【いろは歌地獄旅~あの世とこの世~】
文字数 2,522文字
地獄とこの世、その違いは何処にあるのか。
そう訊ねられて、答えられるヤツはいるのだろうか。多分、いないと思う。
何故なら、人は死んだことがないから。本当の地獄を見たことがないから。
おれもそうだ。だが、おれが思うのは、
この世が地獄よりも酷い所なんじゃないかということだ。
そもそも、こんなバカげた無法がまかり通る世が極楽なワケがない。かといって、鬼たちが法を守らせているであろう地獄がここまで無法なワケもない。となると、この世は地獄よりも更に苦しい世なのではないか、ということだ。
あるクソみたいに暑い夏のことだった。
おれは日差しにやられて原っぱに聳え立つ大きな木の下で横になって休んでいた。吐き気が止まらなかった。竹筒の水も空になり、ノドもからからになっていた。全身が干からびていた。汗ももう殆ど掻かなくなっていた。
あぁ、死ぬ。そう思った。
おれも大層無法な生き方をしてきたモンだが、その無法者の最期が干からびて死ぬだなんて情けないモノだ。ガキの時から暑さだけは本当に苦手だったが、大人になって余計に酷くなり、気づけば夏の度に胃の中のモノを吐き出している。それくらいに夏はキライだった。
突然、口許に水が垂れた。
一滴じゃない、完全な流れる水だった。あぁ、ついに死がおれに幻を見せ始めたか、そう思った。おれは微かに目を開いた。
ぼやける視界の前に黒い何かが揺れていた。あ、死神か。ふとそう思った。だが、それは大きな間違いだった。
年端も行かない女の子だった。
みすぼらしい着物に、おかっぱ頭。顔は無垢で、おれのことを心配そうに眺めている。
「大丈夫?」女の子は訊ねた。
おれは何も答えなかった。答えられなかったというのが正しかったのかもしれない。それ以上に、かわいい死神だなと思った。こんな死神となら地獄に行っても構わないとそう思った。
女の子は竹筒を下げると、おれに顔を近づけ、手をおれの頬に当てた。とても冷たい手。だが、その冷たさの中に微かな温もりがある。おれは口を微かに動かした。
「のぼせあがってる。ちょっと待ってて」
そういって女の子はその場から駆けて何処かへ行ってしまった。あれは死神じゃなかったのか。ふと思った。死神がわざわざ何処かへ何かを取りに行くような手間を掛けるワケがないからな。仮に何か道具を忘れたんだとしたら、そんなマヌケが地獄の使いだなんて、呆れて死ぬにも死にきれないだろう。
と、再び目を閉じた。今度は本当に死ぬつもりで。まぶたに陽の眩しさが割り込んで来る。この眩しさが消えた時、おれの命は消え去るのだな。おれは僅かに残っていたツバを絞り出して飲み込んだ。そよ風すらも熱気を持ち、涼しさは皆無。不快感しかなかった。
セミの喧しい鳴き声。まるで死の淵からおれを呼び起こそうとしているよう。だが、そんなのは時間の無駄。多分、おれは……。
額と頬に刺すような急激な冷たさが走った。
おれは思わずギュッと目を閉じ、そして開けた。と、そこにはあの女の子がいた。あどけない笑顔でおれのことを見ている。
「どうだ、気持ちいいか?」
女の子がそう訊ねると、おれの額から何かが垂れて来るのを感じた。
「……何だこれは?」
「氷だ。村の人に分けて貰った。それにほら」といって、女の子は竹筒を三本掲げ、「水もあるから、飲んでくれ。さ、さ」
そういって女の子はおれの衣服の中に氷の欠片をいくつか忍ばせた。頭につけた氷を今度は首に当ててくれた。おれは微かな声で水が欲しいといった。と、女の子は水を少しずつ飲ませてくれた。口の中に潤いが戻って来た。
「どう、元気出た?」
「……ありがとよ。少し良くなった気がする」
それはウソではなかった。間違いなく、元気が暗闇から差す微かな光のように出て来たようだった。と、女の子は端から何かを取り出した。それはいくつかの輝く銀。
握りメシだった。
「色々いって作って貰った。さ、食べて。塩が利いてて美味しいよ」
そういって女の子はおにぎりを少しかじって噛みほぐし、口移しでおれにおにぎりを与えた。塩気は多少飛んでしまっていたが、飲み込みやすく、とても美味しかった。女の子はそんな風に、時間を掛けておれの身体を冷やしながらメシを与えてくれた。
すべての握りメシがなくなった時には、おれもすっかり元気になっていた。おれは木に背中を預けて座ると、女の子と向かい合って座った。女の子は笑顔でいう。
「すっかり良くなったね」
「あぁ……、まだ少し休んだほうが良さそうだが、随分良くなったみてぇだ。すまねぇな」
「いいんだよ。困った時はお互い様だからね。……ねぇ、おじちゃん、名前は?」
そう訊ねられておれは口をつぐんだ。おれの名前を聞いたヤツで長生きしたヤツはいない。風のウワサで名を知っているヤツはいるにしても、おれの顔を見て『牛野馬之助』、『牛馬』の名前が出てくることはまずない。何故なら、その名が出た時は、ソイツが死ぬ時だから。
「……悪い、ないんだ」
苦し紛れとはいえ、おれにはそうとしかいえなかった。が、女の子は、
「そっか。じゃあわたしがつけてあげる。そうだなぁ……、木の下で寝てたから、『木下寝坊助』さん、なんてどう?」
木下寝坊助。何とも人をバカにした名前だったが、おれは思わず笑ってしまった。何とも安直でバカみたいな名前だが、何処か純粋でイヤミのない女の子の笑顔のせいか、おれは苛立つどころか、むしろ嬉しくなっていた。
「『木下寝坊助』か、いい名前だな」
「気に入ってくれたか。寝坊助さん」
「あぁ。で、名前をつけて貰って悪いが、お前の名前は何ていうんだよ」
名前を明らかにしてないおれがいっていいことではなかったが、おれは単純にこの命の恩人の名前が気になって仕方なかった。
「おてい。よろしくね、寝坊助さん」
おていは微笑んだ。おれも。
熱い風が吹いた。不思議と涼しく感じられた。そして、おれは忘れていたことを思い出した。無法ばかりがこの世ではない。優しさなんてモノがまだこの世の中に残っているなら、生きるってことも捨てたモンじゃない。
おれは久しぶりにこころから笑った。塩気のないおにぎりの味がまだ口の中に残っていた。
そう訊ねられて、答えられるヤツはいるのだろうか。多分、いないと思う。
何故なら、人は死んだことがないから。本当の地獄を見たことがないから。
おれもそうだ。だが、おれが思うのは、
この世が地獄よりも酷い所なんじゃないかということだ。
そもそも、こんなバカげた無法がまかり通る世が極楽なワケがない。かといって、鬼たちが法を守らせているであろう地獄がここまで無法なワケもない。となると、この世は地獄よりも更に苦しい世なのではないか、ということだ。
あるクソみたいに暑い夏のことだった。
おれは日差しにやられて原っぱに聳え立つ大きな木の下で横になって休んでいた。吐き気が止まらなかった。竹筒の水も空になり、ノドもからからになっていた。全身が干からびていた。汗ももう殆ど掻かなくなっていた。
あぁ、死ぬ。そう思った。
おれも大層無法な生き方をしてきたモンだが、その無法者の最期が干からびて死ぬだなんて情けないモノだ。ガキの時から暑さだけは本当に苦手だったが、大人になって余計に酷くなり、気づけば夏の度に胃の中のモノを吐き出している。それくらいに夏はキライだった。
突然、口許に水が垂れた。
一滴じゃない、完全な流れる水だった。あぁ、ついに死がおれに幻を見せ始めたか、そう思った。おれは微かに目を開いた。
ぼやける視界の前に黒い何かが揺れていた。あ、死神か。ふとそう思った。だが、それは大きな間違いだった。
年端も行かない女の子だった。
みすぼらしい着物に、おかっぱ頭。顔は無垢で、おれのことを心配そうに眺めている。
「大丈夫?」女の子は訊ねた。
おれは何も答えなかった。答えられなかったというのが正しかったのかもしれない。それ以上に、かわいい死神だなと思った。こんな死神となら地獄に行っても構わないとそう思った。
女の子は竹筒を下げると、おれに顔を近づけ、手をおれの頬に当てた。とても冷たい手。だが、その冷たさの中に微かな温もりがある。おれは口を微かに動かした。
「のぼせあがってる。ちょっと待ってて」
そういって女の子はその場から駆けて何処かへ行ってしまった。あれは死神じゃなかったのか。ふと思った。死神がわざわざ何処かへ何かを取りに行くような手間を掛けるワケがないからな。仮に何か道具を忘れたんだとしたら、そんなマヌケが地獄の使いだなんて、呆れて死ぬにも死にきれないだろう。
と、再び目を閉じた。今度は本当に死ぬつもりで。まぶたに陽の眩しさが割り込んで来る。この眩しさが消えた時、おれの命は消え去るのだな。おれは僅かに残っていたツバを絞り出して飲み込んだ。そよ風すらも熱気を持ち、涼しさは皆無。不快感しかなかった。
セミの喧しい鳴き声。まるで死の淵からおれを呼び起こそうとしているよう。だが、そんなのは時間の無駄。多分、おれは……。
額と頬に刺すような急激な冷たさが走った。
おれは思わずギュッと目を閉じ、そして開けた。と、そこにはあの女の子がいた。あどけない笑顔でおれのことを見ている。
「どうだ、気持ちいいか?」
女の子がそう訊ねると、おれの額から何かが垂れて来るのを感じた。
「……何だこれは?」
「氷だ。村の人に分けて貰った。それにほら」といって、女の子は竹筒を三本掲げ、「水もあるから、飲んでくれ。さ、さ」
そういって女の子はおれの衣服の中に氷の欠片をいくつか忍ばせた。頭につけた氷を今度は首に当ててくれた。おれは微かな声で水が欲しいといった。と、女の子は水を少しずつ飲ませてくれた。口の中に潤いが戻って来た。
「どう、元気出た?」
「……ありがとよ。少し良くなった気がする」
それはウソではなかった。間違いなく、元気が暗闇から差す微かな光のように出て来たようだった。と、女の子は端から何かを取り出した。それはいくつかの輝く銀。
握りメシだった。
「色々いって作って貰った。さ、食べて。塩が利いてて美味しいよ」
そういって女の子はおにぎりを少しかじって噛みほぐし、口移しでおれにおにぎりを与えた。塩気は多少飛んでしまっていたが、飲み込みやすく、とても美味しかった。女の子はそんな風に、時間を掛けておれの身体を冷やしながらメシを与えてくれた。
すべての握りメシがなくなった時には、おれもすっかり元気になっていた。おれは木に背中を預けて座ると、女の子と向かい合って座った。女の子は笑顔でいう。
「すっかり良くなったね」
「あぁ……、まだ少し休んだほうが良さそうだが、随分良くなったみてぇだ。すまねぇな」
「いいんだよ。困った時はお互い様だからね。……ねぇ、おじちゃん、名前は?」
そう訊ねられておれは口をつぐんだ。おれの名前を聞いたヤツで長生きしたヤツはいない。風のウワサで名を知っているヤツはいるにしても、おれの顔を見て『牛野馬之助』、『牛馬』の名前が出てくることはまずない。何故なら、その名が出た時は、ソイツが死ぬ時だから。
「……悪い、ないんだ」
苦し紛れとはいえ、おれにはそうとしかいえなかった。が、女の子は、
「そっか。じゃあわたしがつけてあげる。そうだなぁ……、木の下で寝てたから、『木下寝坊助』さん、なんてどう?」
木下寝坊助。何とも人をバカにした名前だったが、おれは思わず笑ってしまった。何とも安直でバカみたいな名前だが、何処か純粋でイヤミのない女の子の笑顔のせいか、おれは苛立つどころか、むしろ嬉しくなっていた。
「『木下寝坊助』か、いい名前だな」
「気に入ってくれたか。寝坊助さん」
「あぁ。で、名前をつけて貰って悪いが、お前の名前は何ていうんだよ」
名前を明らかにしてないおれがいっていいことではなかったが、おれは単純にこの命の恩人の名前が気になって仕方なかった。
「おてい。よろしくね、寝坊助さん」
おていは微笑んだ。おれも。
熱い風が吹いた。不思議と涼しく感じられた。そして、おれは忘れていたことを思い出した。無法ばかりがこの世ではない。優しさなんてモノがまだこの世の中に残っているなら、生きるってことも捨てたモンじゃない。
おれは久しぶりにこころから笑った。塩気のないおにぎりの味がまだ口の中に残っていた。