【いろは歌地獄旅~世界はあなたのために~】
文字数 2,317文字
人生はみな自分こそが主人公、だなんて文句を聴いたことがあるだろうか。
こんなのはウソだと思う。
そもそもの考え方として、この世に人間は何十億といるワケで、そのすべてが自分の人生の主人公であれば、それぞれの人生で輝くことが出来るはずだ。
確かに、ある程度自分の力量というか、自業自得で失うモノがあり、冴えない自堕落な人生を送ることとなる人はいるだろうが、だとしても時にあまりに酷い状況に吐き気を覚えることだってあると思うのだ。
振り返ってみれば、ろくでもない人生だと思う。何かに秀でたワケではない。『期待』という名目で利用されたことも何度もある。そして、勝手に『失望』されて切られたことも何度もある。気づけばワケもわからない内に自分の元から人がいなくなっている。
無限の孤独がそこにある。
たったひとり。
たったひとりの主人公。
脇役など存在しないひとり芝居。それが自分の人生でしかなかったと思えてならない。カップラーメンよりも手軽な慰めのことばはいくらでも吐けるだろう。だが、そんなのは所詮気休めで、一瞬気持ち良くなったと思ったら、時間が経つと禁断症状の出る麻薬と変わらない。
努力。ひとりで努力を重ねるのはあまりにも苦しい。人は出会う人間を選ぶことが殆ど出来ない。付き合う人間を選ぶことは可能だが、何処でどういうアクシデントがあるかもわからない以上、誰と出会うかなどという選択をすることは出来ないに等しいといえる。
ろくでもないシナリオ。主人公である自分が、いつの間にか他人に翻弄されながら苦しんで行くだけの胸糞悪いだけのシナリオ。見所は殆どない。まったくないとはいえないが、時折起こるイベントは、すべて大した波など起こり得ず、有るもないも同然。
考えてみれば、脇役の存在を拒絶しだしたのは、脇役に翻弄され続けたからなのかもしれない。人に恵まれなかった。簡単にいい表すとしたら、そういうことになると思う。
これは自分が悪いのだろうか。自問する。だが、自分でそれに答えることは出来ない。自分が至らないことなど、自分のシナリオにおいていくらでもある。
だからこそ、脇役に自分のシナリオの不備を押し付けることなど出来やしない。
だが、脇役にまったくの不備がなかったかといわれたら、そうは思わない。自分に不備があることは認める。人間だからだ。だが、それは同時に脇役たちにも不備はあったと考えてもいいのではないかとも思えるのだ。
今は自分の舞台、そのセンターでただひとり、ピンスポットライトを浴びて立っている。光が当たるは当然自分だけ。自分の存在をくり貫いて、他の登場人物はみな消えている。
だが、自分もそろそろ舞台を降りる時が来たのかもしれない。
オーディエンスのいない、終わりの見えないこの舞台を降りる時が来たのかもしれない。
カーテンコールに出てくるのは自分ひとりだけ。脇役たちはもはやいなくなっている。エゴイストと思うだろう。だが、エゴイストは周りもそうだった。脇役たちのために随分と身を切った。身を切り続けて自分のマインドは切り傷だらけになってしまった。
傷が増えれば、脇役のためには動けない。自分の生命に危機感を覚えるからだ。危機感を覚えれば余裕がなくなるからだ。余裕がなくなれば、脇役に構うより自分を救うことにフォーカスしなければならなくなるからだ。
結果、この流れがここから脇役を遠ざける。いや、脇役自ら遠ざかっていくのだ。
キミはひとりじゃない。下らない音楽が鳴り響く。では、どうして今、自分はひとりなのだ。皮肉にもほどがある。
愛がどうとか、希望がどうとか、いい加減に聴き飽きた。そんなモノがあったら、今のこんな状況には陥っていないはずだ。
いや、他の脇役たちにはそういうモノがあるのかもしれない。あったのかもしれない。だが、自分にはなかった。それだけの話。
世界はあなたのために。
そんなことばを掛けてくれるような人は何処にもいなかった。
軽々しい薄っぺらいことばなら、いくらでも似たようなことをいわれはしたけれど、そんなのはまやかしでしかなかった。ニヤついた仮面の裏には、残酷な嘲笑が浮かんでいた。もう、そんなモノにはウンザリだった。
ハッピーエンディング?
何だ、それ。
カーテンコールで割れんばかりの拍手を貰うことか。それとも泣いて貰うことか。それとも笑って貰うことだろうか。透き通るような気持ちになって貰うことだろうか。
舞台を降りたことで笑って貰え、透き通った気持ちになるのなら、それは自分の退場が望まれたモノであるとしかいえない。
そういうことではない。
人はいう。
では、どうしてそういえるのだろうーーそう訊ねると、大抵は答えに窮して沈黙するか、気休め的な地に足の付いていないひとことしかいえないのが相場だ。だが、そんな無責任なことばはもう聴き飽きた。
さて、清水の舞台から飛び降りる時が来た。
ここは東京だけど、そんなのは関係ない。
脇役たちが去っていったように、自分も自分勝手に去っていく。それの何が悪いというのだろう。自分だけが悪い、そんな理論が働くならば、それこそ自分はもういらない。
世界はあなたのためにーー最期にこのことばを自分に送る。
……そんなことを考えながらも朝は来る。
真っ白なシャツの袖に腕を通し、細身のスーツをビシッと決めて、鞄を持って家を後にする。忘れモノはない。整理もした。
結局、自分は自分のシナリオを書き上げて演じ切るしかないようだ。
世界はあなたのためにーー脇役がそんなことをいってくれるはずもないのだから。
そして、家を出る。
退屈なシナリオの続きを書き上げるために。
こんなのはウソだと思う。
そもそもの考え方として、この世に人間は何十億といるワケで、そのすべてが自分の人生の主人公であれば、それぞれの人生で輝くことが出来るはずだ。
確かに、ある程度自分の力量というか、自業自得で失うモノがあり、冴えない自堕落な人生を送ることとなる人はいるだろうが、だとしても時にあまりに酷い状況に吐き気を覚えることだってあると思うのだ。
振り返ってみれば、ろくでもない人生だと思う。何かに秀でたワケではない。『期待』という名目で利用されたことも何度もある。そして、勝手に『失望』されて切られたことも何度もある。気づけばワケもわからない内に自分の元から人がいなくなっている。
無限の孤独がそこにある。
たったひとり。
たったひとりの主人公。
脇役など存在しないひとり芝居。それが自分の人生でしかなかったと思えてならない。カップラーメンよりも手軽な慰めのことばはいくらでも吐けるだろう。だが、そんなのは所詮気休めで、一瞬気持ち良くなったと思ったら、時間が経つと禁断症状の出る麻薬と変わらない。
努力。ひとりで努力を重ねるのはあまりにも苦しい。人は出会う人間を選ぶことが殆ど出来ない。付き合う人間を選ぶことは可能だが、何処でどういうアクシデントがあるかもわからない以上、誰と出会うかなどという選択をすることは出来ないに等しいといえる。
ろくでもないシナリオ。主人公である自分が、いつの間にか他人に翻弄されながら苦しんで行くだけの胸糞悪いだけのシナリオ。見所は殆どない。まったくないとはいえないが、時折起こるイベントは、すべて大した波など起こり得ず、有るもないも同然。
考えてみれば、脇役の存在を拒絶しだしたのは、脇役に翻弄され続けたからなのかもしれない。人に恵まれなかった。簡単にいい表すとしたら、そういうことになると思う。
これは自分が悪いのだろうか。自問する。だが、自分でそれに答えることは出来ない。自分が至らないことなど、自分のシナリオにおいていくらでもある。
だからこそ、脇役に自分のシナリオの不備を押し付けることなど出来やしない。
だが、脇役にまったくの不備がなかったかといわれたら、そうは思わない。自分に不備があることは認める。人間だからだ。だが、それは同時に脇役たちにも不備はあったと考えてもいいのではないかとも思えるのだ。
今は自分の舞台、そのセンターでただひとり、ピンスポットライトを浴びて立っている。光が当たるは当然自分だけ。自分の存在をくり貫いて、他の登場人物はみな消えている。
だが、自分もそろそろ舞台を降りる時が来たのかもしれない。
オーディエンスのいない、終わりの見えないこの舞台を降りる時が来たのかもしれない。
カーテンコールに出てくるのは自分ひとりだけ。脇役たちはもはやいなくなっている。エゴイストと思うだろう。だが、エゴイストは周りもそうだった。脇役たちのために随分と身を切った。身を切り続けて自分のマインドは切り傷だらけになってしまった。
傷が増えれば、脇役のためには動けない。自分の生命に危機感を覚えるからだ。危機感を覚えれば余裕がなくなるからだ。余裕がなくなれば、脇役に構うより自分を救うことにフォーカスしなければならなくなるからだ。
結果、この流れがここから脇役を遠ざける。いや、脇役自ら遠ざかっていくのだ。
キミはひとりじゃない。下らない音楽が鳴り響く。では、どうして今、自分はひとりなのだ。皮肉にもほどがある。
愛がどうとか、希望がどうとか、いい加減に聴き飽きた。そんなモノがあったら、今のこんな状況には陥っていないはずだ。
いや、他の脇役たちにはそういうモノがあるのかもしれない。あったのかもしれない。だが、自分にはなかった。それだけの話。
世界はあなたのために。
そんなことばを掛けてくれるような人は何処にもいなかった。
軽々しい薄っぺらいことばなら、いくらでも似たようなことをいわれはしたけれど、そんなのはまやかしでしかなかった。ニヤついた仮面の裏には、残酷な嘲笑が浮かんでいた。もう、そんなモノにはウンザリだった。
ハッピーエンディング?
何だ、それ。
カーテンコールで割れんばかりの拍手を貰うことか。それとも泣いて貰うことか。それとも笑って貰うことだろうか。透き通るような気持ちになって貰うことだろうか。
舞台を降りたことで笑って貰え、透き通った気持ちになるのなら、それは自分の退場が望まれたモノであるとしかいえない。
そういうことではない。
人はいう。
では、どうしてそういえるのだろうーーそう訊ねると、大抵は答えに窮して沈黙するか、気休め的な地に足の付いていないひとことしかいえないのが相場だ。だが、そんな無責任なことばはもう聴き飽きた。
さて、清水の舞台から飛び降りる時が来た。
ここは東京だけど、そんなのは関係ない。
脇役たちが去っていったように、自分も自分勝手に去っていく。それの何が悪いというのだろう。自分だけが悪い、そんな理論が働くならば、それこそ自分はもういらない。
世界はあなたのためにーー最期にこのことばを自分に送る。
……そんなことを考えながらも朝は来る。
真っ白なシャツの袖に腕を通し、細身のスーツをビシッと決めて、鞄を持って家を後にする。忘れモノはない。整理もした。
結局、自分は自分のシナリオを書き上げて演じ切るしかないようだ。
世界はあなたのためにーー脇役がそんなことをいってくれるはずもないのだから。
そして、家を出る。
退屈なシナリオの続きを書き上げるために。