【丑寅は静かに嗤う~天道】
文字数 2,120文字
古びた家屋の中で横になって天井を見つめる犬蔵ーーその目はどこか心ここにあらず。
「調子はどうだい?」家屋に入ってきた老婆が訊ねる。「少しはよくなったかい?」
「あぁ、婆さんか」
犬蔵は慌てて起き上がろうとする。が、背中の傷口はまだ痛むようで、苦痛に顔を歪める。老婆は犬蔵に寄り、背中を庇いつつ、
「これこれ、ダメだよぉ、無理しちゃ。お前さんは怪我人なんだからねぇ」
犬蔵は老婆に庇われつつ再び床につく。そして、どこか寂しげな表情を浮かべて、
「悪いな」
「……何がだい?」
「いや、その……、迷惑掛けちまって」
老婆は朗らかに笑みを浮かべる。
「いいんだよぉ、そんなことは。それより、お腹空いてないかい? 何ならーー」
「いや、いいんだ」犬蔵はらしくもなく控え目にいう。「それより急いでんだ。世話になっ……ッ!」
犬蔵がそそくさと立ち上がろうとすると、背中の痛みがやはりぶり返して来たようで再び顔を歪めて全身を硬直させてしまう。
「だからいわんこっちゃない! お前さんは怪我人なんだよぉ!? いいから今は養生しなさいな。じゃないと、御天道様もお前さんの身体を治しちゃくれないからねぇ」
犬蔵は特に反抗、抵抗することなく、再び床につく。その表情からは複雑な心境が伺える。焦燥感と安堵、背徳感と諦感、あらゆる想いが駆け巡るように犬蔵は神妙な面持ちを浮かべてそのまま横になる。
「無理することはないんだ。そんなんで頑張ろうとすると、御天道様に叱られるよ」
「おれはーー」一瞬、口をつぐむ犬蔵。「おれは御天道様なんて信じちゃいないんだ」
老婆は唖然とした表情を浮かべつつも、すぐに笑みを浮かべて、
「そうかい。随分と大変な人生を歩んで来たんだねぇ。でも、そう苦しいことは続かないよ。いずれすぐにでも幸せはやって来るよ」
「適当なこというな。幸せなんか、おれんとこにやって来るワケねぇよ」犬蔵はそっぽを向く。「ここまでどんなに頑張っても、結局は裏目、裏目だ。おれはもう疲れちまったよ……」
「……そうかい」老婆は寂しげに微笑む。「良かったら、話を聴かせてくれないかい?」
「……え!?」
突然の老婆の申し出に、犬蔵も狼狽える。それもそうだろう。自分が盗賊だったなんて話を平穏に暮らす老婆に話せば、再び傷つくのは自分自身だ。
仮に、今では盗賊討伐のための旅の途中だったといっても同じこと。結局は殺戮者。人殺しには変わりないし、何よりもうしろめたいのは、彼自身が裏切り、裏切られたという事実だろう。犬蔵は掛け布団の布地の縫い目を静かに見詰めるばかり。だが老婆は、
「別に何か助言をしようっていうんじゃないんだよ。でも、こころにつっかえた気持ちの悪いモノもたまには吐き出さないと辛くてならないだろ? 何もひとりですべてを抱え込むことはないんだ。だから、わたしにも話を聴かせておくれよ。何も驚かないからさ」
そうはいわれても犬蔵は容易に口を開こうとはしない。そもそもの相手が今日会ったばかりの老婆だし、そんな話をする義理もない。
「……おれが自分の身の上を話したところで、アンタがおれを恐れたり、イヤな気分にならないって保証はどこにもねぇじゃねぇか」
「わたしに恐れられるようなことや、イヤな気分になるようなことをしたのかい?」犬蔵はこの質問にも黙ってしまう。「安心をし、よ。別にお前さんが昔に悪いことをしていたとしても、御上につき出すことはわたしはしないし、悪く思ったりもしないよ」
「止めてくれ。おれは……、もう誰のことも信用したくねぇんだ……。助けてくれたことは恩に着る。だけどな、だからといってそれ以上のことを求めるようなことはしたくねぇんだよ」
「……そうかい」老婆は悲しげに微笑む。「お前さんがそういうのなら、無理には訊かないよ。でもね、もし何かを話したくなったら遠慮なくいっていいんだからね。どちらにしろ、そのキズじゃ、少し休まないと身体に毒だよ」
犬蔵は何もいい返せない。
「さてと、ご飯でも作ろうかね。でも、その前に、お前さんの名前を教えてはくれんかね?
名前がなけりゃお前さんのことを呼ぶのも不便だろう? ウソの名前でもいいからねぇ」
犬蔵は下を向き少し黙る。そしてーー
「犬蔵……」
と自分の『本当の』名前をいう。多分、犬蔵自身もどうして自分の名前をいってしまったのかわからなかったに違いない。犬蔵は微かに視線を老婆のほうへと向けるーー
「そんなことより、婆さんの名前は何ていうんだよ。おれの名前を訊くのは構わねぇけど、おれが婆さんを何て呼べばいいか……」
「それもそうだねぇ」老婆はいう。「わたしは『お卯乃』だよ。でも驚きだねぇ。お前さんはきっとわたしのことを『婆さん』と呼んで済ますかと思っていたんだけどねぇ」
犬蔵は照れ臭そうにお卯乃から視線を逸らす。
「ま、まぁ。それくらいは礼儀、だしな」
「ふふ。無頼漢な振る舞いはしても、根は案外マジメなんだねぇ」
「マジメだとか……! そんなんじゃ……」
「お前さんがそういうならそういうことにしておこう。そういうワケだ。よろしくなぁ、犬蔵さん」
犬蔵は何もいわず、ただコクリと頷いたーー
【続く】
「調子はどうだい?」家屋に入ってきた老婆が訊ねる。「少しはよくなったかい?」
「あぁ、婆さんか」
犬蔵は慌てて起き上がろうとする。が、背中の傷口はまだ痛むようで、苦痛に顔を歪める。老婆は犬蔵に寄り、背中を庇いつつ、
「これこれ、ダメだよぉ、無理しちゃ。お前さんは怪我人なんだからねぇ」
犬蔵は老婆に庇われつつ再び床につく。そして、どこか寂しげな表情を浮かべて、
「悪いな」
「……何がだい?」
「いや、その……、迷惑掛けちまって」
老婆は朗らかに笑みを浮かべる。
「いいんだよぉ、そんなことは。それより、お腹空いてないかい? 何ならーー」
「いや、いいんだ」犬蔵はらしくもなく控え目にいう。「それより急いでんだ。世話になっ……ッ!」
犬蔵がそそくさと立ち上がろうとすると、背中の痛みがやはりぶり返して来たようで再び顔を歪めて全身を硬直させてしまう。
「だからいわんこっちゃない! お前さんは怪我人なんだよぉ!? いいから今は養生しなさいな。じゃないと、御天道様もお前さんの身体を治しちゃくれないからねぇ」
犬蔵は特に反抗、抵抗することなく、再び床につく。その表情からは複雑な心境が伺える。焦燥感と安堵、背徳感と諦感、あらゆる想いが駆け巡るように犬蔵は神妙な面持ちを浮かべてそのまま横になる。
「無理することはないんだ。そんなんで頑張ろうとすると、御天道様に叱られるよ」
「おれはーー」一瞬、口をつぐむ犬蔵。「おれは御天道様なんて信じちゃいないんだ」
老婆は唖然とした表情を浮かべつつも、すぐに笑みを浮かべて、
「そうかい。随分と大変な人生を歩んで来たんだねぇ。でも、そう苦しいことは続かないよ。いずれすぐにでも幸せはやって来るよ」
「適当なこというな。幸せなんか、おれんとこにやって来るワケねぇよ」犬蔵はそっぽを向く。「ここまでどんなに頑張っても、結局は裏目、裏目だ。おれはもう疲れちまったよ……」
「……そうかい」老婆は寂しげに微笑む。「良かったら、話を聴かせてくれないかい?」
「……え!?」
突然の老婆の申し出に、犬蔵も狼狽える。それもそうだろう。自分が盗賊だったなんて話を平穏に暮らす老婆に話せば、再び傷つくのは自分自身だ。
仮に、今では盗賊討伐のための旅の途中だったといっても同じこと。結局は殺戮者。人殺しには変わりないし、何よりもうしろめたいのは、彼自身が裏切り、裏切られたという事実だろう。犬蔵は掛け布団の布地の縫い目を静かに見詰めるばかり。だが老婆は、
「別に何か助言をしようっていうんじゃないんだよ。でも、こころにつっかえた気持ちの悪いモノもたまには吐き出さないと辛くてならないだろ? 何もひとりですべてを抱え込むことはないんだ。だから、わたしにも話を聴かせておくれよ。何も驚かないからさ」
そうはいわれても犬蔵は容易に口を開こうとはしない。そもそもの相手が今日会ったばかりの老婆だし、そんな話をする義理もない。
「……おれが自分の身の上を話したところで、アンタがおれを恐れたり、イヤな気分にならないって保証はどこにもねぇじゃねぇか」
「わたしに恐れられるようなことや、イヤな気分になるようなことをしたのかい?」犬蔵はこの質問にも黙ってしまう。「安心をし、よ。別にお前さんが昔に悪いことをしていたとしても、御上につき出すことはわたしはしないし、悪く思ったりもしないよ」
「止めてくれ。おれは……、もう誰のことも信用したくねぇんだ……。助けてくれたことは恩に着る。だけどな、だからといってそれ以上のことを求めるようなことはしたくねぇんだよ」
「……そうかい」老婆は悲しげに微笑む。「お前さんがそういうのなら、無理には訊かないよ。でもね、もし何かを話したくなったら遠慮なくいっていいんだからね。どちらにしろ、そのキズじゃ、少し休まないと身体に毒だよ」
犬蔵は何もいい返せない。
「さてと、ご飯でも作ろうかね。でも、その前に、お前さんの名前を教えてはくれんかね?
名前がなけりゃお前さんのことを呼ぶのも不便だろう? ウソの名前でもいいからねぇ」
犬蔵は下を向き少し黙る。そしてーー
「犬蔵……」
と自分の『本当の』名前をいう。多分、犬蔵自身もどうして自分の名前をいってしまったのかわからなかったに違いない。犬蔵は微かに視線を老婆のほうへと向けるーー
「そんなことより、婆さんの名前は何ていうんだよ。おれの名前を訊くのは構わねぇけど、おれが婆さんを何て呼べばいいか……」
「それもそうだねぇ」老婆はいう。「わたしは『お卯乃』だよ。でも驚きだねぇ。お前さんはきっとわたしのことを『婆さん』と呼んで済ますかと思っていたんだけどねぇ」
犬蔵は照れ臭そうにお卯乃から視線を逸らす。
「ま、まぁ。それくらいは礼儀、だしな」
「ふふ。無頼漢な振る舞いはしても、根は案外マジメなんだねぇ」
「マジメだとか……! そんなんじゃ……」
「お前さんがそういうならそういうことにしておこう。そういうワケだ。よろしくなぁ、犬蔵さん」
犬蔵は何もいわず、ただコクリと頷いたーー
【続く】