【明日、白夜になる前に~四拾伍~】
文字数 2,265文字
金曜日の仕事終わり、ぼくは電車にも乗らずに駅前で、立ち尽くしていた。
こんなにも逃げ出したい気分は久しぶりだった。まぁ、いつも逃げ出したいといっているだろうとは思われるかもしれないけど、この時は特にそうだった。
ソワソワする。視線が定まらず、アチコチへ飛ぶ。視界が揺らいでいるような感覚。吐き気も止まらないし、緊張感はマックス。身体も凍りついたように動かない。
右へ左へ歩いて行く通行人の視線がやけに気になる。
仮にその場で死に掛けている人がいようと、自分の都合を優先させるような血も涙もない人たちであろうに、そんな通行人連中がこの世界におけるちっぽけな存在でしかないぼくなんかに興味があるワケがないのはわかっていた。
だが、ぼくが恐れていたのは、そんな無数の有象無象の中で光る強烈な眼光だった。
いうなれば、それは深海の中で光る巨大なサメが獲物に向ける眼光、というべきだろうか。何処で誰が見ているかわからない、ということだ。そうでなくとも、ここは会社の近く。誰が見ているかわからないのだ。
別に犯罪に手を染めようというワケではないし、特別うしろめたいことをしようとしているワケでもない。まるで水牢に閉じ込められた囚人にでもなった気分だ。360°、何処から監視されている気がしてならない。
「おまたせ」
その声と共にぼくはビクリと飛び上がりそうになる。ぼくは油の切れたマシーンのようにギコチナイ動きでうしろを振り向く。
懐かしい顔がそこにある。
里村鈴美。
スレンダーな身体にデニムパンツはよく似合う。長い脚がより長く見える。クールな風貌に細身のライダース・ジャケットが映える。
里村さんは片手を上げて会釈して来る。
「あ、久しぶり!」
よそよそしさ全開で、ぼくは答える。いくら一時はいい感じの仲になったとはいえ、会わない時間が長かったせいで、変に緊張する。そんなぼくを一蹴するように、里村さんは笑う。
「何、緊張してんの。わたしたち、そんな感じの関係じゃないでしょ」
いうことはごもっともなのだけど、でも巨大な氷山は未だ溶けず、だ。ぼくは五年間誰とも会話しなかった人が浮かべるような不気味で不自然な笑みを浮かべる。
「いやぁ、そうだけど、何か久しぶりで……」
「だとしても、でしょ? 元気にしてた?」
「うん……、まぁ……」
ダメだ。これじゃあ、完全に陰キャもいいところ。ダサさと冴えなさを全身に纏っているのも同じって感じだった。
「ちょっと緊張し過ぎじゃない? 確かに色々あったけどさ、別にわたし、アナタのこと嫌いになったワケじゃないんだからさ。そんなに縮込まらないでよ。何かこっちまで申し訳なくなってくる」
それもそうだ。とはいえ、水が煮立つのも、氷が溶けるのにも、ある程度の時間は必要だ。急がず、焦らずで行くべきだ。別に緊張することはないのだ。相手は彼氏持ち。好きだという気持ちがあろうと届きはしない。そんな気楽さがあるのだから、緊張する必要などないのだ。
「まぁ、久しぶりだからさ、何から話すか気になってるってだけだよ」
「ほんとぉ? なら別にいいんだけどさ。で、ここで立ち話っていうのも何だし、何処かでご飯食べようよ。お腹空いちゃった」
「あぁ、そうだね」ウッカリしてた。
里村さんはネズミが鳴くように笑う。
「ほら、女の子のことはちゃんとリードしなきゃ! 緊張なんかしてガチガチになってたら、チャンスはどんどん逃げて行っちゃうよ!」
里村さんにとっては笑いごとだが、ぼくには中々にヘヴィなひとことだった。
その通り、ぼくはそういう優柔不断なところで、ここまで色々なことを逃して来た。と、これ以上変に思い詰めると、またチャンスが逃げて行きそうなので、
「じゃあ、行こうか?」
「ちょっと待った」里村さんは手をかざしてストップを掛ける。「何処に行こうとか、具体的には何か決めてる?」
決めていない。ただ何となくブラリと適当な店に入れれば、と思っていた。そう伝えると、里村さんはいう。
「まぁ、わたしは別にそれでも大丈夫だけど、中にはそういう行き当たりバッタリな感じを嫌う人もいるから気をつけて。リサーチは……、当然してないよね?」
してない。するはずがない。ぼくのこの性格ではしているワケがなかった。
「まぁ、そうだよね。それと、そういう場合は相手の服装を良く見ること。相手がちゃんとオシャレをしてるのに、においが残るような場所は選ばないことね」
ぼくは思わずその理由を訊ねてしまった。と、里村さんはため息混じりに答える。
「あのねぇ……、オシャレをしてるってことは、アナタに良く見られたいと思ってるワケでしょ? それなら、においが残って変に気を遣わせるようなことはしないこと。デートは食事だけで終わりじゃないんだからね。それと、白を基調とする服装なら、汚れるリスクの少ないモノがいい。白のブラウスにカレーうどんの汁や焼肉のたれが掛かったら台無しでしょ?」
なるほど、と思わず感心してしまった。
「感心してる場合じゃないでしょ。まぁ、大丈夫って訊けば、相手も大丈夫っていうでしょうよ。でも、そこは気遣い。始めから選ばないのが正解。逆に気を遣わせる時点でアウト」
ぼくは思わず声を漏らす。
「本当にわかってる?……まぁ、いいや。百聞は一見にしかず。ここで話すよりも、実際にアナタのもてなしを見るほうが早いかもね。じゃ、行こ」と、里村さんはいう。
ぼくはまるで試練に挑戦せんとする勇者のような気分だった。先は暗いけど。
【続く】
こんなにも逃げ出したい気分は久しぶりだった。まぁ、いつも逃げ出したいといっているだろうとは思われるかもしれないけど、この時は特にそうだった。
ソワソワする。視線が定まらず、アチコチへ飛ぶ。視界が揺らいでいるような感覚。吐き気も止まらないし、緊張感はマックス。身体も凍りついたように動かない。
右へ左へ歩いて行く通行人の視線がやけに気になる。
仮にその場で死に掛けている人がいようと、自分の都合を優先させるような血も涙もない人たちであろうに、そんな通行人連中がこの世界におけるちっぽけな存在でしかないぼくなんかに興味があるワケがないのはわかっていた。
だが、ぼくが恐れていたのは、そんな無数の有象無象の中で光る強烈な眼光だった。
いうなれば、それは深海の中で光る巨大なサメが獲物に向ける眼光、というべきだろうか。何処で誰が見ているかわからない、ということだ。そうでなくとも、ここは会社の近く。誰が見ているかわからないのだ。
別に犯罪に手を染めようというワケではないし、特別うしろめたいことをしようとしているワケでもない。まるで水牢に閉じ込められた囚人にでもなった気分だ。360°、何処から監視されている気がしてならない。
「おまたせ」
その声と共にぼくはビクリと飛び上がりそうになる。ぼくは油の切れたマシーンのようにギコチナイ動きでうしろを振り向く。
懐かしい顔がそこにある。
里村鈴美。
スレンダーな身体にデニムパンツはよく似合う。長い脚がより長く見える。クールな風貌に細身のライダース・ジャケットが映える。
里村さんは片手を上げて会釈して来る。
「あ、久しぶり!」
よそよそしさ全開で、ぼくは答える。いくら一時はいい感じの仲になったとはいえ、会わない時間が長かったせいで、変に緊張する。そんなぼくを一蹴するように、里村さんは笑う。
「何、緊張してんの。わたしたち、そんな感じの関係じゃないでしょ」
いうことはごもっともなのだけど、でも巨大な氷山は未だ溶けず、だ。ぼくは五年間誰とも会話しなかった人が浮かべるような不気味で不自然な笑みを浮かべる。
「いやぁ、そうだけど、何か久しぶりで……」
「だとしても、でしょ? 元気にしてた?」
「うん……、まぁ……」
ダメだ。これじゃあ、完全に陰キャもいいところ。ダサさと冴えなさを全身に纏っているのも同じって感じだった。
「ちょっと緊張し過ぎじゃない? 確かに色々あったけどさ、別にわたし、アナタのこと嫌いになったワケじゃないんだからさ。そんなに縮込まらないでよ。何かこっちまで申し訳なくなってくる」
それもそうだ。とはいえ、水が煮立つのも、氷が溶けるのにも、ある程度の時間は必要だ。急がず、焦らずで行くべきだ。別に緊張することはないのだ。相手は彼氏持ち。好きだという気持ちがあろうと届きはしない。そんな気楽さがあるのだから、緊張する必要などないのだ。
「まぁ、久しぶりだからさ、何から話すか気になってるってだけだよ」
「ほんとぉ? なら別にいいんだけどさ。で、ここで立ち話っていうのも何だし、何処かでご飯食べようよ。お腹空いちゃった」
「あぁ、そうだね」ウッカリしてた。
里村さんはネズミが鳴くように笑う。
「ほら、女の子のことはちゃんとリードしなきゃ! 緊張なんかしてガチガチになってたら、チャンスはどんどん逃げて行っちゃうよ!」
里村さんにとっては笑いごとだが、ぼくには中々にヘヴィなひとことだった。
その通り、ぼくはそういう優柔不断なところで、ここまで色々なことを逃して来た。と、これ以上変に思い詰めると、またチャンスが逃げて行きそうなので、
「じゃあ、行こうか?」
「ちょっと待った」里村さんは手をかざしてストップを掛ける。「何処に行こうとか、具体的には何か決めてる?」
決めていない。ただ何となくブラリと適当な店に入れれば、と思っていた。そう伝えると、里村さんはいう。
「まぁ、わたしは別にそれでも大丈夫だけど、中にはそういう行き当たりバッタリな感じを嫌う人もいるから気をつけて。リサーチは……、当然してないよね?」
してない。するはずがない。ぼくのこの性格ではしているワケがなかった。
「まぁ、そうだよね。それと、そういう場合は相手の服装を良く見ること。相手がちゃんとオシャレをしてるのに、においが残るような場所は選ばないことね」
ぼくは思わずその理由を訊ねてしまった。と、里村さんはため息混じりに答える。
「あのねぇ……、オシャレをしてるってことは、アナタに良く見られたいと思ってるワケでしょ? それなら、においが残って変に気を遣わせるようなことはしないこと。デートは食事だけで終わりじゃないんだからね。それと、白を基調とする服装なら、汚れるリスクの少ないモノがいい。白のブラウスにカレーうどんの汁や焼肉のたれが掛かったら台無しでしょ?」
なるほど、と思わず感心してしまった。
「感心してる場合じゃないでしょ。まぁ、大丈夫って訊けば、相手も大丈夫っていうでしょうよ。でも、そこは気遣い。始めから選ばないのが正解。逆に気を遣わせる時点でアウト」
ぼくは思わず声を漏らす。
「本当にわかってる?……まぁ、いいや。百聞は一見にしかず。ここで話すよりも、実際にアナタのもてなしを見るほうが早いかもね。じゃ、行こ」と、里村さんはいう。
ぼくはまるで試練に挑戦せんとする勇者のような気分だった。先は暗いけど。
【続く】