【明日、白夜になる前に~弐拾弐~】
文字数 2,085文字
まるで時が止まったかのようだった。
白百合のような可憐な佇まいをしたその女性はぼくのことを不思議そうにじっと眺めている。ぼくは彼女に対して非礼をしてしまったことを忘れて彼女に見入ってしまった。
「あのぉ……」彼女がいう。
「は、はぁいッ!?」
情けなくも声が上擦ってしまった。多分、ぼくは極度の緊張に曝されていたのだろう。
彼女は目許を緩ませて、勢いで落ちたハンカチを再び拾い上げて、ぼくの右手ーー義手である右手を両手で包みながら掴ませる。
彼女はぼくの右手に触れた時に一瞬、その冷たい感触に違和感を覚えてか、ぼくの手元に視線を落とすが、すぐにぼくのほうを見、
「お気をつけてくださいね」
とそう目許を緩ませながらいい、そのままお辞儀をして颯爽と去っていく。
ぼくは風の流れを見たようだった。温かくも熱すぎない快適な風。ぼくはそこから動けなくなる。彼女の背中を目で追い、彼女が雑踏の中に消えるまで、ぼくは視線を残す。
ぼくは名の知れぬ彼女のことで頭がいっぱいになる。何だったのだろう、この感じは。年齢はいくつくらいなのだろう。ぼくと同じくらいか、それか少し下ぐらいだろうか。
ぼくはそのまま夢見心地で帰宅した。電車に乗っている最中も、家につき自室のベッドで天井を見つめている時も、彼女のあの目許を緩ませる笑顔が頭を離れなかった。
ぼくは、またもやハマってしまったらしい。
翌日、会社に着いて仕事を始めようとしても、やはり気が回らないというか、集中が出来ずにいた。そんな中、
「斎藤さん」名前を呼ばれて振り返ると、そこには宗方さんが手に湯飲みの載ったお盆を持って立っていた。「昨日はすみませんでした」
宗方さんはそういって、軽く頭を下げる。だが、ぼくはそれが何を意味しているのかわからず、
「え、何が?」
と聞き返す。宗方さんはモジモジしながら、
「昨日、お茶をこぼしちゃったから……」
と本当に申し訳なさそうにいう。だが、ぼくはそれよりもその後のあの白百合のような女の人のことで頭がいっぱいで正直そんなことはどうでも良くなっていて、全然覚えていなかった。ぼくはハッとして、
「あぁ、あぁ、全然いいよ。そんな落ち込まないでよ。ぼくも全然気にしてないから」
という。これは大袈裟ではなく、本当に気にしていなかった。そもそも、彼女のせいでもないし。だが、彼女は照れ臭そうにして、
「ありがとうございます! 斎藤さんって優しいんですね……。わたし、そういう人って好きだなぁ……」が、急にハッとして、「あ、ごめんなさい、変なこといって! これどうぞ!」
といって湯飲みをぼくのデスクの上に置いてそのままスタスタとぼくのボックスを後にしてしまう。何だったんだろうーーぼくはそう思った。ここ最近、どうも彼女の様子が可笑しい気がするのだ。やはり、随分と気を遣われているのだろう。
その日の昼も、小林さんと共に街に出て昼食を共にすることにしたのだが、ぼくの関心はやはり、昨日出会ったあの白百合のような女性にあった。街に出て小林さんと話しながら右に左に視線を飛ばす。無意識の内にあの女性がいないか探してしまう。そんな時、
「どうしたの?」
小林さんに訊ねられ、ぼくは慌てる。
「あ、いえ、別に何でもないんです!」
「あぁ、そう。それなら別にいいんだけど」
何と不敬な部下だろう。上司が話している最中にひとりの女性を探して街中に視線を散らすなんて。ぼくが上司ならそんな部下を許さないだろうーーつまり、今のぼくはそういうヤツということだ。
小林さんとの昼食の際も、結局はあの人のことを探してしまった。まさか同じ店内で食事をしているなんてあるはずがないのに、ほんの僅かあるかないかの可能性を信じて身体に悪いであろうコッテリ豚骨のスープが絡みついた太麺をすすり上げた。だが、願望は絶望にすぐ変わった。飛び散ったスープがぼくの頬についた。
失意の中、会社に戻る。帰り道、小林さんに、
「ほんとどうしたの? 何か、今日全然元気ないけど」
と再び訊ねられたが、ぼくは相も変わらず、
「あぁ、いえ、ほんとに何でもないんです」
というと、小林さんも渋々といった感じで、
「ほんとに? ならいいんだけどさ」
それ以降、小林さんはぼくにそのことを訊ねてくることはなかった。
会社に戻って自分のデスクに着くと、ぼくは大きくため息をついた。小林さんに変な気を使わせてしまった個人的な気苦労もあったが、彼女に会えなかった失意から来るものもあった。
まったく、ぼくは何をしているのだろう。
あれだけ痛い目を見ても、全然懲りていないなんて。やはり、人間は過ちを繰り返すーー
「斎藤さん!」うしろから声を掛けられる。「ちょっといいですか!」
随分と大きな声。ぼくは振り返る。そこには、マスクをした小柄な茶髪のポニーテールの女性。何年か後輩の桃井カエデだった。
「ん、どうしたの?」
「いいから来て下さい!」
そういって桃井さんはぼくを勢いよく立ち上がらせて、ぼくの手を引っ張っていく。
ぼくはもうワケがわからなかったーー
【続く】
白百合のような可憐な佇まいをしたその女性はぼくのことを不思議そうにじっと眺めている。ぼくは彼女に対して非礼をしてしまったことを忘れて彼女に見入ってしまった。
「あのぉ……」彼女がいう。
「は、はぁいッ!?」
情けなくも声が上擦ってしまった。多分、ぼくは極度の緊張に曝されていたのだろう。
彼女は目許を緩ませて、勢いで落ちたハンカチを再び拾い上げて、ぼくの右手ーー義手である右手を両手で包みながら掴ませる。
彼女はぼくの右手に触れた時に一瞬、その冷たい感触に違和感を覚えてか、ぼくの手元に視線を落とすが、すぐにぼくのほうを見、
「お気をつけてくださいね」
とそう目許を緩ませながらいい、そのままお辞儀をして颯爽と去っていく。
ぼくは風の流れを見たようだった。温かくも熱すぎない快適な風。ぼくはそこから動けなくなる。彼女の背中を目で追い、彼女が雑踏の中に消えるまで、ぼくは視線を残す。
ぼくは名の知れぬ彼女のことで頭がいっぱいになる。何だったのだろう、この感じは。年齢はいくつくらいなのだろう。ぼくと同じくらいか、それか少し下ぐらいだろうか。
ぼくはそのまま夢見心地で帰宅した。電車に乗っている最中も、家につき自室のベッドで天井を見つめている時も、彼女のあの目許を緩ませる笑顔が頭を離れなかった。
ぼくは、またもやハマってしまったらしい。
翌日、会社に着いて仕事を始めようとしても、やはり気が回らないというか、集中が出来ずにいた。そんな中、
「斎藤さん」名前を呼ばれて振り返ると、そこには宗方さんが手に湯飲みの載ったお盆を持って立っていた。「昨日はすみませんでした」
宗方さんはそういって、軽く頭を下げる。だが、ぼくはそれが何を意味しているのかわからず、
「え、何が?」
と聞き返す。宗方さんはモジモジしながら、
「昨日、お茶をこぼしちゃったから……」
と本当に申し訳なさそうにいう。だが、ぼくはそれよりもその後のあの白百合のような女の人のことで頭がいっぱいで正直そんなことはどうでも良くなっていて、全然覚えていなかった。ぼくはハッとして、
「あぁ、あぁ、全然いいよ。そんな落ち込まないでよ。ぼくも全然気にしてないから」
という。これは大袈裟ではなく、本当に気にしていなかった。そもそも、彼女のせいでもないし。だが、彼女は照れ臭そうにして、
「ありがとうございます! 斎藤さんって優しいんですね……。わたし、そういう人って好きだなぁ……」が、急にハッとして、「あ、ごめんなさい、変なこといって! これどうぞ!」
といって湯飲みをぼくのデスクの上に置いてそのままスタスタとぼくのボックスを後にしてしまう。何だったんだろうーーぼくはそう思った。ここ最近、どうも彼女の様子が可笑しい気がするのだ。やはり、随分と気を遣われているのだろう。
その日の昼も、小林さんと共に街に出て昼食を共にすることにしたのだが、ぼくの関心はやはり、昨日出会ったあの白百合のような女性にあった。街に出て小林さんと話しながら右に左に視線を飛ばす。無意識の内にあの女性がいないか探してしまう。そんな時、
「どうしたの?」
小林さんに訊ねられ、ぼくは慌てる。
「あ、いえ、別に何でもないんです!」
「あぁ、そう。それなら別にいいんだけど」
何と不敬な部下だろう。上司が話している最中にひとりの女性を探して街中に視線を散らすなんて。ぼくが上司ならそんな部下を許さないだろうーーつまり、今のぼくはそういうヤツということだ。
小林さんとの昼食の際も、結局はあの人のことを探してしまった。まさか同じ店内で食事をしているなんてあるはずがないのに、ほんの僅かあるかないかの可能性を信じて身体に悪いであろうコッテリ豚骨のスープが絡みついた太麺をすすり上げた。だが、願望は絶望にすぐ変わった。飛び散ったスープがぼくの頬についた。
失意の中、会社に戻る。帰り道、小林さんに、
「ほんとどうしたの? 何か、今日全然元気ないけど」
と再び訊ねられたが、ぼくは相も変わらず、
「あぁ、いえ、ほんとに何でもないんです」
というと、小林さんも渋々といった感じで、
「ほんとに? ならいいんだけどさ」
それ以降、小林さんはぼくにそのことを訊ねてくることはなかった。
会社に戻って自分のデスクに着くと、ぼくは大きくため息をついた。小林さんに変な気を使わせてしまった個人的な気苦労もあったが、彼女に会えなかった失意から来るものもあった。
まったく、ぼくは何をしているのだろう。
あれだけ痛い目を見ても、全然懲りていないなんて。やはり、人間は過ちを繰り返すーー
「斎藤さん!」うしろから声を掛けられる。「ちょっといいですか!」
随分と大きな声。ぼくは振り返る。そこには、マスクをした小柄な茶髪のポニーテールの女性。何年か後輩の桃井カエデだった。
「ん、どうしたの?」
「いいから来て下さい!」
そういって桃井さんはぼくを勢いよく立ち上がらせて、ぼくの手を引っ張っていく。
ぼくはもうワケがわからなかったーー
【続く】