【いろは歌地獄旅~何度目かの四十九日~】

文字数 2,660文字

 人を殺すことがここまで苦しいことだとは思ってもみなかった。

 まず、普通の人間ならそんなことは出来ないだろう。ひとりを殺すだけでも罪悪感に押し潰されてしまうだろうから。

 一般的な猟奇殺人犯、あれも所詮は死にたがり。死刑希望の大量殺人犯も結局、犯行の一瞬で脳のサーキットを焼き切って、あらゆる情念を振り切ったつもりでいるのだろうが、その重みは犯行後少ししてからやって来る。

 死刑になりたい。そうは思っていても結局は死にたくない。小さな牢の中で身体を震わしながらそう思い続けるのが相場だ。そして、実際に死刑が確定すれば、いつ来るかわからない処刑日に震えながら三角座りして、独居房の扉がノックされるのを待ち続けなければならない。

 そんなの、まともな人間でも異常者でも簡単に耐えられるモノではない。

 人は死の重圧から逃れることが出来ない。ましてや人の命を奪ってしまったならば、仮にそれが過失だとしても、これから錘がたくさんついたような人生を送らなければならなくなる。

 つまり、わたしはたくさんの錘を身体にくくりつけて生きている、ということだ。

 どうしてこのような人生を歩むようになったかといえば、その経緯を話すには結構な時間が掛かるが、ひとついえるのは、ろくでもない理由から、わたしは今の仕事をすることになったということだ。

 わたしの仕事、それは『恨めし屋』という霊の仲介をし、霊の未練を解き成仏させるという通常の求人案内ではとても紹介されることのない特殊なモノである。

 そして、その仕事の一環として、『霊の恨みを晴らす』というモノがある。

 一環といえば、まだそれがひとつのオプションであって、極たまにやってくる仕事のようにも思えるかもしれないが、残念なことに幽霊も所詮は人間である。好きな相手がいれば嫌いな相手もいる。人を許す能力もあれば、恨む力もある。

 だが、後者は基本的に生前にドロドロした人間関係の沼で溺れ死んだのが殆どで、もはや生ある人間に悪い意味で執着しているケースが殆どであるといっていい。

 即ち、何故自分がこんな目に遭わなければならないのかという、世を恨むような感情が渦巻いているということだ。

 だからこそ、恨みの対象を殺す仕事は次から次へと舞い降りて来る。自分を殺した犯罪者に復讐したい、これはまだわかる。それならまだ自分の中でも誤魔化しが利く。だが、本当にハードなのは、昔の恋人だったり、伴侶だったり、はたまた親族だったりといった人たちを殺して欲しいといった依頼だったりする。

 その理由は酷い裏切りに遭っただとか、暴力を奮われただとかが多い。酷い場合は自分を振ったあの女を殺してくれなんてこともある。それでは好きでもない相手に告白されても断ってはいけないということになってしまう。そう考えると、この世は死後の世界含めて理不尽だ。

 佐野めぐみ、この名前にはウンザリだった。

 この名前が本名か仮名かは明言しないーーそもそも人を殺すのに本名を名乗るリスクがどれほどのモノか、それがわかっていればこれがどういう名前かはわかると思うがーーが、わたしはこの名前で数々の人間を葬って来た。だが、それを繰り返せば繰り返すほどにわたしの精神は蝕まれ、汚染されていく。

 確かにこの時は未熟だった。そういってしまえばそれまでだろう。だが、人を殺すのに感情を無にしろといわれて簡単に出来るのは、訓練されたアーミーかエージェントでしかない。つまり、わたしはその訓練された人間と同じようなマインドを持つことを強いられている。

 その時、わたしはボロボロだった。

 まともに化粧もせず、疲弊した肉体を引き摺って『恨めし屋』の仕事から少しでも遠くへと離れようとした。わたしは最低限の変装だけして電車に乗り、可能な限り現実から逃避してみようと思った。

 そして、何となく駅を降り、そのままその街を散策してみることにした。が、駅を出る前にその考えは改めさせられることとなった。というのも、わたしは芝居の公演ポスターを見つけ、それに釘付けになってしまったのだ。

 芝居なんてまともに観たことがなかった。昔はアニメに映画に小説とフィクションの類いは大好きで、暇があればそれらに触れていたというのに、芝居だけは触れる機会がなかった。

 その芝居のタイトルは『何度目かの四十九日』だった。

 どういう意味だろう。気になって仕方なかった。わたしはポスターを隅から隅まで確認した。公演日は奇しくもこの日、しかも一時間後には開演とのことだった。

 すぐさま場所を調べる。どうやら駅から歩いて行ける程度のロケーションらしい。わたしは駅を出て公演場所まで向かった。

 にしても、どうして素人の芝居になんか惹き付けられてしまったのだろう。不思議で仕方なかった。ポスターに載っていた出演者の写真。その中でも際立って目を惹いたのは、『新人』と書かれた、恐らくわたしと同い年くらいの男性の写真だった。

 同い年くらいなら、普通に社会人として表の世界に出ていても可笑しくはない。だが、この人は違うとふと思った。

 顔に何処か影がある。

 笑ってはいるのに、何処か社会に対して背を向けているような、そんな虚無的な笑みを浮かべている。緊張の面持ちといえば、そうも見える。というか、あらゆる意味を込めた笑みという印象がそこにはあった。

 会場に着き、勝手のわからないまま受付の人の誘導で当日券を買って会場に入り、開演が始まるのを待ったーー待った……。

 いい芝居だった。素人が作ったにしてはよく出来ていた。そしてわたしの頭はあの新人の演技でいっぱいになっていた。

 ギコチナかった。まだ芝居しなれていないのがすぐにわかるほど。だが、そこに乗った反応反射、感情に涙はそのギコチナい芝居をすべて肯定させてしまうほどの力を持っていた。

 彼は死に行く者の役立った。聴くところによれば、これが初めての芝居らしかったが、そんな人がガチガチになりながらも生を叫ぶような演技をする様を観るのは、何か忘れ掛けていたモノを思い出させてくれるようだった。

 そうだ。死にたくて死ぬ人間なんて、そういるモンじゃない。

 わたしだって生きたい。でも、わたしは人の命を奪わなければならない。苦しいけれど、それもひとつの人生でしかないのだ。

 だから、わたしはわたしの道を歩こう。

 わたしは会場から出て、再び会場で貰った芝居のパンフレットを開いた。

『山田和雅』ーーその名前は忘れないだろう。

 わたしは前を向いて、ゆっくりと階段を降りて行った。
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登場人物紹介

どうも!    五条です!


といっても、作中の登場人物とかではなくて、作者なんですが。


ここでは適当に思ったことや経験したことをダラダラと書いていこうかな、と。


ま、そんな感じですわ。

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