【丑寅は静かに嗤う~恐怖】
文字数 2,268文字
珠のような汗が地面に弾けて飛ぶ。
荒い息遣い。だが、その音は空気に掻き消されて聴こえず。猿田の握る木刀、その切っ先が震えている。恐怖。まるで木刀までもが戦きを感じているような、そんな恐怖。
「止めッ!」
その声が掛かっても猿田は木刀を牛野の首筋から退かそうとはしない。猿田の目は飛んだように意識が何処かへ行ってしまっているよう。
尚も掛かり続ける「止め」という声。だが、猿田は動かないーーもしかしたら、動けないが正解なのかもしれない。
「源之助様、終わりでございます」
牛野は自分の首筋を捉えている猿田の木刀の切っ先を片手で退かしながらいう。そこで漸く猿田はハッしたようで、現実の光景を自分の意識の中へと刷り込ませたようだ。
「これは、かたじけない」猿田は侘びを入れつつ、ゆっくりと木刀を引く。
「いいんですよ。それよりも、素晴らしいお手合わせでした。源之助様はやはり伊達ではありませんでしたね」
牛野はこれっぽちの緊張も感じさせないような笑みを浮かべている。猿田はそんな牛野に対して漠然とした様相を呈して、
「あ、はい、いえ……」と曖昧な様子。「ありがとうございました……」
そうはいっても、猿田は退こうとはしない。牛野はそれを察してか、ゆっくりと一、二歩引き裂退き、それから左回りに振り返って自陣のほうへと戻っていく。
「猿ちゃん、猿ちゃん!」その声に猿田は再度ハッとしてうしろを振り返ると、お雉が手招きしている。「早く戻って!」
猿田はギコチナク首を振り、ゆっくりと自陣のほうへと戻っていく。その間もうしろへは意識を残し続けている。痺れを切らしたお雉は、猿田のもとまで行き、背中に手を掛けて自陣まで誘導しようとする。
が、お雉が背中に手を掛けると、猿田はやはりうしろを振り返ってしまう。そこにいるのがお雉だというのに、緊張状態からは抜け出せないらしい。お雉は大きく息をつくと、
「大丈夫、あたしだよ。誰も猿ちゃんをうしろから襲おうとはしないから」そういって、猿田は漸く前を向き、歩く足を早める。「……すごい汗。よっぽど緊張してたんだね」
「……あぁ」
「ご苦労様。ゆっくり休んで」
「……すまないな。何から何まで」
猿田のことばに、お雉は俯き気味になったまま何もいわない。ふたりが陣へと戻ると、残されたふたりの男は大きく息をつき、老婆は手を合わせながら猿田を拝む。
その時、猿田と犬蔵の視線が交差する。
猿田は足を止めて強張った表情。対して犬蔵はボコボコに腫れた顔を弛ませて笑い、
「テメェにしては緊張してんじゃねぇか」
「たまには、こういうこともある」
「そうか。でもーー」犬蔵はぷいっと目線を叛けて、「流石って感じだったな。ご苦労さん」
犬蔵のことばを鼻で笑った猿田は、ひとり歩いて犬蔵の元まで行くと、肩に手を掛けて、
「ありがとう」
その光景を、桃川はうっすらと笑みを浮かべて見ている。お雉は驚きつつも、何処か嬉しそうにしている。お卯乃は、
「お侍様、無事で何よりでございますッ!」
と猿田の足許にて膝を地面につけて拝み倒している。猿田がそれに対して申し訳なさそうにしていると、お雉が老婆を立たせて傍にある縁側へと座らせる。老婆を目で追った後、猿田は犬蔵を再度見てーー
「それより、次は貴殿の番だろう。その身体で大丈夫なのか?」
「へへッ……」恥ずかしそうに笑う犬蔵。「身体は確かに痛むけどよ、桃の旦那も手伝ってくれるっていうし、負けてられねぇだろうが」
「そうかーー」
そうして猿田は何かを犬蔵に伝える。桃川はそれを聴いて、ふふっと笑う。犬蔵はハッとしつつも眉間にシワを寄せ、
「……そういうのはありがたいけどよ。おれもおれの力で何とかしてみてぇんだ。お節介とはいわねぇけどーーでも、ありがとよ」
「……あぁ、すまん」
「さて、次はおれたちの番か。行こうか」
犬蔵の呼び掛けに桃川は、
「そうですね。歩けますか?」
「バカにすんなぃ。おれだってまだまだーー」
そういってふたりの若侍は中庭の中央まで歩いて行く。和気藹々とした雰囲気。猿田はふたりの背中を微笑ましく見守る。が、突然、口を抑えると履き物を脱ぎ捨てて屋敷の内部へと走って行ってしまう。
お雉は声を上げようとしたが、遠ざかるふたりの仲間の背中を一瞥すると声を引っ込めて、お卯乃に対して、
「ここで、待っていて。すぐ戻るから」
そういって猿田の後を追う。
お雉が猿田を見つけた時、猿田は厠で嘔吐しており、戸は開け放たれていた。お雉が愛撫するように優しく声を掛けるも、猿田には聴こえていないようで、尚も荒く息を吐き続ける猿田の背に、お雉は静かに手を掛けるーー猿田はバッと振り返る。
「大丈夫……、あたしだよ……」
「……あぁ」
「ずっと、苦しかったんだね……」
「……相手が相手だからな」
「そっか……。でも、もう大丈夫だよ。大丈夫だからね……。あたしがついてるから」
「源之助殿」ふたりの背後から声。「素晴らしいお手合わせでございました」
猿田の表情に緊張が走る、お雉も。
そこにいたのは、大鳥平兵衛ーーそして、牛野。猿田の肉体が強張るのを、お雉は彼の背を通して感じ取り、その震える背中を優しく撫でつつも、毅然とした態度でーー
「いきなり驚かすのは止めて下さい。で、何かあったのですか?」
「いや、驚かせてしまってかたじけない。そんなつもりはなかったのだがーー」
「……確かに、こちらも厠の戸を開け放していたのはマズかったと思います。それで、何の用でしょうか?」
「実はーー」大鳥が口を開くーー
空気がピンと張り積めるーー
【続く】
荒い息遣い。だが、その音は空気に掻き消されて聴こえず。猿田の握る木刀、その切っ先が震えている。恐怖。まるで木刀までもが戦きを感じているような、そんな恐怖。
「止めッ!」
その声が掛かっても猿田は木刀を牛野の首筋から退かそうとはしない。猿田の目は飛んだように意識が何処かへ行ってしまっているよう。
尚も掛かり続ける「止め」という声。だが、猿田は動かないーーもしかしたら、動けないが正解なのかもしれない。
「源之助様、終わりでございます」
牛野は自分の首筋を捉えている猿田の木刀の切っ先を片手で退かしながらいう。そこで漸く猿田はハッしたようで、現実の光景を自分の意識の中へと刷り込ませたようだ。
「これは、かたじけない」猿田は侘びを入れつつ、ゆっくりと木刀を引く。
「いいんですよ。それよりも、素晴らしいお手合わせでした。源之助様はやはり伊達ではありませんでしたね」
牛野はこれっぽちの緊張も感じさせないような笑みを浮かべている。猿田はそんな牛野に対して漠然とした様相を呈して、
「あ、はい、いえ……」と曖昧な様子。「ありがとうございました……」
そうはいっても、猿田は退こうとはしない。牛野はそれを察してか、ゆっくりと一、二歩引き裂退き、それから左回りに振り返って自陣のほうへと戻っていく。
「猿ちゃん、猿ちゃん!」その声に猿田は再度ハッとしてうしろを振り返ると、お雉が手招きしている。「早く戻って!」
猿田はギコチナク首を振り、ゆっくりと自陣のほうへと戻っていく。その間もうしろへは意識を残し続けている。痺れを切らしたお雉は、猿田のもとまで行き、背中に手を掛けて自陣まで誘導しようとする。
が、お雉が背中に手を掛けると、猿田はやはりうしろを振り返ってしまう。そこにいるのがお雉だというのに、緊張状態からは抜け出せないらしい。お雉は大きく息をつくと、
「大丈夫、あたしだよ。誰も猿ちゃんをうしろから襲おうとはしないから」そういって、猿田は漸く前を向き、歩く足を早める。「……すごい汗。よっぽど緊張してたんだね」
「……あぁ」
「ご苦労様。ゆっくり休んで」
「……すまないな。何から何まで」
猿田のことばに、お雉は俯き気味になったまま何もいわない。ふたりが陣へと戻ると、残されたふたりの男は大きく息をつき、老婆は手を合わせながら猿田を拝む。
その時、猿田と犬蔵の視線が交差する。
猿田は足を止めて強張った表情。対して犬蔵はボコボコに腫れた顔を弛ませて笑い、
「テメェにしては緊張してんじゃねぇか」
「たまには、こういうこともある」
「そうか。でもーー」犬蔵はぷいっと目線を叛けて、「流石って感じだったな。ご苦労さん」
犬蔵のことばを鼻で笑った猿田は、ひとり歩いて犬蔵の元まで行くと、肩に手を掛けて、
「ありがとう」
その光景を、桃川はうっすらと笑みを浮かべて見ている。お雉は驚きつつも、何処か嬉しそうにしている。お卯乃は、
「お侍様、無事で何よりでございますッ!」
と猿田の足許にて膝を地面につけて拝み倒している。猿田がそれに対して申し訳なさそうにしていると、お雉が老婆を立たせて傍にある縁側へと座らせる。老婆を目で追った後、猿田は犬蔵を再度見てーー
「それより、次は貴殿の番だろう。その身体で大丈夫なのか?」
「へへッ……」恥ずかしそうに笑う犬蔵。「身体は確かに痛むけどよ、桃の旦那も手伝ってくれるっていうし、負けてられねぇだろうが」
「そうかーー」
そうして猿田は何かを犬蔵に伝える。桃川はそれを聴いて、ふふっと笑う。犬蔵はハッとしつつも眉間にシワを寄せ、
「……そういうのはありがたいけどよ。おれもおれの力で何とかしてみてぇんだ。お節介とはいわねぇけどーーでも、ありがとよ」
「……あぁ、すまん」
「さて、次はおれたちの番か。行こうか」
犬蔵の呼び掛けに桃川は、
「そうですね。歩けますか?」
「バカにすんなぃ。おれだってまだまだーー」
そういってふたりの若侍は中庭の中央まで歩いて行く。和気藹々とした雰囲気。猿田はふたりの背中を微笑ましく見守る。が、突然、口を抑えると履き物を脱ぎ捨てて屋敷の内部へと走って行ってしまう。
お雉は声を上げようとしたが、遠ざかるふたりの仲間の背中を一瞥すると声を引っ込めて、お卯乃に対して、
「ここで、待っていて。すぐ戻るから」
そういって猿田の後を追う。
お雉が猿田を見つけた時、猿田は厠で嘔吐しており、戸は開け放たれていた。お雉が愛撫するように優しく声を掛けるも、猿田には聴こえていないようで、尚も荒く息を吐き続ける猿田の背に、お雉は静かに手を掛けるーー猿田はバッと振り返る。
「大丈夫……、あたしだよ……」
「……あぁ」
「ずっと、苦しかったんだね……」
「……相手が相手だからな」
「そっか……。でも、もう大丈夫だよ。大丈夫だからね……。あたしがついてるから」
「源之助殿」ふたりの背後から声。「素晴らしいお手合わせでございました」
猿田の表情に緊張が走る、お雉も。
そこにいたのは、大鳥平兵衛ーーそして、牛野。猿田の肉体が強張るのを、お雉は彼の背を通して感じ取り、その震える背中を優しく撫でつつも、毅然とした態度でーー
「いきなり驚かすのは止めて下さい。で、何かあったのですか?」
「いや、驚かせてしまってかたじけない。そんなつもりはなかったのだがーー」
「……確かに、こちらも厠の戸を開け放していたのはマズかったと思います。それで、何の用でしょうか?」
「実はーー」大鳥が口を開くーー
空気がピンと張り積めるーー
【続く】