【藪医者放浪記~弐~】
文字数 3,072文字
雄叫びが猛々しく響く。
川越にある永島邸という武家屋敷では定期的にそのような声が聴かれた。それも大抵は週の終わりの夜、一刻から一刻半の間。
とはいえ、それが聴こえるのは、邸内部からではなく、蔵の中からだった。
というのも、この時間になると町民から武士、果ては商人、穢多に非人と身分関係なく男が集まるようになるのだ。
蔵の中は幾分かの灯籠によって灯され、そこにあるモノの全体像が把握し切れる程度には明るくなる。そして、そんな中に、たくさんの男たちが集い、壁際に寄って歓声を上げている。
そんな男たちに囲まれるは、やはり男。それもふたり。ふたりの男は着物姿。片方は汚れ、片方は新品のようにキレイで、服装の規定は特にはないようだ。
ふたりの男は互いに見合っている。片方は構え、片方は肩を降ろしている。
そして、片方が一気に掴み掛かるとそのまま取っ組み合いになり、最後には片方が相手を投げて関節を極めてしまう。
関節を極められた男は蔵全体に響き渡るように「参ったッ!」と叫ぶ。
歓声と罵声、落胆の声がこだまする。
と、蔵の奥から遣い走りのような男が盆を竹ザル持って出て来て、その中に入った銭を一部の観衆に渡して行く。
そう、これは賭けだ。ふたりの男のどちらが勝つかを賭け、賭けに勝つとその配当が懐へ入ってくる仕組みとなっている。
ちなみに、その集まった銭によって、配当率は決まり、その余り分が勝者への賞金と主催者側の取り分となるワケだ。
これを『蔵柔術』という。
柔術といっても、現代における柔道とはまったく違って、当て身もある。即ち、これは徒手による殺し合いを目的としない戦いであるということだ。
その規定は限りなく自由で、禁止されていることといえば、「目を打たず、抉らず」ということ、「噛みつかず」ということ、「観衆への攻撃はせず」ということ、そして「相手を死に至らしめてはいけない」ことの四点である。
そもそもこの『蔵柔術』が催されるようになったのは、とある客人の飽きからだった。
そもそも永島邸では、かつてより中元部屋にて客人を集めての丁半博打を催していたのだが、ある時とある客人が、どうせ武家屋敷で役人は入って来れないのなら、もっと別のことをしてもいいのではないか、と提言した。
そこで、丁半に来ていた客人の意見を聴き、最初は闘鶏をやってみたのだが、仕入れる鶏の数と手負いになって動けなくなる鶏が殆ど同じになってしまい、定期開催が難しいとなった。
そこで、力自慢、ケンカ自慢を集めての規定無用の無差別『蔵柔術』が始まったワケだ。
最初は『蔵柔術』だけでなく、自前の武器を用いた『蔵剣術』も盛んだった。剣術といいつつ用いられるのは、本身の刀のような刃のあるモノではなく、木刀をはじめ棒や杖、分銅鎖、果ては琉球の武器など、その自由度は非常に高く、客人からは大変好評だった。
が、それも敷地の問題や客人への被害、果ては禁止されている仕込刃の得物を持ち出す者まで現れてしまったこともあって、いつしか『蔵剣術』はなくなってしまった。
歓声が上がる。先ほどのふたり組は去り、また新たにふたりの男が蔵の真ん中に立つ。ひとりは鍛えられた身体を持った武士で、もうひとりは太った大きな男。
そんな時、蔵の入り口が開く。が、それに注目する者はいない。ここは法の外。誰ひとりとして自分達がもぐりの博打打ちであることに危機感と恐怖を抱いていない。
開いた戸の向こうにいるのは、紺色の着物を着た男。そう、猿田源之助だった。
「やぁ、源之助さん。今日はやるのかい?」
入り口間際にいた年老いた農民らしき男が、両手を前に構えていう。本来なら農民が浪人とはいえ武士である猿田にそのような口は利いてはいけないのだが、ここはそれすらも許されるような場所だった。
ちなみに猿田は『蔵柔術』と『蔵剣術』、両方に出たことがあり、剣術では無敗、柔術でもそれなりの成績を修めていた。
「いや、今日は犬に用があって」
「あぁ、犬きっつぁんかぃ。それなら……」
男が指差した先は、真ん中に立つふたりの男の片割れ、体格のよい太った男だ。身長は五尺九寸にわずかに届かないくらい。髪は月代もなければ、まとめてすらいないで伸びきっている。そして何よりも特徴的なのは額に「犬」の字が書いてあることだろう。これはとある場所にて四度島送りになったことを示している。
「あぁ……」
「まぁ、ゆっくりしていきなよ」
「……そうだな」
歓声が一気に高まる。試合の始まりである。武士が手を大きく広げて気合いを入れる。犬吉は顔をバンバン叩き、武士よりも大きな声で気合いを入れて大きく構える。
「相手は真楊流か」猿田がいう。
「対して犬きっつぁんは我流か。これは見物だねぇ!」男は嬉しげにいう。
武士と犬吉は見合ったままだ。武士の顔に緊張が漂っている。それもそうだろう。いくら技術があっても、相手が大きければ、それだけ威圧感はあるし、恐ろしいモノだ。
武士が更なる気合いを入れて犬吉に掴み掛かる。腰が入る。そして、投げーー
だが、次の瞬間に地に背をつけていたのは武士のほうだった。
武士はまったくワケがわからないといった様子でキョロキョロしている。
「あの野郎、返しやがったな」と猿田。
「我流であの返し業が出来るのはすごいねぇ」
が、猿田は感心した顔はしない。というのも犬吉の返し業というのは、技術のいらない完全な力技であるからだった。確かに力が強いことはそれだけで強みだが、力の強さだけで勝っていけるかというと、この世界は甘くはない。
投げられた武士は、関節を極められるよりも早く、参ったと叫ぶ。歓声が上がる。
「あぁ、武士なのに情けないねぇ。関節を取られる前に参ったしちゃったよ」
「いや、あれでいい。あんなのに関節を取られたら、一瞬で骨は折れる」
だが、猿田は知っている。犬吉は関節を取ること、締めることはしないと。理由は単純に、そんな小細工は必要ないから、だそうだ。
犬吉と武士が中央からはける。と、犬吉は下男から賞金を受け取り、満足顔で蔵を出て行こうとする。と、そこに、
「相変わらずのバカ力だな」と猿田。
犬吉は猿田の顔を見ると、
「兄貴ぃ! 観に来てくれたんかい!」
「違うよ。そんなことより、仕事だ」
猿田がそういうと、犬吉はちょっと残念そうにしつつ、「何だぁ、仕事かぁ」という。
犬吉が蔵を出て行き、猿田も男に挨拶をして出て行こうとする。と、その時、
猿田は唐突に蔵の壁へと視線を向ける。
そこには沢山の人、人、人。それもみんな熱狂していて、誰が何を飛ばしているかもわからないような状況だった。
猿田は蔵の中に視線を残しつつも、そのまま蔵を後にする。
と、蔵の中の端っこにて不気味に笑う男がひとり。男は黒い袴に茶色の着物姿。武士だが総髪で、髪はすべてうしろで束ねている。
「どうしたんだい、アンちゃん?」近くにいた商人風の男が茶色の武士に訊く。
「あの野郎。おれのことに気づきやがった」
「あの野郎って?」
「入り口にいた紺色の着物着た野郎だよ」
「紺色の着物……? あぁ、もしかして猿田さんかな? あの人来てたんだね。じゃあ、多分、犬吉さんに用かな」
「猿田、っていうのか……」
「うん。猿田源之助さん。武士なのに変に威張らないし、堅苦しくもなくてとてもいい人だよ。おまけに剣も柔術もすごいんだ。柔術なんか琉球の変な業を使ってねぇ、強いんだよ」
「猿田源之助か。覚えておくぜ……」
茶色い着物の武士は不敵に笑った。
【続く】
川越にある永島邸という武家屋敷では定期的にそのような声が聴かれた。それも大抵は週の終わりの夜、一刻から一刻半の間。
とはいえ、それが聴こえるのは、邸内部からではなく、蔵の中からだった。
というのも、この時間になると町民から武士、果ては商人、穢多に非人と身分関係なく男が集まるようになるのだ。
蔵の中は幾分かの灯籠によって灯され、そこにあるモノの全体像が把握し切れる程度には明るくなる。そして、そんな中に、たくさんの男たちが集い、壁際に寄って歓声を上げている。
そんな男たちに囲まれるは、やはり男。それもふたり。ふたりの男は着物姿。片方は汚れ、片方は新品のようにキレイで、服装の規定は特にはないようだ。
ふたりの男は互いに見合っている。片方は構え、片方は肩を降ろしている。
そして、片方が一気に掴み掛かるとそのまま取っ組み合いになり、最後には片方が相手を投げて関節を極めてしまう。
関節を極められた男は蔵全体に響き渡るように「参ったッ!」と叫ぶ。
歓声と罵声、落胆の声がこだまする。
と、蔵の奥から遣い走りのような男が盆を竹ザル持って出て来て、その中に入った銭を一部の観衆に渡して行く。
そう、これは賭けだ。ふたりの男のどちらが勝つかを賭け、賭けに勝つとその配当が懐へ入ってくる仕組みとなっている。
ちなみに、その集まった銭によって、配当率は決まり、その余り分が勝者への賞金と主催者側の取り分となるワケだ。
これを『蔵柔術』という。
柔術といっても、現代における柔道とはまったく違って、当て身もある。即ち、これは徒手による殺し合いを目的としない戦いであるということだ。
その規定は限りなく自由で、禁止されていることといえば、「目を打たず、抉らず」ということ、「噛みつかず」ということ、「観衆への攻撃はせず」ということ、そして「相手を死に至らしめてはいけない」ことの四点である。
そもそもこの『蔵柔術』が催されるようになったのは、とある客人の飽きからだった。
そもそも永島邸では、かつてより中元部屋にて客人を集めての丁半博打を催していたのだが、ある時とある客人が、どうせ武家屋敷で役人は入って来れないのなら、もっと別のことをしてもいいのではないか、と提言した。
そこで、丁半に来ていた客人の意見を聴き、最初は闘鶏をやってみたのだが、仕入れる鶏の数と手負いになって動けなくなる鶏が殆ど同じになってしまい、定期開催が難しいとなった。
そこで、力自慢、ケンカ自慢を集めての規定無用の無差別『蔵柔術』が始まったワケだ。
最初は『蔵柔術』だけでなく、自前の武器を用いた『蔵剣術』も盛んだった。剣術といいつつ用いられるのは、本身の刀のような刃のあるモノではなく、木刀をはじめ棒や杖、分銅鎖、果ては琉球の武器など、その自由度は非常に高く、客人からは大変好評だった。
が、それも敷地の問題や客人への被害、果ては禁止されている仕込刃の得物を持ち出す者まで現れてしまったこともあって、いつしか『蔵剣術』はなくなってしまった。
歓声が上がる。先ほどのふたり組は去り、また新たにふたりの男が蔵の真ん中に立つ。ひとりは鍛えられた身体を持った武士で、もうひとりは太った大きな男。
そんな時、蔵の入り口が開く。が、それに注目する者はいない。ここは法の外。誰ひとりとして自分達がもぐりの博打打ちであることに危機感と恐怖を抱いていない。
開いた戸の向こうにいるのは、紺色の着物を着た男。そう、猿田源之助だった。
「やぁ、源之助さん。今日はやるのかい?」
入り口間際にいた年老いた農民らしき男が、両手を前に構えていう。本来なら農民が浪人とはいえ武士である猿田にそのような口は利いてはいけないのだが、ここはそれすらも許されるような場所だった。
ちなみに猿田は『蔵柔術』と『蔵剣術』、両方に出たことがあり、剣術では無敗、柔術でもそれなりの成績を修めていた。
「いや、今日は犬に用があって」
「あぁ、犬きっつぁんかぃ。それなら……」
男が指差した先は、真ん中に立つふたりの男の片割れ、体格のよい太った男だ。身長は五尺九寸にわずかに届かないくらい。髪は月代もなければ、まとめてすらいないで伸びきっている。そして何よりも特徴的なのは額に「犬」の字が書いてあることだろう。これはとある場所にて四度島送りになったことを示している。
「あぁ……」
「まぁ、ゆっくりしていきなよ」
「……そうだな」
歓声が一気に高まる。試合の始まりである。武士が手を大きく広げて気合いを入れる。犬吉は顔をバンバン叩き、武士よりも大きな声で気合いを入れて大きく構える。
「相手は真楊流か」猿田がいう。
「対して犬きっつぁんは我流か。これは見物だねぇ!」男は嬉しげにいう。
武士と犬吉は見合ったままだ。武士の顔に緊張が漂っている。それもそうだろう。いくら技術があっても、相手が大きければ、それだけ威圧感はあるし、恐ろしいモノだ。
武士が更なる気合いを入れて犬吉に掴み掛かる。腰が入る。そして、投げーー
だが、次の瞬間に地に背をつけていたのは武士のほうだった。
武士はまったくワケがわからないといった様子でキョロキョロしている。
「あの野郎、返しやがったな」と猿田。
「我流であの返し業が出来るのはすごいねぇ」
が、猿田は感心した顔はしない。というのも犬吉の返し業というのは、技術のいらない完全な力技であるからだった。確かに力が強いことはそれだけで強みだが、力の強さだけで勝っていけるかというと、この世界は甘くはない。
投げられた武士は、関節を極められるよりも早く、参ったと叫ぶ。歓声が上がる。
「あぁ、武士なのに情けないねぇ。関節を取られる前に参ったしちゃったよ」
「いや、あれでいい。あんなのに関節を取られたら、一瞬で骨は折れる」
だが、猿田は知っている。犬吉は関節を取ること、締めることはしないと。理由は単純に、そんな小細工は必要ないから、だそうだ。
犬吉と武士が中央からはける。と、犬吉は下男から賞金を受け取り、満足顔で蔵を出て行こうとする。と、そこに、
「相変わらずのバカ力だな」と猿田。
犬吉は猿田の顔を見ると、
「兄貴ぃ! 観に来てくれたんかい!」
「違うよ。そんなことより、仕事だ」
猿田がそういうと、犬吉はちょっと残念そうにしつつ、「何だぁ、仕事かぁ」という。
犬吉が蔵を出て行き、猿田も男に挨拶をして出て行こうとする。と、その時、
猿田は唐突に蔵の壁へと視線を向ける。
そこには沢山の人、人、人。それもみんな熱狂していて、誰が何を飛ばしているかもわからないような状況だった。
猿田は蔵の中に視線を残しつつも、そのまま蔵を後にする。
と、蔵の中の端っこにて不気味に笑う男がひとり。男は黒い袴に茶色の着物姿。武士だが総髪で、髪はすべてうしろで束ねている。
「どうしたんだい、アンちゃん?」近くにいた商人風の男が茶色の武士に訊く。
「あの野郎。おれのことに気づきやがった」
「あの野郎って?」
「入り口にいた紺色の着物着た野郎だよ」
「紺色の着物……? あぁ、もしかして猿田さんかな? あの人来てたんだね。じゃあ、多分、犬吉さんに用かな」
「猿田、っていうのか……」
「うん。猿田源之助さん。武士なのに変に威張らないし、堅苦しくもなくてとてもいい人だよ。おまけに剣も柔術もすごいんだ。柔術なんか琉球の変な業を使ってねぇ、強いんだよ」
「猿田源之助か。覚えておくぜ……」
茶色い着物の武士は不敵に笑った。
【続く】