【西陽の当たる地獄花~死拾漆~】
文字数 1,847文字
鉄を殴り付けるような轟音が渦巻いている。ただ、そこにいる「ふたり」にはもはや降りしきる雨など大した問題ではなかった。
雨は降り続ける。もはやそれだけで溺れてしまいそうなほどに。
滝のような雨が、すべての生命と死、血を洗い流さんとするように激しく降る。飛沫を上げながら牛馬と白装束ーー奥村新兵衛は近づいていく、近づいて行くーーより近くへ。
ふたりにことばはない。まるで、再び交わったことが宿命でありながらも、これが最後の交わりになることを互いに理解しているよう。
ふたりとも目付きは死んでいる。人を殺す時の虚無的な視線が交差している。
牛馬は鞘の鯉口を下に向ける。鞘に溜まった雨水が勢い良く流れ出す。まるで、身体に溜まった膿を、胃を犯す胃酸を、募る消極的な想いをすべて吐き出すように。
だが、そんなことは奥村にはどうでも良かったのか表情ひとつ変えることもない。ただ、そこにあるのは自分が生きるか死ぬかというふたつの秤の上に股がって佇んでいるという事実だけ。いつ崩れても可笑しくない現実。
濡れた袴で申しワケ程度に刀身を拭い、神殺を納刀する牛馬。もはや鞘の中に雨水は残っていなかった。内が湿り、木が腐り、鞘が割れる原因となる、そんなことはどうでも良いといったところだった。答えは、再びふたつの刀身が交わった後に明らかになる。
跳ね上がる飛沫が止まる。同時に互いの足取りも。草履と草履。その足先の距離は大体大股で踏み出して一歩強といったところ。即ち、刀を抜いて即勝負が決する距離。
まるで互いの心音が聴こえて来そうな、そんな緊張感。だが、そんな音は豪雨に掻き消されている。もはや、それすらふたりには聴こえていなかったであろうが。
無。無の時間が静かに流れる。緊迫しながらも何かが弛緩しているような、そんな時間が。
まだだ。
まだ、何も起こらない。
静寂はまるで生き物のように、ふたりの男の間にねっとりと絡み付く。
互いの手は動かない。左手が鞘に走ることもなければ、右手が柄に掛かることもない。視線が落ちることもない。
手元が霞む。
ほぼ同時の出来事。
ふたつの風が雨を駆ける。
次の瞬間、一方の刀はもう一方の首を捉える。神殺。奥村の首を捉えている。
牛馬の握りは逆手。順手に抜いていては筋肉の硬直が起きる。そうでなくとも雨で体が冷えている。ならば、可能な限り筋肉に負担を掛けない方法を取る必要がある。
牛馬はそうしただけだ。
刀を抜くと共に膝を抜き、落ちるようにして奥村に一気に近づき、逆手で抜いた刀ごと、奥村の首もとへと当たりに行く。
奥村を見上げる牛馬の目に一瞬の光が差す。奥村は虚無的に牛馬を見据えつつ口許を弛ませて、ふと笑って見せる。
次の瞬間、奥村の首から血飛沫が舞う。血はまるで落ちる雨に歯向かうように空高く舞う。血飛沫の間で牛馬の目が輝く。
崩れ落ちる奥村。だが泥に頬をつけても、奥村の目は何処か満足そうだった。
大きく息をつく牛馬。刀身についた血を振り払い、そのままゆっくりと納刀する。
「これで、満足か?」
気づけば牛馬の横には悩顕の姿がある。牛馬は悩顕に視線を向けることなく、
「……この男は死んだのか?」
「いっただろう。大地獄に落ちた者は死なない。ほぼ永久にその苦痛を受け続けるだけだ。何度も、何度も。奥村は再び自分の大地獄に戻った、それだけだ」
「しかし、これはおれの抱いた幻想じゃねぇってどうしていえる?」牛馬の表情は険しい。「これが本物の奥村で、おれが本物に勝ったって誰が請け負ってくれるんだ」
「そう深く考えるな。現に主の手は震えていないだろう」
悩顕のいう通り、牛馬の手は震えていなかった。それは、これが幻想ではないということを物語っている。
「幻想であろうと、真実であろうと、どちらも死ぬことはないし、それを明らかにすることも出来ない。勝った。ただ勝った。それだけでいいではないか。反省など、敗者がすべきこと」
「……でも死んでから反省しても後の祭りだ」
「では生き残った主は祭りに間に合ったということだ。ならそれで良かろう」
「……そうかもな」
雨は依然として弱まる気配を見せない。いくつもの命が消えた。いくつもの血が流れた。いくつもの屍が転がった。そして今そこに立っているのは、牛馬と悩顕のふたりだけ。
「……ジジイ」牛馬はいう。「もうひとつ、頼みがあるんだが……」
「何だ、申してみよ」
牛馬の口許が震える。それは寒さのせいか、緊張によるものかは誰にもわからなかった。
【続く】
雨は降り続ける。もはやそれだけで溺れてしまいそうなほどに。
滝のような雨が、すべての生命と死、血を洗い流さんとするように激しく降る。飛沫を上げながら牛馬と白装束ーー奥村新兵衛は近づいていく、近づいて行くーーより近くへ。
ふたりにことばはない。まるで、再び交わったことが宿命でありながらも、これが最後の交わりになることを互いに理解しているよう。
ふたりとも目付きは死んでいる。人を殺す時の虚無的な視線が交差している。
牛馬は鞘の鯉口を下に向ける。鞘に溜まった雨水が勢い良く流れ出す。まるで、身体に溜まった膿を、胃を犯す胃酸を、募る消極的な想いをすべて吐き出すように。
だが、そんなことは奥村にはどうでも良かったのか表情ひとつ変えることもない。ただ、そこにあるのは自分が生きるか死ぬかというふたつの秤の上に股がって佇んでいるという事実だけ。いつ崩れても可笑しくない現実。
濡れた袴で申しワケ程度に刀身を拭い、神殺を納刀する牛馬。もはや鞘の中に雨水は残っていなかった。内が湿り、木が腐り、鞘が割れる原因となる、そんなことはどうでも良いといったところだった。答えは、再びふたつの刀身が交わった後に明らかになる。
跳ね上がる飛沫が止まる。同時に互いの足取りも。草履と草履。その足先の距離は大体大股で踏み出して一歩強といったところ。即ち、刀を抜いて即勝負が決する距離。
まるで互いの心音が聴こえて来そうな、そんな緊張感。だが、そんな音は豪雨に掻き消されている。もはや、それすらふたりには聴こえていなかったであろうが。
無。無の時間が静かに流れる。緊迫しながらも何かが弛緩しているような、そんな時間が。
まだだ。
まだ、何も起こらない。
静寂はまるで生き物のように、ふたりの男の間にねっとりと絡み付く。
互いの手は動かない。左手が鞘に走ることもなければ、右手が柄に掛かることもない。視線が落ちることもない。
手元が霞む。
ほぼ同時の出来事。
ふたつの風が雨を駆ける。
次の瞬間、一方の刀はもう一方の首を捉える。神殺。奥村の首を捉えている。
牛馬の握りは逆手。順手に抜いていては筋肉の硬直が起きる。そうでなくとも雨で体が冷えている。ならば、可能な限り筋肉に負担を掛けない方法を取る必要がある。
牛馬はそうしただけだ。
刀を抜くと共に膝を抜き、落ちるようにして奥村に一気に近づき、逆手で抜いた刀ごと、奥村の首もとへと当たりに行く。
奥村を見上げる牛馬の目に一瞬の光が差す。奥村は虚無的に牛馬を見据えつつ口許を弛ませて、ふと笑って見せる。
次の瞬間、奥村の首から血飛沫が舞う。血はまるで落ちる雨に歯向かうように空高く舞う。血飛沫の間で牛馬の目が輝く。
崩れ落ちる奥村。だが泥に頬をつけても、奥村の目は何処か満足そうだった。
大きく息をつく牛馬。刀身についた血を振り払い、そのままゆっくりと納刀する。
「これで、満足か?」
気づけば牛馬の横には悩顕の姿がある。牛馬は悩顕に視線を向けることなく、
「……この男は死んだのか?」
「いっただろう。大地獄に落ちた者は死なない。ほぼ永久にその苦痛を受け続けるだけだ。何度も、何度も。奥村は再び自分の大地獄に戻った、それだけだ」
「しかし、これはおれの抱いた幻想じゃねぇってどうしていえる?」牛馬の表情は険しい。「これが本物の奥村で、おれが本物に勝ったって誰が請け負ってくれるんだ」
「そう深く考えるな。現に主の手は震えていないだろう」
悩顕のいう通り、牛馬の手は震えていなかった。それは、これが幻想ではないということを物語っている。
「幻想であろうと、真実であろうと、どちらも死ぬことはないし、それを明らかにすることも出来ない。勝った。ただ勝った。それだけでいいではないか。反省など、敗者がすべきこと」
「……でも死んでから反省しても後の祭りだ」
「では生き残った主は祭りに間に合ったということだ。ならそれで良かろう」
「……そうかもな」
雨は依然として弱まる気配を見せない。いくつもの命が消えた。いくつもの血が流れた。いくつもの屍が転がった。そして今そこに立っているのは、牛馬と悩顕のふたりだけ。
「……ジジイ」牛馬はいう。「もうひとつ、頼みがあるんだが……」
「何だ、申してみよ」
牛馬の口許が震える。それは寒さのせいか、緊張によるものかは誰にもわからなかった。
【続く】