【藪医者放浪記~伍~】
文字数 2,176文字
犬吉がとてつもないバカだということは、彼と関係を持っている人なら誰でも知っていた。
そもそも短期間に四回も遠島されて額に「犬」の字を書き込まれる時点で相当ではあったが、やはり額の「犬」の字は裏切らない。
とはいえ、流石の犬吉も天誅屋の仕事で始末する相手を間違えたことはなかった。いってしまえば、これは相手に対する怒りがあるからということもあるが、やはり大きかったのは仲間たちの存在だろう。
猿田源之助、お雉、そして松平天馬。この三人がいたからこそ、犬吉はこれまで下手を打つことなく仕事を遂げることが出来た。
特に猿田の場合は犬吉から「兄貴」と呼ばれて親しまれていることもあってか、その比重は特に大きかったといってもいい。それもあってか、猿田はいつしかそんな犬吉の扱いにも慣れてはいたのだが、問題は猿田が犬吉を扱っていない瞬間の動向にあった。
犬吉は口が硬いほうだ。間違って話がうっかりと口に出てしまうということはあったが、天誅屋に関する話をポロッと口に出してしまうということは今まで一度もなかったーーまぁ、危なかったことは何度もあるが。
さて、そんな犬吉であるが、川越街道にて猿田と別れた後、ひとり仙波屋へと向かったのだった。流石に川越内の宿ということもあって、場所に迷うことはなかったようだ。
だが、問題はもっと別のところにあった。
「仙波屋……、松ノ間……、竹ノ間じゃない……。大藪順庵……。仙波屋……、松ノ間……、竹ノ間じゃない……。大藪順庵……。仙波屋……」
と犬吉は道中、ブツブツと何度も唱え続けていた。額に「犬」と書かれた巨体の男が伏し目がちになって、そんなことを呟きながら歩いている様は、端から見ても異様な光景だったのはいうまでもないだろうが、これで仕事を完遂出来ればなんてことはないだろう。
だが、問題は犬吉の場合はその考えにちょっとした邪念が入ることだった。というのはーー
「仙波屋……、松ノ間……、竹ノ間じゃなくて松ノ……松、竹……、松茸?……あぁ、松茸食いてぇなぁ……。松茸……、松茸……。いやいや、違う違う。えっと……、ん、何だっけ?」
このザマである。一体何を間違えたらそういうことになるのかって話ではあるのだが、犬吉はそういうことがしょっちゅうだった。で、結局、犬吉のひとりごとは、
「仙波屋……! 松茸じゃなくて竹……! 藪順……!」
という風に変わっていた。松茸ではなく竹と変化していることもどうかと思うが、そもそも会ったこともない相手に対して「藪順」と馴れ馴れしく呼びつける時点でどうかしていた。
で、今である。
茂作とお涼のケンカが終わり、お涼が部屋を後にしたのち、犬吉は竹ノ間の前に立ったのだ。そのデカイ図体を引っ提げて。
「あのぉ、すんませんねぇ」
犬吉がいうと茂作はハッと振り返る。とそこには図体のデカイ、額に「犬」と刻まれた可笑しな男が立ちはだかっているのだから顔も真っ青になり、引き吊っていたワケだ。
「あの……、どちらさん……?」
先ほどまでの怒りは何処へやら、といった調子で茂作はいう。まぁ、一見してカタギには見えないデカイ男がそこにいれば、いくら元町火消とはいえ狼狽えるのも仕方がない。だが、犬吉はそんな茂作にはお構い無しに、
「アンタ、藪順?」
と、どう考えても失礼極まりない口を利いてしまったワケだ。だが、いうまでもなく茂作は「藪順」ではない。まぁ、当の大藪順庵もそう呼ばれたらワケがわからず、思わず否定してしまうかもしれないだろうが。
「いえ……、違います、が……」
茂作は極当たり前に否定する。だが、ここで犬吉の頭に猿田の声が漠然と浮かぶ。
「大藪順庵は自分よりも腕っぷしの強い相手に対しては敬意を払って従ってくれるそうだ」
犬吉はハハァンと頷く。かと思いきや突然、ズカズカと部屋の中に入って茂作の頭を思い切りげんこつでブッ叩いたのだ。
これには茂作も一瞬ワケがわからないといった感じではあったが、すぐに顔を真っ赤にして勢い良く立ち上がると、
「何しやがるんでぇ!」
と犬吉に食って掛かる。だが、犬吉は引くどころか逆にニンマリと笑って。
「まぁ、そういわねぇでさぁ。お願いしますって。ねぇ?」
「何だオメェは!……大体、おれに何をお願いするってぇんでぇ!」
「それは……」犬吉は上を向いて考える。「あれ、何だっけ?」
「何だっけって……。おれが知ってるワケがないだろ。大体おれは『藪何とか』じゃねぇ! おれには『茂作』って立派な名前があるんでぇ!」
「茂作?」
「そうでぇ! 悪ぃけど、そういうワケだから他を当たってくんなぁ」
「またまたぁ!」
笑う犬吉。と、再び茂作の頭をボカンと殴り付ける。流石のバカ力に茂作も目を回しそうになったが、すぐに頭をブルブルと振り、
「こら、止めねぇか!」
と殴り返す。だが、図体のデカイ犬吉にはその拳もビクともせず、犬吉はそれから何度となく茂作を殴り付けた。茂作は手で身を庇い、
「うわぁ! 止めろ! 止めてくれぇい!」
と情けない声を上げている。
「何してんの……?」
女の声。戸のほうから。と、ふたりが声のするほうへと目を向けるとそこには、出て行ったはずのお涼の姿がある。
お涼がワケもわからないといった様子で立ち竦んでいたのはいうまでもない。
【続く】
そもそも短期間に四回も遠島されて額に「犬」の字を書き込まれる時点で相当ではあったが、やはり額の「犬」の字は裏切らない。
とはいえ、流石の犬吉も天誅屋の仕事で始末する相手を間違えたことはなかった。いってしまえば、これは相手に対する怒りがあるからということもあるが、やはり大きかったのは仲間たちの存在だろう。
猿田源之助、お雉、そして松平天馬。この三人がいたからこそ、犬吉はこれまで下手を打つことなく仕事を遂げることが出来た。
特に猿田の場合は犬吉から「兄貴」と呼ばれて親しまれていることもあってか、その比重は特に大きかったといってもいい。それもあってか、猿田はいつしかそんな犬吉の扱いにも慣れてはいたのだが、問題は猿田が犬吉を扱っていない瞬間の動向にあった。
犬吉は口が硬いほうだ。間違って話がうっかりと口に出てしまうということはあったが、天誅屋に関する話をポロッと口に出してしまうということは今まで一度もなかったーーまぁ、危なかったことは何度もあるが。
さて、そんな犬吉であるが、川越街道にて猿田と別れた後、ひとり仙波屋へと向かったのだった。流石に川越内の宿ということもあって、場所に迷うことはなかったようだ。
だが、問題はもっと別のところにあった。
「仙波屋……、松ノ間……、竹ノ間じゃない……。大藪順庵……。仙波屋……、松ノ間……、竹ノ間じゃない……。大藪順庵……。仙波屋……」
と犬吉は道中、ブツブツと何度も唱え続けていた。額に「犬」と書かれた巨体の男が伏し目がちになって、そんなことを呟きながら歩いている様は、端から見ても異様な光景だったのはいうまでもないだろうが、これで仕事を完遂出来ればなんてことはないだろう。
だが、問題は犬吉の場合はその考えにちょっとした邪念が入ることだった。というのはーー
「仙波屋……、松ノ間……、竹ノ間じゃなくて松ノ……松、竹……、松茸?……あぁ、松茸食いてぇなぁ……。松茸……、松茸……。いやいや、違う違う。えっと……、ん、何だっけ?」
このザマである。一体何を間違えたらそういうことになるのかって話ではあるのだが、犬吉はそういうことがしょっちゅうだった。で、結局、犬吉のひとりごとは、
「仙波屋……! 松茸じゃなくて竹……! 藪順……!」
という風に変わっていた。松茸ではなく竹と変化していることもどうかと思うが、そもそも会ったこともない相手に対して「藪順」と馴れ馴れしく呼びつける時点でどうかしていた。
で、今である。
茂作とお涼のケンカが終わり、お涼が部屋を後にしたのち、犬吉は竹ノ間の前に立ったのだ。そのデカイ図体を引っ提げて。
「あのぉ、すんませんねぇ」
犬吉がいうと茂作はハッと振り返る。とそこには図体のデカイ、額に「犬」と刻まれた可笑しな男が立ちはだかっているのだから顔も真っ青になり、引き吊っていたワケだ。
「あの……、どちらさん……?」
先ほどまでの怒りは何処へやら、といった調子で茂作はいう。まぁ、一見してカタギには見えないデカイ男がそこにいれば、いくら元町火消とはいえ狼狽えるのも仕方がない。だが、犬吉はそんな茂作にはお構い無しに、
「アンタ、藪順?」
と、どう考えても失礼極まりない口を利いてしまったワケだ。だが、いうまでもなく茂作は「藪順」ではない。まぁ、当の大藪順庵もそう呼ばれたらワケがわからず、思わず否定してしまうかもしれないだろうが。
「いえ……、違います、が……」
茂作は極当たり前に否定する。だが、ここで犬吉の頭に猿田の声が漠然と浮かぶ。
「大藪順庵は自分よりも腕っぷしの強い相手に対しては敬意を払って従ってくれるそうだ」
犬吉はハハァンと頷く。かと思いきや突然、ズカズカと部屋の中に入って茂作の頭を思い切りげんこつでブッ叩いたのだ。
これには茂作も一瞬ワケがわからないといった感じではあったが、すぐに顔を真っ赤にして勢い良く立ち上がると、
「何しやがるんでぇ!」
と犬吉に食って掛かる。だが、犬吉は引くどころか逆にニンマリと笑って。
「まぁ、そういわねぇでさぁ。お願いしますって。ねぇ?」
「何だオメェは!……大体、おれに何をお願いするってぇんでぇ!」
「それは……」犬吉は上を向いて考える。「あれ、何だっけ?」
「何だっけって……。おれが知ってるワケがないだろ。大体おれは『藪何とか』じゃねぇ! おれには『茂作』って立派な名前があるんでぇ!」
「茂作?」
「そうでぇ! 悪ぃけど、そういうワケだから他を当たってくんなぁ」
「またまたぁ!」
笑う犬吉。と、再び茂作の頭をボカンと殴り付ける。流石のバカ力に茂作も目を回しそうになったが、すぐに頭をブルブルと振り、
「こら、止めねぇか!」
と殴り返す。だが、図体のデカイ犬吉にはその拳もビクともせず、犬吉はそれから何度となく茂作を殴り付けた。茂作は手で身を庇い、
「うわぁ! 止めろ! 止めてくれぇい!」
と情けない声を上げている。
「何してんの……?」
女の声。戸のほうから。と、ふたりが声のするほうへと目を向けるとそこには、出て行ったはずのお涼の姿がある。
お涼がワケもわからないといった様子で立ち竦んでいたのはいうまでもない。
【続く】