【丑寅は静かに嗤う~女雉】
文字数 2,026文字
夜闇に燃え盛る炎がひとつ。
炎は大きく、ひとつの大きな屋敷を飲み込んでいる。柱は炭となりて崩れ、外壁や屋根は既に空洞と化してしまっている。
夜とは思えない程に明るい。塀のお陰で何とか周囲への移り火は防げているが、炎上する屋敷は小さな太陽のように燃え盛っている。
四本の脚がそこにある。二本は地味な袴に隠れ、二本は派手な着物に隠れている。ふたつの水晶体に燃え盛る屋敷が映る。潤い、赤く充血した目には巨大な炎がひとつーー
小さな炎が白い水晶体にひとつ映っている。
その炎は屋敷を飲み込んだような大きなモノではなく、せいぜい焚き火程度の小さなモノ。
「どうしました?」
不意に声を掛けられ、焚き火を見つめていたお雉はハッとする。声の主ーー桃川。お雉のすぐ傍に立ち、優しい目付きで彼女を見つめる。
村を出発した四人は、夜になって村から少し行った所の河原にて休むことに決め、今は焚き火の前にお雉と桃川だけがいるというワケだ。
「あぁ、桃川さんか……」
「驚かせてしまって、申し訳ない」
「別に、驚いてなんか……」頭を下げる桃川を慌てて宥めようとするお雉。「猿ちゃんと犬っころは? 一緒じゃなかったの?」
「犬蔵さんは縛られたまま寝てしまいました。色々ありましたし、疲れていんたんでしょう。猿田さんは犬蔵さんの傍で刀を抜いています」
「そう……」
お雉の目が悲しげに沈む。
「不安じゃないんですか?」桃川はお雉の横にしゃがみこむ。「猿田さんと犬蔵さんを一緒にしていて」
「別に不安なんかないよ。猿ちゃんだって、そう簡単に頭に血が昇る質じゃない。自分に必要なことを見極めて立ち回れる冷静さをちゃんと持っている」
「流石、付き合いが長いだけありますね」
「……腐れ縁みたいなモンだよ」
悲しげに揺れるお雉の表情に、それを横目で見る桃川。ふたりの距離は一間ほど。親しくないワケではないが、親しいともいい切れないような微妙な距離感。
「もう長いんですか、夜鷹を始めて」
「……変なこと訊くね」
「いやぁ、お気に障ったら申し訳ない。ただ、村での立ち回りを見て、ただの夜鷹だとはどうしても思えなくて。例の川越でのことはあるでしょうが、あの弓の捌きは一朝一夕のモノではないとわかる」
「……何がいいたいの?」
「もしかして、遠い昔に何処かで誰かに手解きをされたのではないか、と思いましてね」
お雉の横顔は炎に照らされ陰影が際立っている。目は静かに輝き光っている。そのまま何もいわずに遠い目で、お雉は何かを見つめーー
「……それを知って、どうするの?」
「どうもしませんよ。ただ、自分の記憶が抜け落ちてしまっているせいか、人の過去に興味がありましてね」
「そっか……。そうだよね。アンタ、記憶がないんだもんね……」お雉の水晶体に映った炎は依然として勢力を緩めない。「でも、あたしからしたら、記憶がないことは決して悪いことじゃないと思うんだ。人間、生きていればいいこともあるし、悪いこともある。だけど、死より苦しい過去があるならば、いっそのこと過去なんてなくなっちゃったほうがいいのかもしれない。確かに過去を乗り越えてこそ先行きが見えるのはわかる。だけど、どう頑張ったって、辛いモノは辛いんだよ。それなら、その人にとっての過去なんて足枷でしかないんだよ」
桃川の水晶体に映る静かな炎。
「……そうかもしれませんね。可笑しなことを訊いて申し訳ないです」
「いやぁ、いいんだよ、別に。だけど……」お雉は一拍の間を開け薄く笑い、「天涯孤独っていうのも辛いモンだよね。桃川さんは記憶がないからわからないかもしれないけど、どこかで同じ血の通った誰かが生きているといいね」
「……そうですね。今は一族のことも忘れてしまっていますが、やはり、自分と血を分けた親なり兄弟なりが生きていれば幸いです」
お雉の顔に朗らかな笑みが浮かぶ。
「……そうだね。そうだったら、いいね……」
「あの、過去のことを話した手前で恐縮なんですが、もしイヤでなければ、猿田さんとの出会いについて、教えて貰えませんか?」
「え?」呆気に取られるお雉。「……あぁ、いいよ。そんな大した話でもないからさ。あれは、八年くらい前になるかなーー」
お雉は静かに語り出す。それを眺めるふたつの眼。その目は、非情な狼が一時の感傷に耽っているような、そんな寂寥感に満ちている。木に右手を付き身体を支え、身体中に汗をへばりつかせながら、桃川とお雉を眺めている。
猿田源之助。猿田は鈍った身体を鍛え直すための鍛練と、剣術の自主稽古を終え、焚き火の元へ戻ろうとした折りに桃川とお雉が話しているところを目にし、そのままの場所からふたりの様子を眺めることにしたようだ。
猿田の身体には強張りも緊張もない。目許も緩み、微かに聴こえてくるお雉の昔話に聴き入っている。恐らくは、猿田もお雉と同じ記憶を頭の中で思い描いているのだろう。
そう、遠い過去に葬られたはずの、猿と雉の物語をーー
【続く】
炎は大きく、ひとつの大きな屋敷を飲み込んでいる。柱は炭となりて崩れ、外壁や屋根は既に空洞と化してしまっている。
夜とは思えない程に明るい。塀のお陰で何とか周囲への移り火は防げているが、炎上する屋敷は小さな太陽のように燃え盛っている。
四本の脚がそこにある。二本は地味な袴に隠れ、二本は派手な着物に隠れている。ふたつの水晶体に燃え盛る屋敷が映る。潤い、赤く充血した目には巨大な炎がひとつーー
小さな炎が白い水晶体にひとつ映っている。
その炎は屋敷を飲み込んだような大きなモノではなく、せいぜい焚き火程度の小さなモノ。
「どうしました?」
不意に声を掛けられ、焚き火を見つめていたお雉はハッとする。声の主ーー桃川。お雉のすぐ傍に立ち、優しい目付きで彼女を見つめる。
村を出発した四人は、夜になって村から少し行った所の河原にて休むことに決め、今は焚き火の前にお雉と桃川だけがいるというワケだ。
「あぁ、桃川さんか……」
「驚かせてしまって、申し訳ない」
「別に、驚いてなんか……」頭を下げる桃川を慌てて宥めようとするお雉。「猿ちゃんと犬っころは? 一緒じゃなかったの?」
「犬蔵さんは縛られたまま寝てしまいました。色々ありましたし、疲れていんたんでしょう。猿田さんは犬蔵さんの傍で刀を抜いています」
「そう……」
お雉の目が悲しげに沈む。
「不安じゃないんですか?」桃川はお雉の横にしゃがみこむ。「猿田さんと犬蔵さんを一緒にしていて」
「別に不安なんかないよ。猿ちゃんだって、そう簡単に頭に血が昇る質じゃない。自分に必要なことを見極めて立ち回れる冷静さをちゃんと持っている」
「流石、付き合いが長いだけありますね」
「……腐れ縁みたいなモンだよ」
悲しげに揺れるお雉の表情に、それを横目で見る桃川。ふたりの距離は一間ほど。親しくないワケではないが、親しいともいい切れないような微妙な距離感。
「もう長いんですか、夜鷹を始めて」
「……変なこと訊くね」
「いやぁ、お気に障ったら申し訳ない。ただ、村での立ち回りを見て、ただの夜鷹だとはどうしても思えなくて。例の川越でのことはあるでしょうが、あの弓の捌きは一朝一夕のモノではないとわかる」
「……何がいいたいの?」
「もしかして、遠い昔に何処かで誰かに手解きをされたのではないか、と思いましてね」
お雉の横顔は炎に照らされ陰影が際立っている。目は静かに輝き光っている。そのまま何もいわずに遠い目で、お雉は何かを見つめーー
「……それを知って、どうするの?」
「どうもしませんよ。ただ、自分の記憶が抜け落ちてしまっているせいか、人の過去に興味がありましてね」
「そっか……。そうだよね。アンタ、記憶がないんだもんね……」お雉の水晶体に映った炎は依然として勢力を緩めない。「でも、あたしからしたら、記憶がないことは決して悪いことじゃないと思うんだ。人間、生きていればいいこともあるし、悪いこともある。だけど、死より苦しい過去があるならば、いっそのこと過去なんてなくなっちゃったほうがいいのかもしれない。確かに過去を乗り越えてこそ先行きが見えるのはわかる。だけど、どう頑張ったって、辛いモノは辛いんだよ。それなら、その人にとっての過去なんて足枷でしかないんだよ」
桃川の水晶体に映る静かな炎。
「……そうかもしれませんね。可笑しなことを訊いて申し訳ないです」
「いやぁ、いいんだよ、別に。だけど……」お雉は一拍の間を開け薄く笑い、「天涯孤独っていうのも辛いモンだよね。桃川さんは記憶がないからわからないかもしれないけど、どこかで同じ血の通った誰かが生きているといいね」
「……そうですね。今は一族のことも忘れてしまっていますが、やはり、自分と血を分けた親なり兄弟なりが生きていれば幸いです」
お雉の顔に朗らかな笑みが浮かぶ。
「……そうだね。そうだったら、いいね……」
「あの、過去のことを話した手前で恐縮なんですが、もしイヤでなければ、猿田さんとの出会いについて、教えて貰えませんか?」
「え?」呆気に取られるお雉。「……あぁ、いいよ。そんな大した話でもないからさ。あれは、八年くらい前になるかなーー」
お雉は静かに語り出す。それを眺めるふたつの眼。その目は、非情な狼が一時の感傷に耽っているような、そんな寂寥感に満ちている。木に右手を付き身体を支え、身体中に汗をへばりつかせながら、桃川とお雉を眺めている。
猿田源之助。猿田は鈍った身体を鍛え直すための鍛練と、剣術の自主稽古を終え、焚き火の元へ戻ろうとした折りに桃川とお雉が話しているところを目にし、そのままの場所からふたりの様子を眺めることにしたようだ。
猿田の身体には強張りも緊張もない。目許も緩み、微かに聴こえてくるお雉の昔話に聴き入っている。恐らくは、猿田もお雉と同じ記憶を頭の中で思い描いているのだろう。
そう、遠い過去に葬られたはずの、猿と雉の物語をーー
【続く】