【丑寅は静かに嗤う~猿炎】
文字数 2,396文字
火の中を泳ぐには皮膚では足りない。
燃え盛る屋敷の中を走るは屈強な柱のようなふくらはぎ。障子は灰となり、柱は炭化し始めている。
「天馬さん! 天馬さん!」
男は目を、首をあちこちに向け、天馬と呼ばれる何者かを探しているよう。
男ーー猿田源之助。相変わらず、髪はザンギリで、金属の髪留めでうしろに撫で付けている。腰元には淡青色の束巻の打刀と黒の束巻の脇差しが一本ずつ差してある。
桧皮色の景色は闇を浮き彫りにする。炎が夜の闇を強調する。その中に浮かび上がる獣を模した面がひとつ、ふたつ、三つ。
十二の獣を模した面の者たちーー刀を抜いて猿田に向かって行く。が、気づけば猿田と獣の面たちは互いに擦れ違っており、一瞬時が止まったように獣たちは静止する。
猿田の右手は淡青色の束巻に掛かっており、刀の鞘からは刀身が三寸ほど見えている。
猿田は何事もなかったかのようにして刀を納め、そのまま獣たちを残して歩き出す。
獣たちの身体から血が吹き出す。その傷口は的確に急所を捉えており、三人の獣たちを一撃で昇天させたことがわかる。
三人の獣が倒れても猿田は振り返らない。まるで死など腐るほど見て来たといわんばかり。
炎の床が猿田の足を焼く。熱された木の床は、今や灼熱。だが、猿田は何も動じず、目を細めて前に進み続ける。
廊下の奥は闇と仄かな桧皮色。そこにひとつの面が浮かび上がる。その面は先程切り捨てた三つの面とは違い、羊と猿を合わせたような様相を呈している。
「はじめからこれが目的だったのか」
が、猿田の問いに羊と猿の面は何もいわない。それどころか、猿田から顔を背けると、そのまま幻想のように消えてしまう。
「待て!」
「猿ちゃん!」
猿田の背後から女の声。比較的長身で髪はうしろでまとめており、汗にまみれた顔からは、町娘にはないような妖艶な色気が漂っている。
「早く逃げないと!」
「うるせぇ! 天馬さんが……!」
「犬吉が死んだ」
女のひとことで猿田は止まる。顔からは絶望。まるですべてが崩壊してしまったかのよう。奥歯を噛み締め、そのまま歩き出す。
「猿ちゃん!」
「……天馬さんを探す。お前は逃げろ」
女は首を大きく振る。
「ヤダよ! 猿ちゃんも一緒に……!」
「行けッ! このままじゃ、自分の身体を焼くだけだ」
「……死ぬつもり?」
が、猿田はその問いには答えず、
「得物はあるか?」
「全部、ダメになっちゃった……」
「そうか」そういって猿田は、自分の脇差を腰元から抜き取り、女に掲げる。「持ってけ」
「でも、猿ちゃんは……?」
「おれにはこれがある」猿田は自分の刀を触って見せる。「いいから持ってろ」
「でも……」
「行けッ!」猿田は半ば強引に女に脇差を渡すと、「お互い、達者でやろう」
そういい残して駈けて行ってしまう。
呆然と立ち尽くす女。ことばも出てこなければ、足も動かない。ただ、手に持った猿田の脇差を静かに見つめる。
火の手は屋敷の殆どを覆っている。もはや逃げ場など存在しないくらいに。だが、猿田の目には燃え盛る炎が映り込んで、まるで生の活力にみなぎっているよう。
猿田は呼ぶ。天馬の名前をこれでもか、と。その時ーー
「猿……、源之助……」
その声を聞くと、猿田は声のした方角にある燃え上がる障子を蹴破り、部屋に入る。そこにひとりの男ーー
天馬ーー川越の大名である松平天馬は部屋の真ん中で崩折れている。その両腿はドス黒い赤色で染まっており、その赤色は畳にまで及んでいる。
「天馬さん……!」
天馬に駆け寄る猿田。が、天馬は猿田を静止させ、
「わたしはもうダメだ……。わたしのことは放っておいて、他の者とーー」
「みんな、死にました。坊っちゃんも家老のじいさんも、……犬吉も」
猿田の報告を聴いても、天馬の様子に変化はない。恐らく、すべてを悟っているのだろう。
「……そうか。犬吉にも悪いことをしたもんだ」
「……遅かれ早かれ、おれもアイツも地獄行きです。そればかりは仕方がない。でもーー」
「わたしは別、とでもいいたいのか?」
図星をつかれた、とでもいわんばかりに猿田は黙り込む。沈黙。炎の弾ける音だけが虚しく響く。天馬の微笑。
「別、ではない。元締はわたしなのだから。地獄への行脚はわたしも一緒だ」
猿田は何もいえず、拳をグッと握り込む。
「あの約束、覚えているか?」
天馬のひとことに、猿田は静かに頷く。
「ならば話は早い。わたしとの約束を果たし、すべてを終わらせてくれ」
「しかし……」
「これは命令だ。そして……、友からの最後の頼みだ。頼む……源之助」
猿田はうつむき黙り込んでしまう。が、観念したのか、大きく頷き、その場に正座する。猿田の承知を確認した天馬は懐の懐紙を抜き取り自分の前に置くと、腰元の短刀を抜き、懐紙の上に置き、
「時間がない。略式で頼む」
猿田は頷き、刀を抜いて立ち上がり、刀身を肩で担ぐようにして構える。そして、
「何か、いい残すことは?」
猿田がそういうと天馬は、
「では、ひとつ頼みがありまする。聴いて下さいますでしょうか?」
「……何なりとも」
「ではーー」
懐を探る天馬。その手が出るとーー
粘っこい汗が、飛び起きた猿田の身体を覆っている。夢、まるで地獄の釜の底のような悪夢。荒い呼吸を繰り返し、猿田は前腕で額を拭い、そして大きくため息をつく。
虫の音は平和を象徴しているよう。ここは猿田の住んでいる村の離れ家。明かりはなく、真っ暗。月明かりだけが、その場を照らしている。
猿田は這いずり手探りで家の外に出る。家の中よりもこころなしか外のほうが明るい気がする。川のせせらぎに、虫の音が猿田の内耳を優しく撫でる。寝苦しい夜に夜風は心地よいらしく、幾分、猿田の顔には安堵が見える。
が、次の瞬間、猿田の表情に大きな歪みが訪れ、猿田は闇に向かって駈け出す。
まるで、何かに導かれるようにーー
【続く】
燃え盛る屋敷の中を走るは屈強な柱のようなふくらはぎ。障子は灰となり、柱は炭化し始めている。
「天馬さん! 天馬さん!」
男は目を、首をあちこちに向け、天馬と呼ばれる何者かを探しているよう。
男ーー猿田源之助。相変わらず、髪はザンギリで、金属の髪留めでうしろに撫で付けている。腰元には淡青色の束巻の打刀と黒の束巻の脇差しが一本ずつ差してある。
桧皮色の景色は闇を浮き彫りにする。炎が夜の闇を強調する。その中に浮かび上がる獣を模した面がひとつ、ふたつ、三つ。
十二の獣を模した面の者たちーー刀を抜いて猿田に向かって行く。が、気づけば猿田と獣の面たちは互いに擦れ違っており、一瞬時が止まったように獣たちは静止する。
猿田の右手は淡青色の束巻に掛かっており、刀の鞘からは刀身が三寸ほど見えている。
猿田は何事もなかったかのようにして刀を納め、そのまま獣たちを残して歩き出す。
獣たちの身体から血が吹き出す。その傷口は的確に急所を捉えており、三人の獣たちを一撃で昇天させたことがわかる。
三人の獣が倒れても猿田は振り返らない。まるで死など腐るほど見て来たといわんばかり。
炎の床が猿田の足を焼く。熱された木の床は、今や灼熱。だが、猿田は何も動じず、目を細めて前に進み続ける。
廊下の奥は闇と仄かな桧皮色。そこにひとつの面が浮かび上がる。その面は先程切り捨てた三つの面とは違い、羊と猿を合わせたような様相を呈している。
「はじめからこれが目的だったのか」
が、猿田の問いに羊と猿の面は何もいわない。それどころか、猿田から顔を背けると、そのまま幻想のように消えてしまう。
「待て!」
「猿ちゃん!」
猿田の背後から女の声。比較的長身で髪はうしろでまとめており、汗にまみれた顔からは、町娘にはないような妖艶な色気が漂っている。
「早く逃げないと!」
「うるせぇ! 天馬さんが……!」
「犬吉が死んだ」
女のひとことで猿田は止まる。顔からは絶望。まるですべてが崩壊してしまったかのよう。奥歯を噛み締め、そのまま歩き出す。
「猿ちゃん!」
「……天馬さんを探す。お前は逃げろ」
女は首を大きく振る。
「ヤダよ! 猿ちゃんも一緒に……!」
「行けッ! このままじゃ、自分の身体を焼くだけだ」
「……死ぬつもり?」
が、猿田はその問いには答えず、
「得物はあるか?」
「全部、ダメになっちゃった……」
「そうか」そういって猿田は、自分の脇差を腰元から抜き取り、女に掲げる。「持ってけ」
「でも、猿ちゃんは……?」
「おれにはこれがある」猿田は自分の刀を触って見せる。「いいから持ってろ」
「でも……」
「行けッ!」猿田は半ば強引に女に脇差を渡すと、「お互い、達者でやろう」
そういい残して駈けて行ってしまう。
呆然と立ち尽くす女。ことばも出てこなければ、足も動かない。ただ、手に持った猿田の脇差を静かに見つめる。
火の手は屋敷の殆どを覆っている。もはや逃げ場など存在しないくらいに。だが、猿田の目には燃え盛る炎が映り込んで、まるで生の活力にみなぎっているよう。
猿田は呼ぶ。天馬の名前をこれでもか、と。その時ーー
「猿……、源之助……」
その声を聞くと、猿田は声のした方角にある燃え上がる障子を蹴破り、部屋に入る。そこにひとりの男ーー
天馬ーー川越の大名である松平天馬は部屋の真ん中で崩折れている。その両腿はドス黒い赤色で染まっており、その赤色は畳にまで及んでいる。
「天馬さん……!」
天馬に駆け寄る猿田。が、天馬は猿田を静止させ、
「わたしはもうダメだ……。わたしのことは放っておいて、他の者とーー」
「みんな、死にました。坊っちゃんも家老のじいさんも、……犬吉も」
猿田の報告を聴いても、天馬の様子に変化はない。恐らく、すべてを悟っているのだろう。
「……そうか。犬吉にも悪いことをしたもんだ」
「……遅かれ早かれ、おれもアイツも地獄行きです。そればかりは仕方がない。でもーー」
「わたしは別、とでもいいたいのか?」
図星をつかれた、とでもいわんばかりに猿田は黙り込む。沈黙。炎の弾ける音だけが虚しく響く。天馬の微笑。
「別、ではない。元締はわたしなのだから。地獄への行脚はわたしも一緒だ」
猿田は何もいえず、拳をグッと握り込む。
「あの約束、覚えているか?」
天馬のひとことに、猿田は静かに頷く。
「ならば話は早い。わたしとの約束を果たし、すべてを終わらせてくれ」
「しかし……」
「これは命令だ。そして……、友からの最後の頼みだ。頼む……源之助」
猿田はうつむき黙り込んでしまう。が、観念したのか、大きく頷き、その場に正座する。猿田の承知を確認した天馬は懐の懐紙を抜き取り自分の前に置くと、腰元の短刀を抜き、懐紙の上に置き、
「時間がない。略式で頼む」
猿田は頷き、刀を抜いて立ち上がり、刀身を肩で担ぐようにして構える。そして、
「何か、いい残すことは?」
猿田がそういうと天馬は、
「では、ひとつ頼みがありまする。聴いて下さいますでしょうか?」
「……何なりとも」
「ではーー」
懐を探る天馬。その手が出るとーー
粘っこい汗が、飛び起きた猿田の身体を覆っている。夢、まるで地獄の釜の底のような悪夢。荒い呼吸を繰り返し、猿田は前腕で額を拭い、そして大きくため息をつく。
虫の音は平和を象徴しているよう。ここは猿田の住んでいる村の離れ家。明かりはなく、真っ暗。月明かりだけが、その場を照らしている。
猿田は這いずり手探りで家の外に出る。家の中よりもこころなしか外のほうが明るい気がする。川のせせらぎに、虫の音が猿田の内耳を優しく撫でる。寝苦しい夜に夜風は心地よいらしく、幾分、猿田の顔には安堵が見える。
が、次の瞬間、猿田の表情に大きな歪みが訪れ、猿田は闇に向かって駈け出す。
まるで、何かに導かれるようにーー
【続く】