【西陽の当たる地獄花~参拾~】
文字数 2,256文字
静寂に包まれた広間にはピンとした緊張感が漂っている。
「なるほど、貴様の名前は奥村というのだな」
神がそう口にしても、白装束の表情は冷めたまま。いや、むしろより生気のない、人殺しの目を携えた虚無的な表情になっている。
「そのような名は忘れた」
白装束の声から抑揚が消える。一切の感情を感じさせない声色が、波状になって広い室内にこだまし霧散する。神の下品な笑み。
「ふへへ。だが、朕は今確かに貴様の名を聴いたぞ。この『現世絵巻』で、な」
現世絵巻とは、神の愉悦感を満たすための道具のひとつである。それは食事を取る広間に備え付けられた、巨大な映し絵のようなモノだ。
現世絵巻を使うと、現世における人間の生活や、現世、彼岸を問わない個人の過去、彼岸全体の様相とありとあらゆるモノを映し絵という形で観ることが出来る。
猿田源之助と白装束、白装束と牛馬、これらのやり取りもすべて神が現世絵巻を使って映し出したモノだった。
そして、そこで聴かれた『奥村』という名前は白装束の耳には届いていない。
それは現世から彼岸に来た時点で、人は自身の名前を失うからだ。
いうなれば、現世にて死亡して戒名が付けられた時点で現世での名前を失うということだ。これは現世にて戒名を付けられていない場合も同様で、その場合は牛馬が悩顕に名を与えられたように、彼岸にて新しい名を得ることとなる。
当然、白装束にも与えられはしたのだが、白装束はその名前を断じて名乗ろうとしない。それどころか、
「わたしに名前など必要ない。そんなモノは現世で捨て去った」
「ほう、そうか、奥村」
神は嫌味たらしく白装束のことを『奥村』と呼ぶ。白装束の左手が白鞘へと静かに伸びる。
「何だ、奥村、朕を斬ろうというのか」
「その名で呼ばないで頂きたい」
「どうして貴様はそうまでして現世の名を嫌うのだ。それはやはり、あの猿田とかいう浪人に斬られたことが原因なのか」
白装束は何も答えない。それを見て神は、侍者を呼び寄せて、何か紙の束を受け取ると、それを眺めてはめくりを繰り返す。
「……奥村新兵衛。文化十年の八月十五日生まれか。生まれは江戸で、両親はーー」
「殺しますよ」
「ほう、朕にケンカを売るか。ならーー」
一瞬の閃光。それはまるでかまいたちのように鋭い風を立て、次の瞬間には何もなかったかのように姿を消す。息を飲む時間すらない。
長机の上に置かれた御椀と枡が盛られたメシと酒ごと真っ二つに割れる。机の表面は酒と零れ落ちたメシで汚れる。
逆手に白鞘刀を持つ白装束の姿がある。
「……何のつもりかね?」
「今やらずとも、やろうと思えば、わたしは貴殿の首を跳ねることなんか、簡単ということでしょうか。勿論、貴殿の配下の者も同様に」
机の表面を伝った酒が、机の端から地面に垂れる。酒の垂れて地面で弾ける音が、静寂に包まれていた室内で響き渡る。
神の配下のひとりがその場で腰を抜かし尻餅をつく。股間がジワリと濡れる。それを見た他の配下の者たちは、あくまで自分は関係ないという姿勢で見なかったつもりでいる。
「……その枡と碗は高かったのだ。貴様に弁償出来るのか?」神は勝ち誇ったようにいう。
「先に仕掛けたのは貴殿のほうだ。わたしがどうこうするのではない。貴殿がわたしにどうこうするのが筋というモノだ」
配下のひとりが漏らした小便が、ジワリと床の敷き布に滲んで行く。神はそれを目で追うと、次に他の配下へと目をやり、
「何をしておる。さっさとそのウツケ者を連れて行かぬか」
死刑宣告。漏らした配下はその場にて土下座をし、赦しを請う。他の配下の者たちはただオロオロするばかり。
「さっさと連れて行かんと、貴様ら全員、別室行きにするぞ!」
神のひとことで他の配下の者たちは跳ね上がるようにして行動を始める。
ふたりの配下に両腕を引っ張られ、もうふたりの配下に両足を持たれながら連行されていく漏らした配下は、泣きじゃくりながら赦しを請うも、当然の如くそれが受け入れられることはなく、扉の奥へと消えて行く。
扉が閉まっても、赦しを請う悲鳴は尚も響き続けていたが、それも少しずつ音を潜め、気づいた頃には広間へ届くこともなくなった。
「これが朕の力だ。貴様やあの牛馬のように『野蛮』な力を使わずとも、人を殺めるとなど容易い。貴様らのように自分の手を汚すやり方など、所詮は三流。一流は自分の手を煩わせることなく、アゴと金だけでことを納める」
「下らん。所詮は他人と金の庇護がなければ何も出来ないといっているようなモノではないか」
「貴様のような薄汚い侍風情には、いくら頭をこねくり回そうと一生わからんだろうな」
「仰る通りわからんだろう。わかりたくもない、というのが正しいだろうが」
「ふへへ、何でも良い。貴様は朕の用心棒さえしておれば、それでいいのだ」
「御神様!」会話を遮り神を呼ぶ声がする。
かと思いきや、勢い良く扉が開かれる。無作法に、雑然と。神はそれを見て、
「何だ、騒々しい! 貴様もーー」
「それどころではありません! 一大事でございまする!」膝に手を付いて息を切る配下。
「何だ!」神の声に怒りが混じる。
だが、飛び込んで来た配下は、相当息が苦しいのか中々話し出せない。
「早く話さんか! さもなくばーー」
「あ、あの……、実は」飛び込んで来た配下は唾を飲み込んで更に続ける。「あの男が、極楽院を襲撃しております……!」
「あの男?」
「はい!……あの『牛馬』とかいう……!」
神の顔に恐怖と絶望が浮かんだ。
【続く】
「なるほど、貴様の名前は奥村というのだな」
神がそう口にしても、白装束の表情は冷めたまま。いや、むしろより生気のない、人殺しの目を携えた虚無的な表情になっている。
「そのような名は忘れた」
白装束の声から抑揚が消える。一切の感情を感じさせない声色が、波状になって広い室内にこだまし霧散する。神の下品な笑み。
「ふへへ。だが、朕は今確かに貴様の名を聴いたぞ。この『現世絵巻』で、な」
現世絵巻とは、神の愉悦感を満たすための道具のひとつである。それは食事を取る広間に備え付けられた、巨大な映し絵のようなモノだ。
現世絵巻を使うと、現世における人間の生活や、現世、彼岸を問わない個人の過去、彼岸全体の様相とありとあらゆるモノを映し絵という形で観ることが出来る。
猿田源之助と白装束、白装束と牛馬、これらのやり取りもすべて神が現世絵巻を使って映し出したモノだった。
そして、そこで聴かれた『奥村』という名前は白装束の耳には届いていない。
それは現世から彼岸に来た時点で、人は自身の名前を失うからだ。
いうなれば、現世にて死亡して戒名が付けられた時点で現世での名前を失うということだ。これは現世にて戒名を付けられていない場合も同様で、その場合は牛馬が悩顕に名を与えられたように、彼岸にて新しい名を得ることとなる。
当然、白装束にも与えられはしたのだが、白装束はその名前を断じて名乗ろうとしない。それどころか、
「わたしに名前など必要ない。そんなモノは現世で捨て去った」
「ほう、そうか、奥村」
神は嫌味たらしく白装束のことを『奥村』と呼ぶ。白装束の左手が白鞘へと静かに伸びる。
「何だ、奥村、朕を斬ろうというのか」
「その名で呼ばないで頂きたい」
「どうして貴様はそうまでして現世の名を嫌うのだ。それはやはり、あの猿田とかいう浪人に斬られたことが原因なのか」
白装束は何も答えない。それを見て神は、侍者を呼び寄せて、何か紙の束を受け取ると、それを眺めてはめくりを繰り返す。
「……奥村新兵衛。文化十年の八月十五日生まれか。生まれは江戸で、両親はーー」
「殺しますよ」
「ほう、朕にケンカを売るか。ならーー」
一瞬の閃光。それはまるでかまいたちのように鋭い風を立て、次の瞬間には何もなかったかのように姿を消す。息を飲む時間すらない。
長机の上に置かれた御椀と枡が盛られたメシと酒ごと真っ二つに割れる。机の表面は酒と零れ落ちたメシで汚れる。
逆手に白鞘刀を持つ白装束の姿がある。
「……何のつもりかね?」
「今やらずとも、やろうと思えば、わたしは貴殿の首を跳ねることなんか、簡単ということでしょうか。勿論、貴殿の配下の者も同様に」
机の表面を伝った酒が、机の端から地面に垂れる。酒の垂れて地面で弾ける音が、静寂に包まれていた室内で響き渡る。
神の配下のひとりがその場で腰を抜かし尻餅をつく。股間がジワリと濡れる。それを見た他の配下の者たちは、あくまで自分は関係ないという姿勢で見なかったつもりでいる。
「……その枡と碗は高かったのだ。貴様に弁償出来るのか?」神は勝ち誇ったようにいう。
「先に仕掛けたのは貴殿のほうだ。わたしがどうこうするのではない。貴殿がわたしにどうこうするのが筋というモノだ」
配下のひとりが漏らした小便が、ジワリと床の敷き布に滲んで行く。神はそれを目で追うと、次に他の配下へと目をやり、
「何をしておる。さっさとそのウツケ者を連れて行かぬか」
死刑宣告。漏らした配下はその場にて土下座をし、赦しを請う。他の配下の者たちはただオロオロするばかり。
「さっさと連れて行かんと、貴様ら全員、別室行きにするぞ!」
神のひとことで他の配下の者たちは跳ね上がるようにして行動を始める。
ふたりの配下に両腕を引っ張られ、もうふたりの配下に両足を持たれながら連行されていく漏らした配下は、泣きじゃくりながら赦しを請うも、当然の如くそれが受け入れられることはなく、扉の奥へと消えて行く。
扉が閉まっても、赦しを請う悲鳴は尚も響き続けていたが、それも少しずつ音を潜め、気づいた頃には広間へ届くこともなくなった。
「これが朕の力だ。貴様やあの牛馬のように『野蛮』な力を使わずとも、人を殺めるとなど容易い。貴様らのように自分の手を汚すやり方など、所詮は三流。一流は自分の手を煩わせることなく、アゴと金だけでことを納める」
「下らん。所詮は他人と金の庇護がなければ何も出来ないといっているようなモノではないか」
「貴様のような薄汚い侍風情には、いくら頭をこねくり回そうと一生わからんだろうな」
「仰る通りわからんだろう。わかりたくもない、というのが正しいだろうが」
「ふへへ、何でも良い。貴様は朕の用心棒さえしておれば、それでいいのだ」
「御神様!」会話を遮り神を呼ぶ声がする。
かと思いきや、勢い良く扉が開かれる。無作法に、雑然と。神はそれを見て、
「何だ、騒々しい! 貴様もーー」
「それどころではありません! 一大事でございまする!」膝に手を付いて息を切る配下。
「何だ!」神の声に怒りが混じる。
だが、飛び込んで来た配下は、相当息が苦しいのか中々話し出せない。
「早く話さんか! さもなくばーー」
「あ、あの……、実は」飛び込んで来た配下は唾を飲み込んで更に続ける。「あの男が、極楽院を襲撃しております……!」
「あの男?」
「はい!……あの『牛馬』とかいう……!」
神の顔に恐怖と絶望が浮かんだ。
【続く】