【天国にいちばん近い夜】
文字数 2,719文字
この世は苦悩に満ちている。
いきなり宗教の勧誘でも始めるんじゃないかって感じの切り出しだけど、ウイルスに地震、様々なフラストレーションが蔓延している今の世の中は苦悩が満ちているといっても過言ではないと思うのだ。
それに、それだけじゃない。
地球規模、国家規模だけでなく、個人規模の問題だって当然そこにあるはずなのだ。
例えるなら借金で首が回らないことや、仕事や学校がキツくて精神的に不安定になったり、肉体的、あるいは精神的に深いキズを負っている等、その人にしかわからないような個人の問題というのは誰にだってある。
かくいうおれを例にしてみると、かつてのおれのマインドを蝕んでいたパニック障害だって、そういった個人の持つ問題のひとつだ。
が、問題は、そういった個人的な問題というのが、他人からしたら大したことでないように見えてしまいがちだということだ。
まぁ、借金や外傷のような可視化されているモノに関していえば、その悲壮感は伝わりやすいだろうが、精神的な苦痛や疾患に関しては、キズを負った本人にしかわからない。
そうなると、他人からしたら、「コイツは本当に苦しんでいるのか」、「ただ怠けたいだけなのではないか」といった疑念も抱きたくなるのはいうまでもないだろう。
ただ、やはり、そういった問題は当事者にしかわからないモノであって、同じ立場に立っていない人からしたら何もわからなくて当たり前なのだ。雨に濡れる人間の気持ちなど、建物の中にいる人間にはわかりはしないように。
だが、そういった人と人とのディスコミュニケーションは、人をより孤独にする。孤独という名のアリジゴクにハマった蟻にする。
そうなれば、苦しみもがき、首を掻きむしりながら絶命するのを待つか、苦痛が目の前から消え去ってくれるのを待つしかない。
とはいえーーとはいえ、である。
この世の中は何も苦痛や苦悩だけが蔓延しているワケではない。生きていれば、何処かに苦しむ人を救済してくれる何かが必ず存在する。
おれにとって、それは映画だった。
明日の見えない真っ暗な精神の闇の中で、ただひとつ光を放っていたのは、こころの中に映し出される映画のスクリーンだけだった。
そこにはたくさんのヒーローがいて、たくさんの苦悩に立ち向かう男女がいて、たくさんの奮闘しつつも朽ち果てていくモノたちがいた。
おれにはそんな彼、あるいは彼女たちが自分の中に存在するだけで良かった。
勝てなくても構わない。負けて朽ち果てても構わない。ただ、何もせず、奮闘せずに敗北していくのだけはゴメンだった。
映画の中では、まず勝ち目のない闘いに赴く者たちがたくさん描かれる。そういった境遇の中で、何かしらのミラクルで勝利してしまう者もいれば、ボロ雑巾のようになって当たり前のように敗北していく者もいる。
だが、勝とうが負けようが、おれにはどうでも良かった。問題はその人が「必死に戦ったかどうか」でしかなかった。
人はそれぞれ個人にしかわからない問題を抱えている。だが、その問題に対し、完全に蹂躙されるのと対立するのでは全然違う。
対立する中で、内に抱える問題と上手く付き合えるようになれれば、それはひとつの解決だろう。だが、それができる人はひと握りで、大抵の場合は個人の問題という泥沼に飲み込まれ溺れて息も出来ずに死んでいくのが殆どだ。
おれがパニックという問題と戦えたのは、そこに映画があったからだと思っている。
まぁ、何でこんな話をするのかというと、昨夜、十年以上続いた『映画天国』という深夜の映画放送が終わってしまったからだ。
月曜深夜ーー日付的には火曜深夜ーーに放送されていた『映画天国』は、大ヒットした映画から、街の小さな単館系の映画まで様々な映画を放送し、一定の人気を得ていた。
かくいうおれも、放送が開始された2009年から、度々月曜の深夜のお供として『映画天国』にてたくさんの映画を観てきた。
中には本当にどうしようもない映画もあれば、こころに訴え掛けてくる映画もあった。とはいえ、そのどれもが、自分にとってはひとつの財産になっていると今では思うのだ。
深夜という時間帯は降りしきる雨のように冷たく、人の孤独を煽る。個人の問題を浮き彫りにし、不安をレリーフ化する。
だが、そんな中で「作られた架空の人生」がそこにあるのは、大きかった。それが現実でなくとも、そこに奮闘者がいるのは大きかった。
仮にそのシナリオが出来すぎていても全然構わなかった。だって、この現実は創作物よりもイビツで出来が悪いのだから。
ならば、時には都合が良すぎる、出来すぎている話に浸りたくもなるし、そちらへ逃避して自分のマインドを癒したくもなるだろう。
そんな時間がおれは大好きだった。
人間関係に疲れた夜も、パニックで明日が見えない暗闇の中でも、月曜の深夜になれば、そこには映画があって、ひとつの人生があった。
それがあるだけでも全然違った。
映画の孤独は現実の孤独に寄り添い、慰め癒してくれる。『映画天国』はそんなたくさんの「孤独」を提供し、与え、キズを癒してくれた。そんな月曜の夜がなくなってしまう。そう考えると、やはり寂しいモノだ。
今の時代、動画配信サービスが隆盛を極めている。月額いくらかで、観たい映画やアニメがいくらでも観ることができる。
そうなれば、テレビの映画放送なんて、需要がないようにも思われるだろう。
でも、実際はそうではないと思うのだ。
というのも、テレビの映画放送は必ずしも個人の好みに応えてくれるワケではない。となると、観ないという選択肢になるかもしれないが、これが放送されていれば案外観てしまうモノだったりする。
そうなると、どういうことが起きるかというと、事故的に様々な映画と出会うこととなるのだ。ただ、その事故的な出会いというのが、大事なのだと、おれは思う。
だって、いくら生きていようと知らない世界は無限大なのだからな。その知らない世界の一端を映画という形で覗き込む。そういう文化が失われつつあるのは、寂しく思えるよな。
今の時代、テレビでーーそれも民放で映画を観るのは時代遅れなのかもしれない。でも、そんな時代遅れな放送形態で発見された映画がいくつもの命を救っている。
そう考えると、深夜の映画放送という文化はいつまでも続いて欲しい気はするけど、それも風前の灯。
とりあえず今は、数々の映画をかつての孤独な魂に与えてくれた『映画天国』に感謝するばかりだ。
十数年、映画という灯火を与えてくれてありがとう。また、コンスタントに深夜映画が楽しめるようになることを祈って。
アスタラビスタ。
いきなり宗教の勧誘でも始めるんじゃないかって感じの切り出しだけど、ウイルスに地震、様々なフラストレーションが蔓延している今の世の中は苦悩が満ちているといっても過言ではないと思うのだ。
それに、それだけじゃない。
地球規模、国家規模だけでなく、個人規模の問題だって当然そこにあるはずなのだ。
例えるなら借金で首が回らないことや、仕事や学校がキツくて精神的に不安定になったり、肉体的、あるいは精神的に深いキズを負っている等、その人にしかわからないような個人の問題というのは誰にだってある。
かくいうおれを例にしてみると、かつてのおれのマインドを蝕んでいたパニック障害だって、そういった個人の持つ問題のひとつだ。
が、問題は、そういった個人的な問題というのが、他人からしたら大したことでないように見えてしまいがちだということだ。
まぁ、借金や外傷のような可視化されているモノに関していえば、その悲壮感は伝わりやすいだろうが、精神的な苦痛や疾患に関しては、キズを負った本人にしかわからない。
そうなると、他人からしたら、「コイツは本当に苦しんでいるのか」、「ただ怠けたいだけなのではないか」といった疑念も抱きたくなるのはいうまでもないだろう。
ただ、やはり、そういった問題は当事者にしかわからないモノであって、同じ立場に立っていない人からしたら何もわからなくて当たり前なのだ。雨に濡れる人間の気持ちなど、建物の中にいる人間にはわかりはしないように。
だが、そういった人と人とのディスコミュニケーションは、人をより孤独にする。孤独という名のアリジゴクにハマった蟻にする。
そうなれば、苦しみもがき、首を掻きむしりながら絶命するのを待つか、苦痛が目の前から消え去ってくれるのを待つしかない。
とはいえーーとはいえ、である。
この世の中は何も苦痛や苦悩だけが蔓延しているワケではない。生きていれば、何処かに苦しむ人を救済してくれる何かが必ず存在する。
おれにとって、それは映画だった。
明日の見えない真っ暗な精神の闇の中で、ただひとつ光を放っていたのは、こころの中に映し出される映画のスクリーンだけだった。
そこにはたくさんのヒーローがいて、たくさんの苦悩に立ち向かう男女がいて、たくさんの奮闘しつつも朽ち果てていくモノたちがいた。
おれにはそんな彼、あるいは彼女たちが自分の中に存在するだけで良かった。
勝てなくても構わない。負けて朽ち果てても構わない。ただ、何もせず、奮闘せずに敗北していくのだけはゴメンだった。
映画の中では、まず勝ち目のない闘いに赴く者たちがたくさん描かれる。そういった境遇の中で、何かしらのミラクルで勝利してしまう者もいれば、ボロ雑巾のようになって当たり前のように敗北していく者もいる。
だが、勝とうが負けようが、おれにはどうでも良かった。問題はその人が「必死に戦ったかどうか」でしかなかった。
人はそれぞれ個人にしかわからない問題を抱えている。だが、その問題に対し、完全に蹂躙されるのと対立するのでは全然違う。
対立する中で、内に抱える問題と上手く付き合えるようになれれば、それはひとつの解決だろう。だが、それができる人はひと握りで、大抵の場合は個人の問題という泥沼に飲み込まれ溺れて息も出来ずに死んでいくのが殆どだ。
おれがパニックという問題と戦えたのは、そこに映画があったからだと思っている。
まぁ、何でこんな話をするのかというと、昨夜、十年以上続いた『映画天国』という深夜の映画放送が終わってしまったからだ。
月曜深夜ーー日付的には火曜深夜ーーに放送されていた『映画天国』は、大ヒットした映画から、街の小さな単館系の映画まで様々な映画を放送し、一定の人気を得ていた。
かくいうおれも、放送が開始された2009年から、度々月曜の深夜のお供として『映画天国』にてたくさんの映画を観てきた。
中には本当にどうしようもない映画もあれば、こころに訴え掛けてくる映画もあった。とはいえ、そのどれもが、自分にとってはひとつの財産になっていると今では思うのだ。
深夜という時間帯は降りしきる雨のように冷たく、人の孤独を煽る。個人の問題を浮き彫りにし、不安をレリーフ化する。
だが、そんな中で「作られた架空の人生」がそこにあるのは、大きかった。それが現実でなくとも、そこに奮闘者がいるのは大きかった。
仮にそのシナリオが出来すぎていても全然構わなかった。だって、この現実は創作物よりもイビツで出来が悪いのだから。
ならば、時には都合が良すぎる、出来すぎている話に浸りたくもなるし、そちらへ逃避して自分のマインドを癒したくもなるだろう。
そんな時間がおれは大好きだった。
人間関係に疲れた夜も、パニックで明日が見えない暗闇の中でも、月曜の深夜になれば、そこには映画があって、ひとつの人生があった。
それがあるだけでも全然違った。
映画の孤独は現実の孤独に寄り添い、慰め癒してくれる。『映画天国』はそんなたくさんの「孤独」を提供し、与え、キズを癒してくれた。そんな月曜の夜がなくなってしまう。そう考えると、やはり寂しいモノだ。
今の時代、動画配信サービスが隆盛を極めている。月額いくらかで、観たい映画やアニメがいくらでも観ることができる。
そうなれば、テレビの映画放送なんて、需要がないようにも思われるだろう。
でも、実際はそうではないと思うのだ。
というのも、テレビの映画放送は必ずしも個人の好みに応えてくれるワケではない。となると、観ないという選択肢になるかもしれないが、これが放送されていれば案外観てしまうモノだったりする。
そうなると、どういうことが起きるかというと、事故的に様々な映画と出会うこととなるのだ。ただ、その事故的な出会いというのが、大事なのだと、おれは思う。
だって、いくら生きていようと知らない世界は無限大なのだからな。その知らない世界の一端を映画という形で覗き込む。そういう文化が失われつつあるのは、寂しく思えるよな。
今の時代、テレビでーーそれも民放で映画を観るのは時代遅れなのかもしれない。でも、そんな時代遅れな放送形態で発見された映画がいくつもの命を救っている。
そう考えると、深夜の映画放送という文化はいつまでも続いて欲しい気はするけど、それも風前の灯。
とりあえず今は、数々の映画をかつての孤独な魂に与えてくれた『映画天国』に感謝するばかりだ。
十数年、映画という灯火を与えてくれてありがとう。また、コンスタントに深夜映画が楽しめるようになることを祈って。
アスタラビスタ。