【藪医者放浪記~捌~】
文字数 2,275文字
茂作が目を覚ますと、そこは見たこともないようなキレイな部屋だった。
殴られた頭をさすりながらゆっくりと起き上がり、辺りを見回す。
ひとつわかるのは、その部屋が紛れもなく自分と女房が泊まっていた部屋ではないということだ。畳の上にはキレイな布団が敷かれ、棚の上には如何にも高価そうな壺が置かれている。壁にはやはり高価であろう掛け軸がある。
「何処だぁ? ここは……」
「おぉ、気づかれましたかな?」
声のほうへと向くと、そこには如何にも殿様といったようなでっぷりと太った男が立っている。傍らには気難しさが着物を着て仁王立ちしているようなしかめ面の侍の姿。
「誰だ、おめぇは?」
「こら! このお方をどなたと……」
殿様らしき男の傍らに仁王立ちしている男が声を荒げる。が、殿様らしき男はそれを制し、
「まぁまぁ、突然かようなところに運び込まれて見知らぬ男がふたりも立っていれば、そのようにいいたくなるのも無理はないよ」
「しかし……」
「あ、あのよぉ。アンタらだけで勝手に話進めてっけど、おれにはちっとも話が見えねぇんだな。そもそもアンタら誰なんだ?」
「誰なんだとは何なんだ、無礼者!」
傍らの侍が再び怒鳴る。
「こら守山。あまり先生を刺激なさるでない」
「先生……?」
茂作は考えを巡らす。と、少し前の出来事がふと頭の片隅に甦ってくる。
やたらとデカイ、額に「犬」の字が刻まれた男に殴られる前のこと。この犬の字が茂作のことを医者だと勘違いしていたことを茂作は思い出す。そして、声を上げる。
「先生って……! もしやおめぇら、おれのことを医者だと思って……」
「この度はご無礼を御詫びさせて下され」殿様が畳に膝を付き、両手を前に添えていう。「某は武州川越、八千石。松平天馬と申す。この度は、先生にお願いがあっておいで頂きました」
松平天馬と名乗る男は手と膝をついたまま頭を下げる。守山と呼ばれた侍はそれを見てあたふたするが、何度となく注意を受けているせいか、それ以上の行動には出ない。
さて肝心の茂作ではあるが、このお調子者、殿様に頭を下げられて顔が青ざめるどころか、すっかりと気を良くしてしまったらしく、品のない笑みを浮かべて、
「おぉ、おぉ、そうか、松平某。それはそうと、ちゃんと用意はされているのだろうな?」
「はい、それは勿論。お羊、入りなさい」
天馬が呼び掛けると襖が開く。と、そこには女がふたり。ひとりは女中らしき女。もうひとりは如何にも姫君といったような幼さの残る女だった。茂作は呆然とする。
「……これはどういうことだ? おれがいっているのはメシは用意してあるのかってことだ」
再び声を荒げる守山。だが、天馬はそんな守山に下がるよういう。守山は最初こそ渋っていたが、天馬の命とあって、従わざるを得ず、そのまま奥へと下がっていく。
「座りなさい」
天馬がそういっても、姫君らしき女は座ろうとしなかった。だが、傍らに立っていた女中にいわれ漸く座る。が、その態度は何処までも不遜で、この世の不満を一挙に顔に集めたといったようなブスッとした表情を浮かべている。
「順庵先生。こちら、某の娘で『おさき』と申します。この度はこちらの病を治して頂きたく、お呼びしたのです」
天馬のことばで茂作は固まる。
そんなこと、出来るワケがない。
茂作は病を治すどころか、人にキズをつけることこそが専売だ。間違ってもそのような有益なことなど出来やしない。というか、そもそも、殿様の目の前で治療など出来ないというのもどうかといった話でもある。
……いや、そもそも悪いのは、あの犬の字だ。あの男が間違えさえしなければ、自分はこんなところで医者がどうこういう騒動に巻き込まれずに済んだワケだ。
ならば、今のうちに誤解を解かねば……!
「あんのぉ、松平様……」
「どうなされました?」
「いんやぁ……、実はおれは医者とかでは……」
「何だその消極的な姿勢は! さっきまでの無礼な姿勢は如何した! この無礼者が! 失敗したら打ち首も覚悟して貰うぞ!」
突然、襖が開いたかと思いきや、先程の守山と呼ばれた中年の侍が鬼のようなモノ凄い形相で飛び込んで来ようとする。
打ち首。そのことばが茂作の気勢をすっかり削いでしまった。
殺される。失敗したら殺される。間違いだと説明しても、きっと殺される。そんな不安が茂作の顔に刻まれたように、顔は恐怖に歪む。
と、部屋に入ろうとしてくる守山という侍を抑える男が、襖からちらっと見える。
それはあの「犬の字」の男だった。
「あっ……、あっ……!」
犬の字を指差しながら曖昧なことばを放つ茂作。だが、その意味が天馬に理解されるはずもなく、天馬は「守山!」と声を上げる。と、守山はビクッと震える。天馬は続ける。
「……静かにしなさい。お客人の前だぞ」
まるで氷が更に凍りついたような冷たい調子だった。一見すると穏やかで温厚な印象のある松平天馬だったが、そのひとことから伺えるのは底なしの闇。逆らえば地獄の底よりも更に底へと叩き落とされてしまいそうな、そんな凄みと恐ろしさがあった。
それからすぐに守山は犬の字に引っ張られて奥へと引っ込んで行った。ため息をつく天馬。
「かたじけない。いや、アレは非常に真面目で忠誠心の強い男でね。決して悪い男ではないのだ。許してやって欲しい」
と先程の冷たさは何処へやら、天馬は穏やかな笑みを浮かべる。茂作は引き吊った笑みを浮かべことばにならない笑い声を発しながら、壊れた人形のように首をカクカクと動かした。
【続く】
殴られた頭をさすりながらゆっくりと起き上がり、辺りを見回す。
ひとつわかるのは、その部屋が紛れもなく自分と女房が泊まっていた部屋ではないということだ。畳の上にはキレイな布団が敷かれ、棚の上には如何にも高価そうな壺が置かれている。壁にはやはり高価であろう掛け軸がある。
「何処だぁ? ここは……」
「おぉ、気づかれましたかな?」
声のほうへと向くと、そこには如何にも殿様といったようなでっぷりと太った男が立っている。傍らには気難しさが着物を着て仁王立ちしているようなしかめ面の侍の姿。
「誰だ、おめぇは?」
「こら! このお方をどなたと……」
殿様らしき男の傍らに仁王立ちしている男が声を荒げる。が、殿様らしき男はそれを制し、
「まぁまぁ、突然かようなところに運び込まれて見知らぬ男がふたりも立っていれば、そのようにいいたくなるのも無理はないよ」
「しかし……」
「あ、あのよぉ。アンタらだけで勝手に話進めてっけど、おれにはちっとも話が見えねぇんだな。そもそもアンタら誰なんだ?」
「誰なんだとは何なんだ、無礼者!」
傍らの侍が再び怒鳴る。
「こら守山。あまり先生を刺激なさるでない」
「先生……?」
茂作は考えを巡らす。と、少し前の出来事がふと頭の片隅に甦ってくる。
やたらとデカイ、額に「犬」の字が刻まれた男に殴られる前のこと。この犬の字が茂作のことを医者だと勘違いしていたことを茂作は思い出す。そして、声を上げる。
「先生って……! もしやおめぇら、おれのことを医者だと思って……」
「この度はご無礼を御詫びさせて下され」殿様が畳に膝を付き、両手を前に添えていう。「某は武州川越、八千石。松平天馬と申す。この度は、先生にお願いがあっておいで頂きました」
松平天馬と名乗る男は手と膝をついたまま頭を下げる。守山と呼ばれた侍はそれを見てあたふたするが、何度となく注意を受けているせいか、それ以上の行動には出ない。
さて肝心の茂作ではあるが、このお調子者、殿様に頭を下げられて顔が青ざめるどころか、すっかりと気を良くしてしまったらしく、品のない笑みを浮かべて、
「おぉ、おぉ、そうか、松平某。それはそうと、ちゃんと用意はされているのだろうな?」
「はい、それは勿論。お羊、入りなさい」
天馬が呼び掛けると襖が開く。と、そこには女がふたり。ひとりは女中らしき女。もうひとりは如何にも姫君といったような幼さの残る女だった。茂作は呆然とする。
「……これはどういうことだ? おれがいっているのはメシは用意してあるのかってことだ」
再び声を荒げる守山。だが、天馬はそんな守山に下がるよういう。守山は最初こそ渋っていたが、天馬の命とあって、従わざるを得ず、そのまま奥へと下がっていく。
「座りなさい」
天馬がそういっても、姫君らしき女は座ろうとしなかった。だが、傍らに立っていた女中にいわれ漸く座る。が、その態度は何処までも不遜で、この世の不満を一挙に顔に集めたといったようなブスッとした表情を浮かべている。
「順庵先生。こちら、某の娘で『おさき』と申します。この度はこちらの病を治して頂きたく、お呼びしたのです」
天馬のことばで茂作は固まる。
そんなこと、出来るワケがない。
茂作は病を治すどころか、人にキズをつけることこそが専売だ。間違ってもそのような有益なことなど出来やしない。というか、そもそも、殿様の目の前で治療など出来ないというのもどうかといった話でもある。
……いや、そもそも悪いのは、あの犬の字だ。あの男が間違えさえしなければ、自分はこんなところで医者がどうこういう騒動に巻き込まれずに済んだワケだ。
ならば、今のうちに誤解を解かねば……!
「あんのぉ、松平様……」
「どうなされました?」
「いんやぁ……、実はおれは医者とかでは……」
「何だその消極的な姿勢は! さっきまでの無礼な姿勢は如何した! この無礼者が! 失敗したら打ち首も覚悟して貰うぞ!」
突然、襖が開いたかと思いきや、先程の守山と呼ばれた中年の侍が鬼のようなモノ凄い形相で飛び込んで来ようとする。
打ち首。そのことばが茂作の気勢をすっかり削いでしまった。
殺される。失敗したら殺される。間違いだと説明しても、きっと殺される。そんな不安が茂作の顔に刻まれたように、顔は恐怖に歪む。
と、部屋に入ろうとしてくる守山という侍を抑える男が、襖からちらっと見える。
それはあの「犬の字」の男だった。
「あっ……、あっ……!」
犬の字を指差しながら曖昧なことばを放つ茂作。だが、その意味が天馬に理解されるはずもなく、天馬は「守山!」と声を上げる。と、守山はビクッと震える。天馬は続ける。
「……静かにしなさい。お客人の前だぞ」
まるで氷が更に凍りついたような冷たい調子だった。一見すると穏やかで温厚な印象のある松平天馬だったが、そのひとことから伺えるのは底なしの闇。逆らえば地獄の底よりも更に底へと叩き落とされてしまいそうな、そんな凄みと恐ろしさがあった。
それからすぐに守山は犬の字に引っ張られて奥へと引っ込んで行った。ため息をつく天馬。
「かたじけない。いや、アレは非常に真面目で忠誠心の強い男でね。決して悪い男ではないのだ。許してやって欲しい」
と先程の冷たさは何処へやら、天馬は穏やかな笑みを浮かべる。茂作は引き吊った笑みを浮かべことばにならない笑い声を発しながら、壊れた人形のように首をカクカクと動かした。
【続く】