【明日、白夜になる前に~拾壱~】
文字数 2,535文字
空に舞い上がる焼香の煙が消えるように、母の葬儀はあっという間に終わった。
覚えていることなど殆どない。ただ、空白の時間がイタズラに流れ、気づけば焼却炉の前にぼくは立っていた。
当たり前だが、母の顔からは一辺の生気も感じられなくなっていた。顔の筋肉からは緊張がなくなり、何とも安らかな寝顔をしていた。
こんなご時世もあって、葬儀は親族だけで簡易的に行われたが、ぼくにはそれが好都合だった。情けなく泣きじゃくる姿を親族以外に晒さなくて済んだし、何より母との別れの時間もより濃厚になった気がしたからだ。
出棺の際、棺に献花する時間があったが、ぼくはまともに母の周りに花を供えることができなかった。こころのどこかで母が死んだという事実を認めたくなかったのだろう。
盆に乗った最後の一輪の献花、ぼくはそれを親父に促されるようにして手に取り、母のお腹のすぐ横に供えた。
どうしてそこに供えたのかはわからない。ただ、無意識の内にぼくはそこに花を置いていた。この世に誕生する前の自分を育んだ遥かなる宇宙。もしかしたら、ぼくはその消え行く自分のルーツに対して今生最後の感謝をし、別れを告げたかったのかもしれない。
出棺してからは親父と共に火葬場へ向かった。親父の運転する車の中は何ともいえない沈黙が流れていた。
別に話したくなかったワケではない。ただ、何を話していいのかわからなかったのだ。
親父の顔は相変わらず強張って不機嫌そうにも見えたが、その目許と頬の緊張から見て、今にも感情のダムが崩壊してしまいそうな、そんな危うさが見て取れた。
ぼくはそんな親父に気を使っていたのかもしれない。というより、ぼく自身もかなり危うかったのもあって、人に気を掛けている余裕が殆どなかったのも一因だろうけど。
火葬場へつき、母との最後の別れの時間となっても、ぼくは母に何もいってあげることができなかった。それどころか、母が暗い暗い灼熱の穴蔵に閉じ込められようとするその時に、ぼくは無意識に母の乗った台車をグッと掴んでしまった。火葬場のスタッフが浮かべる一瞬の驚きと、そのすぐ後に表面化させる困惑と取り繕ったような曖昧な笑みが、その場を歪ませた。
「慎太郎」
親父に名前を呼ばれ、ぼくは欲しいのに買って貰えないオモチャを手放すように名残惜しみながら、台車から手を離した。
が、ぼくはわかっていた。親父も仕方なく止めたのだと。本当なら、自分だって同じことをしたかったはずーー表現としては汚く、何ともグロテスクかもしれないが、もし可能なら朽ち行く母の亡骸を引き取って、腐敗するまで一緒にいたかったことだろう。
だが、そんなことは出来ない。
倫理とか道徳とかそんな下らない問題ではない。世間体や体裁なんてヘドが出るような話の問題でもない。ただ、生き残ってしまった者のエゴで、浄土へと旅立った者の空っぽになった肉体を見るも無惨に腐敗させていくのは、あちら側へいった者に対して申し訳が立たない。
だから、ぼくも台車から手を離したのだし、親父も惜別を惜しんだ声でいったのだろう。
火葬が終了すると、母はやや茶色掛かった白色の欠片となっていた。母の遺骨は細くて小さかった。決して大きくはなかったけれど、百五十台半ばの母が手に納まってしまうほどの骨壷に入り切ってしまうのを見て、ぼくはとてつもない虚無感と悲愴感を抱いた。
葬儀が終わると、自分のこころに何かポッカリと大きな穴が空いたようだった。
帰宅後、礼服を脱ぎ捨てパンツと白シャツ姿になると、冷蔵庫からビールを取り出して一気に飲み干し、更にもう一本を取り出してベッドへと向かう。自分ひとりが暮らす熱気と汗のにおいが入り交じった薄暗い部屋は、当たり前だが閑散としており、無数の虚しさが山彦のようにこだましているように思える。
これからどうしようか。
ふとそう考えるも具体的な案は浮かばない。というか、肉体が活動することを拒んでいる。
スマホが振動する。ぼくは何となしにスマホを手に取り、届いたメッセージを確認する。送り主は小林さんだ。内容は、御悔やみのことばとこれからの出勤に関して。ぼくはすぐにメッセージに返事を書いて送信する。
メッセージを送り終えるとぼくはメッセージ一覧に画面をバックする。そこには里村さんのアカウントもある。あれから、ぼくは一度も彼女にメッセージを送っていない。彼女からもメッセージは来ていない。連絡は途絶えたまま。
何度もメッセージを送ろうとした。だが、何て送っていいのかわからなかった。
あの星空の夜のことがフラッシュバックされる。ウダウダと情けないことばかりいって、気づけば会話は破綻。やらかしたのは間違いなくぼく。謝るべきもぼくだというのは当たり前にわかっていた。わかっていたし、何度もメッセージを送ろうと彼女とのトーク画面とにらめっこしたが、脳は適切な謝罪のことばを吐き出してはくれなかった。
そうして時間は少しずつ過ぎていき、気づけば手遅れになっていくのだ。
ぼくはスマホを放り投げてベッドの上で脱力する。一体、自分の人生は何なのだろう。何もない。驚くほどに何もないではないか。
何か特別なことが出来るワケでもない。周りが有している普通の技能すらもまともにこなせない。自分の意見をいうこともできなければ、何かを考えることすらままならない。
ぼくには何もない。
虚無ーーそれがぼくの存在であり、正体。
虚しさが込み上がって来る。不意に自分の中に溜まっていた感情が、ブワッと爆発しそうになる。ぼくは堪えきれなくなり、いつの間にか頬を濡らしてしまっていた。
薄暗い部屋が余計暗くなったように思える。
まるでこの部屋は監獄だ。出ようと思えばいつでも出られるとはいえ、ぼくのマインドはこの部屋の中に閉じ込められ、手足を拘束されたまま身動きを取れずにいる。
出たい。
ここから出たい。
自由になりたいんだ。
この閉塞感に満ちた人生から。
突然、スマホが振動する。ぼくはパブロフの犬のようにスマホに視線をやる。そして、飛びつくーー餌を撒かれた空腹の野良犬のように。
ぼくはスマホを乱暴にいじって、そのメッセージを確認する。ぼくはーー
【続く】
覚えていることなど殆どない。ただ、空白の時間がイタズラに流れ、気づけば焼却炉の前にぼくは立っていた。
当たり前だが、母の顔からは一辺の生気も感じられなくなっていた。顔の筋肉からは緊張がなくなり、何とも安らかな寝顔をしていた。
こんなご時世もあって、葬儀は親族だけで簡易的に行われたが、ぼくにはそれが好都合だった。情けなく泣きじゃくる姿を親族以外に晒さなくて済んだし、何より母との別れの時間もより濃厚になった気がしたからだ。
出棺の際、棺に献花する時間があったが、ぼくはまともに母の周りに花を供えることができなかった。こころのどこかで母が死んだという事実を認めたくなかったのだろう。
盆に乗った最後の一輪の献花、ぼくはそれを親父に促されるようにして手に取り、母のお腹のすぐ横に供えた。
どうしてそこに供えたのかはわからない。ただ、無意識の内にぼくはそこに花を置いていた。この世に誕生する前の自分を育んだ遥かなる宇宙。もしかしたら、ぼくはその消え行く自分のルーツに対して今生最後の感謝をし、別れを告げたかったのかもしれない。
出棺してからは親父と共に火葬場へ向かった。親父の運転する車の中は何ともいえない沈黙が流れていた。
別に話したくなかったワケではない。ただ、何を話していいのかわからなかったのだ。
親父の顔は相変わらず強張って不機嫌そうにも見えたが、その目許と頬の緊張から見て、今にも感情のダムが崩壊してしまいそうな、そんな危うさが見て取れた。
ぼくはそんな親父に気を使っていたのかもしれない。というより、ぼく自身もかなり危うかったのもあって、人に気を掛けている余裕が殆どなかったのも一因だろうけど。
火葬場へつき、母との最後の別れの時間となっても、ぼくは母に何もいってあげることができなかった。それどころか、母が暗い暗い灼熱の穴蔵に閉じ込められようとするその時に、ぼくは無意識に母の乗った台車をグッと掴んでしまった。火葬場のスタッフが浮かべる一瞬の驚きと、そのすぐ後に表面化させる困惑と取り繕ったような曖昧な笑みが、その場を歪ませた。
「慎太郎」
親父に名前を呼ばれ、ぼくは欲しいのに買って貰えないオモチャを手放すように名残惜しみながら、台車から手を離した。
が、ぼくはわかっていた。親父も仕方なく止めたのだと。本当なら、自分だって同じことをしたかったはずーー表現としては汚く、何ともグロテスクかもしれないが、もし可能なら朽ち行く母の亡骸を引き取って、腐敗するまで一緒にいたかったことだろう。
だが、そんなことは出来ない。
倫理とか道徳とかそんな下らない問題ではない。世間体や体裁なんてヘドが出るような話の問題でもない。ただ、生き残ってしまった者のエゴで、浄土へと旅立った者の空っぽになった肉体を見るも無惨に腐敗させていくのは、あちら側へいった者に対して申し訳が立たない。
だから、ぼくも台車から手を離したのだし、親父も惜別を惜しんだ声でいったのだろう。
火葬が終了すると、母はやや茶色掛かった白色の欠片となっていた。母の遺骨は細くて小さかった。決して大きくはなかったけれど、百五十台半ばの母が手に納まってしまうほどの骨壷に入り切ってしまうのを見て、ぼくはとてつもない虚無感と悲愴感を抱いた。
葬儀が終わると、自分のこころに何かポッカリと大きな穴が空いたようだった。
帰宅後、礼服を脱ぎ捨てパンツと白シャツ姿になると、冷蔵庫からビールを取り出して一気に飲み干し、更にもう一本を取り出してベッドへと向かう。自分ひとりが暮らす熱気と汗のにおいが入り交じった薄暗い部屋は、当たり前だが閑散としており、無数の虚しさが山彦のようにこだましているように思える。
これからどうしようか。
ふとそう考えるも具体的な案は浮かばない。というか、肉体が活動することを拒んでいる。
スマホが振動する。ぼくは何となしにスマホを手に取り、届いたメッセージを確認する。送り主は小林さんだ。内容は、御悔やみのことばとこれからの出勤に関して。ぼくはすぐにメッセージに返事を書いて送信する。
メッセージを送り終えるとぼくはメッセージ一覧に画面をバックする。そこには里村さんのアカウントもある。あれから、ぼくは一度も彼女にメッセージを送っていない。彼女からもメッセージは来ていない。連絡は途絶えたまま。
何度もメッセージを送ろうとした。だが、何て送っていいのかわからなかった。
あの星空の夜のことがフラッシュバックされる。ウダウダと情けないことばかりいって、気づけば会話は破綻。やらかしたのは間違いなくぼく。謝るべきもぼくだというのは当たり前にわかっていた。わかっていたし、何度もメッセージを送ろうと彼女とのトーク画面とにらめっこしたが、脳は適切な謝罪のことばを吐き出してはくれなかった。
そうして時間は少しずつ過ぎていき、気づけば手遅れになっていくのだ。
ぼくはスマホを放り投げてベッドの上で脱力する。一体、自分の人生は何なのだろう。何もない。驚くほどに何もないではないか。
何か特別なことが出来るワケでもない。周りが有している普通の技能すらもまともにこなせない。自分の意見をいうこともできなければ、何かを考えることすらままならない。
ぼくには何もない。
虚無ーーそれがぼくの存在であり、正体。
虚しさが込み上がって来る。不意に自分の中に溜まっていた感情が、ブワッと爆発しそうになる。ぼくは堪えきれなくなり、いつの間にか頬を濡らしてしまっていた。
薄暗い部屋が余計暗くなったように思える。
まるでこの部屋は監獄だ。出ようと思えばいつでも出られるとはいえ、ぼくのマインドはこの部屋の中に閉じ込められ、手足を拘束されたまま身動きを取れずにいる。
出たい。
ここから出たい。
自由になりたいんだ。
この閉塞感に満ちた人生から。
突然、スマホが振動する。ぼくはパブロフの犬のようにスマホに視線をやる。そして、飛びつくーー餌を撒かれた空腹の野良犬のように。
ぼくはスマホを乱暴にいじって、そのメッセージを確認する。ぼくはーー
【続く】