【丑寅は静かに嗤う~小休】

文字数 2,714文字

 夜、江戸のとある河原にて、猿田とお雉はふたり小休止を取っていた。お雉は川辺にしゃがみこんで調子悪そうにしており、猿田はその隣でただ黙って川の水面を見つめていた。

「怖かったか?」

 猿田が訊ねると、お雉はコクりと頷いた。身体は依然として震えており、落ち着く気配がまったく見られない。

「水面に映った自分を見てみろ。少しは落ち着く」猿田。

 が、お雉は首を横に振って、

「……見たくない」

「自分の顔まで穢れてしまった、とでもいうのか。心配すんな、アンタはアンタのままだよ」

「でも……、あたしはーー」お雉はことばを区切り沈黙したかと思うと、徐に震える手のひらを見つめて再び口を開いた。「簪を首筋に突き刺した時の気持ち悪い感触が、まだあたしの手に残っている。思った以上に簡単に、まるで豆腐に包丁を入れるようにサクッとーー」

 お雉はえづいた。川辺に向かって戻しそうになっているお雉の背中を、猿田はゆっくりと静かにさすった。

「初めての殺し、となると無理もない。心配すんな、すぐに慣れる」

 お雉はえづきつつも、

「……すぐって、あなたはこれまで、何人をその刀で切り捨てて来たの?」

「おれか? おれは……」猿田は遠い目で何かを見つめた。「何人、だろうな」

「何人、って……、そんなに人を切って来たの?」

「……まぁ、そうなるな」猿田の目は遠い何かを見つめているようだった。

「そう……、怖くないの? 人を切って」

「怖いさ。怖くて堪らない」

「……でも、さっきはあんな簡単に何人もの刺客を斬り倒したじゃない。それでも怖いっていうの?」

「あぁ、怖い」

 猿田は即答した。その声は強張っていた。

 河原の湿った空気がまるで目に見えるようだった。気化した川の水の一部が、白い靄のようになり、ふたりにまとわりついていた。

「親父の仇を斬った話をしただろう。アレだって怖かった。まぁ、あの時は相手が自分よりも圧倒的な実力の持ち主だということもあったし、自分の仇であるという感情もあった。だから、あの時はまた事情が違った」

「じゃあ、いつもはどうなの?」

 猿田は口をつぐんだ。まるで、それを口にすることが禁忌であるかのように口を固く結んで黙りこくっていたかと思うと、ため息をついてその場にあった石を川面に向かって投げつけ始めた。ジョボンと石が川中に吸い込まれる音が闇に溶けていった。水面に映った月が波紋によって掻き消された。お雉は猿田の様子を窺うようにして、

「……ごめん、変なこと訊いちゃった?」

「いや、そんなことはない。ただ、何ていえばいいのかわからなくてな」猿田は尚も川に向かって石を投げ続けた。「最初は、その恐怖の正体がわからなかった。時を選ばすして頭を覆うぼんやりとした黒い影のようなモノと、そこから覗ける細く青白い手がおれを手招きしているようなそんな恐怖と不安が、背中と脇を濡らす汗のようにじっとりとおれを深い深い淵の向こうへと誘おうとするんだ」

「そう……。で、結局その正体が何かはわからず終いなんだ」

「いや、今日まではわからなかった。だが、今日になって漸くわかった。おれは、恐怖が快楽に変わってしまうのが怖かったんだ」

「恐怖が快楽に?」

 川がジョボンと悲鳴を上げた。

「あぁ。……さっき、仇の話をしただろう。あれでわかったんだ。おれが何を恐れているのか、ヤツがその答えをすべてことばにしてくれた。ヤツは人を切ることに恐怖なんか微塵もなかった。それどころか、人を切ることに生き甲斐すら感じていた。そこだよ、怖いのは。おれも最初に人を斬った時は怖かった。だけど、二度目の殺しは一度目と比べるとずっと楽だった。更に回数を重ねていくと、人を斬ることにどこか慣れが生じて来た。これが曲者だった。人を殺すことに抵抗がなくなっている。そこにおれは不安を感じていたんだと思う。そして、おれはいつしか『丑寅』と呼ばれるようになった。理由は至極単純なはずなのに、ふたつ名ばかりが先行し、おれはいつしか人々の間で『殺人狂』のようにウワサされるようになった。街道を行けば無関係の浪人までもが煙たがられ、賭場に行けばおれの所業が尾ひれ付きで語られていた。おれはそんな誇張されたウワサと共に自分自身が人を斬ることに何の躊躇いもなくなり、殺しに快楽を感じるような乱心を起こすんじゃないかとずっと恐れていた。そして、頭の中を喰らい尽くそうとしている黒い影にいつしか自分が飲み込まれるんじゃないかって、な」

 石を投げる猿田の手元が狂い、石は大きく頭上に飛んだ。猿田は思わず立ち上がり、天へと伸びていった石の行方を追った。

 石は猿田の手前の川面に落ちた。

 猿田が水面を覗き込むと、川面に映った猿田の姿が波状に掻き消され、そして時間と共にその姿は元通りになった。

 が、川面に映った猿田の姿が元通りになっても、その姿は微妙に揺れていた。

「……そうだったんだね」お雉。「でも、あなたなら大丈夫だと思うよ」

 お雉のことばは朗らかで優しさに満ちていた。身体の震えはまだ残っており、声も震えてはいたが、先程までの怯えきった様子は身を潜めていた。

「……どうしてそう思う?」

「本当に死の快楽に目覚めるようなヤツは、そんなことを考えないと思うよ」

 お雉の答えが意外だったのか、猿田はきょとんとした面持ちでいた。そうかと思いきやふと笑みを浮かべて、

「そうかも、しれないな」

「それに」お雉は猿田の話を遮るようにして付け加えた。「それに……、あなたみたいな優しい人が、そんな乱心するワケがないよ。あたしが……、保証する」

 お雉のことばで一瞬の静寂が訪れた。猿田はポカンとしていた。が、すぐに表情を崩し沸々と沸き上がる湯のように徐に笑い始めた。

「保証してくれるか。ありがとよ。お陰で気が楽になったぜ」立ち上がる猿田。「さて、おれは仕事を果たしに行く。アンタはどうする。ここに残るか?」

 猿田の問いに対し、お雉は無言で何の反応も見せずにいたが、少しして、

「……あたしも連れてって。全部、あたしが始めたことなんだ、あなたと一緒にいって見届けなくちゃ。だって、あたしとあなたは共に地獄の道を歩む相対死の仲なんだから」

 猿田はお雉に笑みを見せた。

「それもそうだな。おれも……」

 猿田は唐突に沈黙の薄い霧に包まれた。

「……どうしたの?」

「……何でもない。行こう。立てるか?」

「ちょっと、手を貸してくれるかな……?」

「あいよ」

 猿田はお雉の身体を支えつつ、ゆっくりと彼女を立たせた。そのまま彼女の手を取り、

「震えはすぐに止まる。心配するな、おれが傍にいる」

 微笑む猿田に対し、お雉はぎこちない笑みを浮かべてぎこちなく頷いた。

 【続く】
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登場人物紹介

どうも!    五条です!


といっても、作中の登場人物とかではなくて、作者なんですが。


ここでは適当に思ったことや経験したことをダラダラと書いていこうかな、と。


ま、そんな感じですわ。

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