【丑寅は静かに嗤う~戌亥】
文字数 3,016文字
揺れる吊り橋の上で犬蔵はどこか安堵するように笑みを浮かべる。
「猪之助、テメェなのか……!?」犬蔵が訊ねると、犬と猪の折衷仮面は頷く。「……はは、良かった。無事だったんだな。猪之助、助かった。おれはコイツらに捕まってこの通りだ。ここでテメェらに会えたとは地獄で仏よ」
奥歯をギリッと噛み締めるお雉ーーその顔には悔しさが滲み出ているよう。
「ちょっとアンタ! 裏切るつもり!?」
お雉がいうと、犬蔵は勝ち誇ったような笑みを浮かべながら振り返る。
「裏切る? おれは元から十二鬼面の一員だ。勘違いして貰っちゃ困るね」
苦渋に満ちたお雉の顔ーー
「バカいわないで! アンタは裏切られたんだ! 今更ソイツらの所に戻ったってーー」
「戻ったって、何だい? おれがコイツらに裏切られたなんて、所詮はそこにいる桃川さんが勝手にいったことじゃねぇか。そんなの……」
「犬蔵」猪之助はいう。
「……犬蔵?」犬蔵は猪之助のほうを振り返っていう。「……何いってんだよ。おれはテメェらの組の頭領の戌亥様だぜ、そんなーー」
「まだわからないのかーー犬蔵」猪之助はまるで強調するかのように犬蔵の名前を呼びながらいう。「貴様はもう十二鬼面の一員じゃなくなったんだよ」
「……は?」一瞬の絶望が表情に浮かんだかと思いきや、犬蔵は微かに笑いながら、「何をいってんだよ。あ、そうか。お前は昔から冗談をいうのが好きだったもんな。いやぁ、騙されるところだったよ。はっはっ……」
犬蔵の笑い声は自信が欠けているように乾いており、目も笑っていない。そして、それを裏付けるかのように猪之助はため息をつきーー
「おめでたいバカだな貴様は」
「おい! 頭領に向かって何だ、その口の利き方は! テメェ、それでもーー」
「だからバカだっていってんだよ。この面を見て、まだわからないのか」
猪之助の被った面ーー犬と猪の折衷仮面。それは紛れもなく『戌亥』ーー十二鬼面の四天王のひとりであるという証だった。
「んな、バカな……」犬蔵の顔に「現実」という非情なふた文字が刻まれ、そしてそれは絶望へと変わる。「ウソだ……。ウソだといってくれ! おれとテメェの仲だったじゃねぇか!」
「貴様が『戌亥』だった時代は確かにあった。だが、それも今となっては昔ばなしに過ぎない。残念だったと諦めなーー」
「待て!」犬蔵が叫ぶ。「どうして……、どうしておれは殺されなきゃならねぇんだ……。教えてくれ、おれが何をしたってぇんだ……」
「自分が信頼されてたと、どうして思う?」
猪之助の非情なひとことに、犬蔵の顔は凍り付く。先程までの余裕はもはや犬蔵にはないようで、顔の筋肉を震わせながら、
「……どういう意味だ」
そう問い掛けても猪之助の表情は変わらない。あるのは戌亥の無機質な無表情ーー
「貴様は誰からも信頼されてなかった。賊にいながら孤立している手のつけようのない野良犬。そんな時、貴様はひとり捕らえられ、上も下もちょうどいい機会だと貴様を切ることにした。それだけの話だ。災難だったと諦めな。おいーー」猪之助の声掛けで犬の面を被った配下のひとりが刀を抜き、八相に構える。「やれ」
猪之助の命令で、犬の面を被った配下は刀を大きく振り上げる。
「止めろ……」犬蔵の消え入るような声も虚しく、刀は振り下ろされる。「止めてくれぇ!」
突然にして時は止まる。橋は落ちることなく、そのまま揺れている。刀を振り下ろした犬の面の配下は刀を手にしたまま自分の胸を抑える。その胸には一本の矢が突き刺さっている。犬の面の配下は呻き声を上げながら、その場に倒れ、そして時間が再び動き出したように、一堂、辺りを見回すーー
「一体、何が……!?」
猪之助はあちこちに首を動かして矢を放った何者かの姿を探す。残された犬の面、猪の面の配下三人も同様にオロオロしている。
橋の上、お雉が後方を振り返り、何かに気づいたのか、「あっ!」と声を上げる。お雉の声と視線に導かれるように、犬蔵と桃川も視線を後方へやる。橋のすぐ傍に立つ木の太い枝元に腰掛ける何者かの姿がそこにーー
「ウソだろ、当たっちゃったよ」
木の枝元に座る何者かがいう。何者かは弓を片手に持ち、背中には矢立を背負っている。紺の着物に黒の袴。髷はなく、総髪の髪を金属の髪留めでうしろに撫で付けている。足元の枝には淡青色の下緒が縛りつけられており、その下緒からは淡青色の柄巻の刀が一本ぶら下がっている。
「猿ちゃん!」お雉が叫ぶ。「いたんだね!」
「お、おう! 安心しな。こっちで待ち伏せてたヤツラはみんな片付けた!」
「何だって……!」猿田のことばに猪之助は明らかな動揺を見せる。
「弓術下手にしては、百点の一撃だったね」
「余計なひとことはいいから、早くソイツら四人を何とかしろ!」
「ありがとう!助かったよ!」
「貴様ら……! 橋を落とーー」
猪之助が指示しようとすると、傍らの猪の面の胸に矢が突き刺さる。お雉ーーいつの間にか背負っていた弓を構えている。更には、もうひとりの犬の面の配下の胸に縦長の手裏剣が刺さる。投げたのは、桃川だった。
「やるじゃない」
「お雉さんこそ。この一瞬でその弓遣い」
「猿の下手な弓と一緒にされちゃ困るからね」
「貴様ら!」猪之助は刀を抜き構える。「地獄へ落ちーー」
猪之助は刀を振り下ろさんとする姿勢のまま硬直する。お雉ーー素早い手際で猪之助に弓矢を向けている。
「少しでも動いたらアンタの命はないよ! いいね!?」
お雉の忠告に猪之助は逆らわないで、そのまま動きを止めている。
「いいね。桃川さん、犬蔵を連れてさっさと橋を渡って! 猿ちゃんも木から降りてさっさと橋を渡っちゃって!」
お雉の指示に従い、桃川、猿田は動き出す。桃川は気をつけてお雉の横を通り、そのまま犬蔵の手綱を握って橋の向こうまで進む。
犬蔵、桃川が橋を渡り切り、桃川が猪之助に背を向けた、その時ーー
「危ねぇ!」
叫び、犬蔵は動き出す。桃川を突飛ばす犬蔵。猪之助が刀を振り上げ、切り下ろす。
犬蔵は桃川の盾となり、背中で猪之助の斬撃を受ける。
猪之助の斬撃で、犬蔵を縛っていた縄は切れたが、同時に背中に大きなキズがひと筋。
犬蔵はふらっと均衡を崩し、
そのまま橋の下の海へと消えていった。
「犬蔵!」猿田が叫ぶ。
猪之助の胸に矢が刺さる。
お雉の弓から矢が消えているーー猪之助の動きを見て、矢を放ったのだ。
猪之助はそのままうしろに倒れる。
お雉は弓を手にしたまま下を覗く。追い付いて来た猿田も同様に。
犬蔵の姿はない。犬蔵は荒ぶる波と海に飲み込まれて消えてしまった。
「犬蔵……!」
お雉はその場にへたり込み、すすり泣き始める。猿田はそんなお雉の肩に手を掛ける。
桃川は立ち上がり、猪之助が刀を握る右手首を踏みつけ、犬蔵の血が付いた刀をゆっくりと手に取ると、血を猪之助の衣服で拭う。
刀を拭うと、今度は猪之助の腰元から鞘を抜き出して刀を納め、鞘に付いた下緒を猪之助の腕にしっかりと結び付けたかと思うと、
桃川はそのまま動かなくなった猪之助を崖から落とすのだった。
海に吸い込まれるように落ちていく猪之助と刀。途中、猪之助の身体は岩場に当たり、大きく弾んで白い波の中へと消えていった。
それを見つめる桃川の目が無機質に揺れる。まるで生気を失ってしまったようにーー
【続く】
「猪之助、テメェなのか……!?」犬蔵が訊ねると、犬と猪の折衷仮面は頷く。「……はは、良かった。無事だったんだな。猪之助、助かった。おれはコイツらに捕まってこの通りだ。ここでテメェらに会えたとは地獄で仏よ」
奥歯をギリッと噛み締めるお雉ーーその顔には悔しさが滲み出ているよう。
「ちょっとアンタ! 裏切るつもり!?」
お雉がいうと、犬蔵は勝ち誇ったような笑みを浮かべながら振り返る。
「裏切る? おれは元から十二鬼面の一員だ。勘違いして貰っちゃ困るね」
苦渋に満ちたお雉の顔ーー
「バカいわないで! アンタは裏切られたんだ! 今更ソイツらの所に戻ったってーー」
「戻ったって、何だい? おれがコイツらに裏切られたなんて、所詮はそこにいる桃川さんが勝手にいったことじゃねぇか。そんなの……」
「犬蔵」猪之助はいう。
「……犬蔵?」犬蔵は猪之助のほうを振り返っていう。「……何いってんだよ。おれはテメェらの組の頭領の戌亥様だぜ、そんなーー」
「まだわからないのかーー犬蔵」猪之助はまるで強調するかのように犬蔵の名前を呼びながらいう。「貴様はもう十二鬼面の一員じゃなくなったんだよ」
「……は?」一瞬の絶望が表情に浮かんだかと思いきや、犬蔵は微かに笑いながら、「何をいってんだよ。あ、そうか。お前は昔から冗談をいうのが好きだったもんな。いやぁ、騙されるところだったよ。はっはっ……」
犬蔵の笑い声は自信が欠けているように乾いており、目も笑っていない。そして、それを裏付けるかのように猪之助はため息をつきーー
「おめでたいバカだな貴様は」
「おい! 頭領に向かって何だ、その口の利き方は! テメェ、それでもーー」
「だからバカだっていってんだよ。この面を見て、まだわからないのか」
猪之助の被った面ーー犬と猪の折衷仮面。それは紛れもなく『戌亥』ーー十二鬼面の四天王のひとりであるという証だった。
「んな、バカな……」犬蔵の顔に「現実」という非情なふた文字が刻まれ、そしてそれは絶望へと変わる。「ウソだ……。ウソだといってくれ! おれとテメェの仲だったじゃねぇか!」
「貴様が『戌亥』だった時代は確かにあった。だが、それも今となっては昔ばなしに過ぎない。残念だったと諦めなーー」
「待て!」犬蔵が叫ぶ。「どうして……、どうしておれは殺されなきゃならねぇんだ……。教えてくれ、おれが何をしたってぇんだ……」
「自分が信頼されてたと、どうして思う?」
猪之助の非情なひとことに、犬蔵の顔は凍り付く。先程までの余裕はもはや犬蔵にはないようで、顔の筋肉を震わせながら、
「……どういう意味だ」
そう問い掛けても猪之助の表情は変わらない。あるのは戌亥の無機質な無表情ーー
「貴様は誰からも信頼されてなかった。賊にいながら孤立している手のつけようのない野良犬。そんな時、貴様はひとり捕らえられ、上も下もちょうどいい機会だと貴様を切ることにした。それだけの話だ。災難だったと諦めな。おいーー」猪之助の声掛けで犬の面を被った配下のひとりが刀を抜き、八相に構える。「やれ」
猪之助の命令で、犬の面を被った配下は刀を大きく振り上げる。
「止めろ……」犬蔵の消え入るような声も虚しく、刀は振り下ろされる。「止めてくれぇ!」
突然にして時は止まる。橋は落ちることなく、そのまま揺れている。刀を振り下ろした犬の面の配下は刀を手にしたまま自分の胸を抑える。その胸には一本の矢が突き刺さっている。犬の面の配下は呻き声を上げながら、その場に倒れ、そして時間が再び動き出したように、一堂、辺りを見回すーー
「一体、何が……!?」
猪之助はあちこちに首を動かして矢を放った何者かの姿を探す。残された犬の面、猪の面の配下三人も同様にオロオロしている。
橋の上、お雉が後方を振り返り、何かに気づいたのか、「あっ!」と声を上げる。お雉の声と視線に導かれるように、犬蔵と桃川も視線を後方へやる。橋のすぐ傍に立つ木の太い枝元に腰掛ける何者かの姿がそこにーー
「ウソだろ、当たっちゃったよ」
木の枝元に座る何者かがいう。何者かは弓を片手に持ち、背中には矢立を背負っている。紺の着物に黒の袴。髷はなく、総髪の髪を金属の髪留めでうしろに撫で付けている。足元の枝には淡青色の下緒が縛りつけられており、その下緒からは淡青色の柄巻の刀が一本ぶら下がっている。
「猿ちゃん!」お雉が叫ぶ。「いたんだね!」
「お、おう! 安心しな。こっちで待ち伏せてたヤツラはみんな片付けた!」
「何だって……!」猿田のことばに猪之助は明らかな動揺を見せる。
「弓術下手にしては、百点の一撃だったね」
「余計なひとことはいいから、早くソイツら四人を何とかしろ!」
「ありがとう!助かったよ!」
「貴様ら……! 橋を落とーー」
猪之助が指示しようとすると、傍らの猪の面の胸に矢が突き刺さる。お雉ーーいつの間にか背負っていた弓を構えている。更には、もうひとりの犬の面の配下の胸に縦長の手裏剣が刺さる。投げたのは、桃川だった。
「やるじゃない」
「お雉さんこそ。この一瞬でその弓遣い」
「猿の下手な弓と一緒にされちゃ困るからね」
「貴様ら!」猪之助は刀を抜き構える。「地獄へ落ちーー」
猪之助は刀を振り下ろさんとする姿勢のまま硬直する。お雉ーー素早い手際で猪之助に弓矢を向けている。
「少しでも動いたらアンタの命はないよ! いいね!?」
お雉の忠告に猪之助は逆らわないで、そのまま動きを止めている。
「いいね。桃川さん、犬蔵を連れてさっさと橋を渡って! 猿ちゃんも木から降りてさっさと橋を渡っちゃって!」
お雉の指示に従い、桃川、猿田は動き出す。桃川は気をつけてお雉の横を通り、そのまま犬蔵の手綱を握って橋の向こうまで進む。
犬蔵、桃川が橋を渡り切り、桃川が猪之助に背を向けた、その時ーー
「危ねぇ!」
叫び、犬蔵は動き出す。桃川を突飛ばす犬蔵。猪之助が刀を振り上げ、切り下ろす。
犬蔵は桃川の盾となり、背中で猪之助の斬撃を受ける。
猪之助の斬撃で、犬蔵を縛っていた縄は切れたが、同時に背中に大きなキズがひと筋。
犬蔵はふらっと均衡を崩し、
そのまま橋の下の海へと消えていった。
「犬蔵!」猿田が叫ぶ。
猪之助の胸に矢が刺さる。
お雉の弓から矢が消えているーー猪之助の動きを見て、矢を放ったのだ。
猪之助はそのままうしろに倒れる。
お雉は弓を手にしたまま下を覗く。追い付いて来た猿田も同様に。
犬蔵の姿はない。犬蔵は荒ぶる波と海に飲み込まれて消えてしまった。
「犬蔵……!」
お雉はその場にへたり込み、すすり泣き始める。猿田はそんなお雉の肩に手を掛ける。
桃川は立ち上がり、猪之助が刀を握る右手首を踏みつけ、犬蔵の血が付いた刀をゆっくりと手に取ると、血を猪之助の衣服で拭う。
刀を拭うと、今度は猪之助の腰元から鞘を抜き出して刀を納め、鞘に付いた下緒を猪之助の腕にしっかりと結び付けたかと思うと、
桃川はそのまま動かなくなった猪之助を崖から落とすのだった。
海に吸い込まれるように落ちていく猪之助と刀。途中、猪之助の身体は岩場に当たり、大きく弾んで白い波の中へと消えていった。
それを見つめる桃川の目が無機質に揺れる。まるで生気を失ってしまったようにーー
【続く】