたり、甘い蜜を搾り出すようにして藁の住まいの前で売れっ子の芸者のように立ちつくしていた。
ここにいる女はみな夜鷹だった。
夜鷹とは、早い話が吉原や深川にあるような女郎小屋、そういった場所に属さずに、河原沿い等の場所で身体の売る商売女のことである。
が、そこにいるのは大抵女として「売り物」にならなくなった年増や年寄りが殆どで、もはや白粉のにおいの濃さが加齢臭を誤魔化すためといっても可笑しくないような有り様。
そんな夜鷹たちが商売っ気を出して通り掛かる男たちを誘惑し、即席に愛し合う中、そこから外れた川辺の一角にふたりの男女がいた。
ふたりは身体を交わし合うどころか、互いに距離を取って顔を見合わせようともしない。
「……あの女にはあまり関わらないほうがいいと思う」女のほうがいった。
女は、お雉だ。この場の雑然とした雰囲気にはおよそ似つかわしくないような派手できらびやかな着物を着ており、それから微かに覗ける赤い襦袢が妙に艶やかだった。襦袢の赤の奥には白くて豊満な乳房が蜜蜂を誘う食虫植物のように、大きな割れ目を作って待ち構えている。
だが、お雉は色気を振り撒きながらも、この世に生きるあらゆる男を否定するようにその表情を強張らせていた。
そんなお雉の艶やかさに、もうひとりの男はまったく目を向けようともしやかった。
「あの女って、誰のことだ?」男はいった。
男とは猿田源之助のことだ。猿田は微かな笑みを見せつつも、その視線をお雉に向けることは一向になかった。まるで、視線がお雉を見ることを拒否しているようだった。
「誰って、惚けるのは止めて」
「惚けるったって、わからないモノはわからないからな」猿田のことばは冷めていた。
お雉は大きくため息をついた。
「……天馬様の屋敷に住み込みで働いている、あの『お羊』って女のことだよ」
「お羊、か。アレはなかなかに良く出来た女だよ。仕事は早いし、よく気が利くし、オマケに料理もうまい。女としては上々だ」
「何それ。まるであたしが下の下みたいないい方じゃない?」お雉の顔に不快な色が浮かぶ。
確かにお雉のいうことにも一理はある。
みすぼらしい格好でありながら、化粧もしていない顔で屈託のない笑みを見せ、健気に屋敷の仕事をするお羊。それに対し、派手な見た目に化粧映えした顔、何処か醒めていて氷のように冷たく微笑し、自らの身体を売って糊口を凌いでいるお雉は、お羊とはおおよそ真逆の存在といって可笑しくなかった。
「誰もそんなことはいってないよ」
猿田の微笑は、そのことばから真剣さと信憑性を奪い去っていた。
「ウソ。顔に書いてあるよ。『お前は身体を売ることでしか、己の価値を見出だせない女だ』ってね」皮肉めいた口ぶり。
「誰がそんなこといった」
勝手な決めつけに、流石の猿田もムキになっていった。漸く、お雉に目を向けて。
「……やっと、あたしのほうを見た。こうでもしないとあたしと向き合えないなんて、あたしと猿ちゃんって一体何なの?」
「おれとお前の関係? そんなのーー」
「同業者。いつ切れても可笑しくない利害だけ一致している裏稼業の仲間。そうでしょ?」
「誰もそんなこといってーー」
「ないね。確かに。でも、猿ちゃん、あの女が来てから可笑しいよ。夢見心地というか、意識が雲のようにフワフワしてるっていうか……」
大袈裟に笑って見せる猿田。
「そんなの、気のせいだろ」
「気のせい。そう思うのは、きっと猿ちゃんが男だからなんでしょうね」
水の流れる音がささやかに響いた。
「……どういう意味だ」
「さぁ、どういう意味でしょう」
「お前、皮肉をいうためだけにわざわざおれをここまで呼び出したのか?」
「さぁ、ね。でも、少しはそれもあるかも」
「くだらんね」
猿田は踵を返し、お雉に背を向けて歩き出した。今すぐにでもこの場から消えてしまいたい。そう思わせるような躊躇いのない早歩きだった。その早歩きは、お雉のことばから目を叛けたい、否定したい気持ちが隠し切れていないのが丸わかりだった。
「猿ちゃん」猿田の背中に声を掛けるお雉。猿田は足を止め、顔をやや傾けてお雉のいる背後に意識を傾けた。「アンタ、自分が何をやっている人か、わかってる?」
猿田は何も返さなかった。ただ、その場に佇んでお雉の次のことばを待つばかり。
「……あたしもアナタも、人殺し。人の生き血を啜って生きる蛭のような人間のクズ。天馬様の計らいで『世のため、人のため』とか大義名分めいたことを謳ってはいるけれど、その薄皮一枚剥いでみれば、あたしもアナタもただの人殺し。俗世に背を向け、足を向けて生きていかなければならない落伍者に過ぎない。そんなあたしたちが、俗世の人たちと同じような生き方が出来ると思う? 幸せを手に入れられると思う? あたしとアナタは一心同体。たどり着く先は地獄のみ。アナタが足を洗うというのなら、あたしはーー」
猿田はお雉のことばに構わず歩き出した。お雉は猿田を引き止めようとしたが、猿田はもう足を止めなかった。
うつむき加減に歩く猿田。その姿は何処か俗世と闇の狭間でもがいているようだった。
【続く】