【藪医者放浪記~玖~】
文字数 2,955文字
ニヤニヤとした愛想笑いに、こめかみから流れる汗というのは不釣り合いだった。
メチャクチャな雰囲気。怒号を上げる中年の侍に、額に「犬」と書かれた大男、一見して地味な女中に無愛想な姫君、そしてまったくといっていいほど威厳のない殿様。
茂作はあからさまに困惑していたが、誰もそんなことには気がつく様子は見せない。
というより、茂作は萎縮していた。それもそうだろう。下手なことをすれば打ち首。そんなことを厳つい侍にいわれて震え上がらない町人などそういない。現に茂作の手は震えが止まらず、何も考えられないような状態になっている。そんな茂作の様子に気づいた天馬は、
「あぁ、先生。あの者のことばはお気になさらずに。あの者がいったようなことは、わたしが決してさせませぬので御安心を」
そうはいうが、一見して松平天馬という男には威厳というモノがまったくなく、とてもじゃないがその約束に確実性は見出だせない。
「大丈夫です! わたしが保証しますので!」
その保証がまったく宛にならないことを天馬はまったく気づいていないのである。そんなモンだから茂作の震えは依然として止まることはない。そこで天馬は茂作に身を寄せてふたりだけのヒミツの話をするように呟く。
「もちろん、治療して頂いた暁には、お礼のほうはたんまりとさせて頂きます」
お礼。そのことばに茂作の震えも止まり、ハッとして天馬のほうを向く。
「お礼、と申しますと……?」
「それはもう。切り餅はもちろん、お食事何かもたんまりと」
天馬のことばに茂作の顔は品性の欠片も感じられないほどにニンマリとする。
切り餅というと、ただ聞いただけではただの餅のように思えるかもしれないが、これは所謂隠語で、実際のところでいうと、小判二十五両を意味している。即ち小判の束を「切り餅」に見立てているワケである。
「おほほぉ……、切り餅にお食事ですかぁ」下品に笑う茂作。「よろしいでしょう。そういうことならお引き受け致しましょう!」
何処までも現金な男である。
ちなみにこの時、茂作の頭の中では次のようなことが呟かれていた。
『病気なんて所詮、表に出るモンじゃねぇんだ。ちょっとでも良くなればおれのお陰。悪くなったとしても既にダメだったとでもいっておけば何とかなる。ダメならダメで心の臓の発作とでもいっておけばわからないだろう』
ほんと人間の下劣なところをすべて掻き集めたような考え方ではあったが、その考え方もこの後すぐに改められることとなる。そんなことも知らずに茂作は偉そうに咳払いをして、
「おっほん。それで、わたしにどうして欲しいとおっしゃるのでございましょう?」
慣れない尊敬語をギコチナク口走りながら威風堂々、胸を張って訊ねる。その茂作の態度に天馬も大喜び。
「本当ですか! それでは、これ」
天馬がいうと、お羊がおさきの君を伴うようにして茂作の更に前へと踏み出させる。無愛想なおさきの君。困った顔のお羊。茂作は診察後の報酬しか見えていないといわんばかりの下衆な表情を浮かべている。
だが、誰も症状を話そうとはしない。患者として大本命のおさきの君すら、何もいおうとはせず、お羊も神妙な面持ちで項垂れている。
「……あの、どうされました?」
どんよりとした雰囲気に茂作も呆気に取られる。と、突然にお羊は泣き出す。
「……え、どう、されました?」
お羊の泣き声が悲痛な雰囲気をあと押しする。おさきの君は尚もブスッとしている。
『何なんだ、コイツらは……。もしかして病ってのは、このお羊って女中が、なのか? いや、だとしたらこの姫君をここに連れて来た理由は何だ? そもそも、女中ひとりのために旗本がここまでするモンだろうか……?』
茂作は頭の中で何度も自問自答する。だが、その答えは彼の頭にはない。そういうこともあって、茂作はエサを求める鯉のように口をパクパクさせながら誰かのことばを待つしかない。
「……実はッ!」
突然に口を開いたのは当主である天馬だった。そのことばは硬く上ずり、緊張感に満ちている。茂作も思わず飛び上がるように身体を上下させて、「はいッ!」と答える。が、天馬はすぐには答えない。余程、深刻な病なのだろうか。少しの沈黙の後、天馬は口を開く。
「実はッ! 我が娘、おさきの君がしゃべれなくなってしまったのです!」
風が吹く。土埃が舞う。茂作の眉間が天に昇るほどに高く跳ね上がる。
「……はい?」困惑する茂作。
「ですから、おさきの君がしゃべれなくなってしまったのです!」
茂作は納得し考えを巡らすように見せ掛けて三人から視線を外す。
『それじゃ、誤魔化せねぇじゃねぇか……』
そもそも誤魔化して報酬だけを貰おうという魂胆自体がどうなのだという話なのだが。しかし、しゃべれなくなったといわれると、それ即ち、しゃべれるようにしてくれということになる。つまり、おさきの君がしゃべれるようにならなければ、治療が終わることはない。
「え、あ、あの、えっと……」
何とか断るいい口実はないだろうか。だが、既に治療を快諾してしまっている手前、茂作も後には引けない。加えてそんなことをすれば、いくらボンクラそうな松平天馬でも、
『何、出来ないだと!? 打ち首じゃッ!』
と激昂し、茂作の打ち首を命じかねない。そうなると再び震えが茂作の身体に走り出す。何とか、何とか誤魔化さなければ。そう茂作の顔には書いてある。と、そこで茂作は何かを閃いたようで、顔をパッと明るくする。
「あ、いやぁ、申しワケない。出来ませんわ」
「出来ない、というと?」と天馬。
茂作のことばでお羊はハッとし、更に泣く。と、襖の向こうからは、
「貴様ッ! 今何と申したッ! 打ち首ッ!」
と守山の声が聞こえる。これには思わず茂作も身体を引く。唇をわなわなさせながら。と、鈍い音がし、何かが崩れ落ちる音がする。かと思いきや襖が開き、
「いやぁ、困ったモンだわ」
と額に「犬」の字が彫られた大男が入ってくる。襖の隙間からは倒れた守山の姿。と、一瞬は犬の字に気を取られた天馬だったが、すぐに茂作のほうへと向き直ると、
「出来ない、とおっしゃいますと?」
茂作は答える。
「いやぁ、こればかりはわたしひとりではどうにもなりませんで。何しろ道具を置いてきてしまいましたからな。そこで、何ですが……」茂作は上目遣いで覗き込むように姿勢を前のめりにする。「わたしの妻であり助手である『お涼』を連れて来ては下さらぬか?」
「奥方様を、ですか?」
そう訊ねる天馬に、茂作は頷く。
「それならおれわかるわ」犬の字。
「お、そうか! じゃあ、犬吉、お前ひとっ走り行って来てくれないか?」
「お安いご用よ!」
犬の字改め、犬吉が走って行こうとする。と、お羊が犬吉を呼び止める。
「犬吉さんッ!」足を止めて振り返った犬吉に、お羊は続ける。「源之助様は進藤さまのところへいます。きっとここら辺でお食事をなさっているのでしょう。是非お声かけしてみて下さいッ!」
「なぁんだ。兄貴、またあの同心と一緒なのかよ。しょうがねぇなぁ。あいよー」
そういって犬吉はいそいそと姿を消す。
茂作は何とか笑みを浮かべていたが、身体は再びブルブルと震え始めていた。
【続く】
メチャクチャな雰囲気。怒号を上げる中年の侍に、額に「犬」と書かれた大男、一見して地味な女中に無愛想な姫君、そしてまったくといっていいほど威厳のない殿様。
茂作はあからさまに困惑していたが、誰もそんなことには気がつく様子は見せない。
というより、茂作は萎縮していた。それもそうだろう。下手なことをすれば打ち首。そんなことを厳つい侍にいわれて震え上がらない町人などそういない。現に茂作の手は震えが止まらず、何も考えられないような状態になっている。そんな茂作の様子に気づいた天馬は、
「あぁ、先生。あの者のことばはお気になさらずに。あの者がいったようなことは、わたしが決してさせませぬので御安心を」
そうはいうが、一見して松平天馬という男には威厳というモノがまったくなく、とてもじゃないがその約束に確実性は見出だせない。
「大丈夫です! わたしが保証しますので!」
その保証がまったく宛にならないことを天馬はまったく気づいていないのである。そんなモンだから茂作の震えは依然として止まることはない。そこで天馬は茂作に身を寄せてふたりだけのヒミツの話をするように呟く。
「もちろん、治療して頂いた暁には、お礼のほうはたんまりとさせて頂きます」
お礼。そのことばに茂作の震えも止まり、ハッとして天馬のほうを向く。
「お礼、と申しますと……?」
「それはもう。切り餅はもちろん、お食事何かもたんまりと」
天馬のことばに茂作の顔は品性の欠片も感じられないほどにニンマリとする。
切り餅というと、ただ聞いただけではただの餅のように思えるかもしれないが、これは所謂隠語で、実際のところでいうと、小判二十五両を意味している。即ち小判の束を「切り餅」に見立てているワケである。
「おほほぉ……、切り餅にお食事ですかぁ」下品に笑う茂作。「よろしいでしょう。そういうことならお引き受け致しましょう!」
何処までも現金な男である。
ちなみにこの時、茂作の頭の中では次のようなことが呟かれていた。
『病気なんて所詮、表に出るモンじゃねぇんだ。ちょっとでも良くなればおれのお陰。悪くなったとしても既にダメだったとでもいっておけば何とかなる。ダメならダメで心の臓の発作とでもいっておけばわからないだろう』
ほんと人間の下劣なところをすべて掻き集めたような考え方ではあったが、その考え方もこの後すぐに改められることとなる。そんなことも知らずに茂作は偉そうに咳払いをして、
「おっほん。それで、わたしにどうして欲しいとおっしゃるのでございましょう?」
慣れない尊敬語をギコチナク口走りながら威風堂々、胸を張って訊ねる。その茂作の態度に天馬も大喜び。
「本当ですか! それでは、これ」
天馬がいうと、お羊がおさきの君を伴うようにして茂作の更に前へと踏み出させる。無愛想なおさきの君。困った顔のお羊。茂作は診察後の報酬しか見えていないといわんばかりの下衆な表情を浮かべている。
だが、誰も症状を話そうとはしない。患者として大本命のおさきの君すら、何もいおうとはせず、お羊も神妙な面持ちで項垂れている。
「……あの、どうされました?」
どんよりとした雰囲気に茂作も呆気に取られる。と、突然にお羊は泣き出す。
「……え、どう、されました?」
お羊の泣き声が悲痛な雰囲気をあと押しする。おさきの君は尚もブスッとしている。
『何なんだ、コイツらは……。もしかして病ってのは、このお羊って女中が、なのか? いや、だとしたらこの姫君をここに連れて来た理由は何だ? そもそも、女中ひとりのために旗本がここまでするモンだろうか……?』
茂作は頭の中で何度も自問自答する。だが、その答えは彼の頭にはない。そういうこともあって、茂作はエサを求める鯉のように口をパクパクさせながら誰かのことばを待つしかない。
「……実はッ!」
突然に口を開いたのは当主である天馬だった。そのことばは硬く上ずり、緊張感に満ちている。茂作も思わず飛び上がるように身体を上下させて、「はいッ!」と答える。が、天馬はすぐには答えない。余程、深刻な病なのだろうか。少しの沈黙の後、天馬は口を開く。
「実はッ! 我が娘、おさきの君がしゃべれなくなってしまったのです!」
風が吹く。土埃が舞う。茂作の眉間が天に昇るほどに高く跳ね上がる。
「……はい?」困惑する茂作。
「ですから、おさきの君がしゃべれなくなってしまったのです!」
茂作は納得し考えを巡らすように見せ掛けて三人から視線を外す。
『それじゃ、誤魔化せねぇじゃねぇか……』
そもそも誤魔化して報酬だけを貰おうという魂胆自体がどうなのだという話なのだが。しかし、しゃべれなくなったといわれると、それ即ち、しゃべれるようにしてくれということになる。つまり、おさきの君がしゃべれるようにならなければ、治療が終わることはない。
「え、あ、あの、えっと……」
何とか断るいい口実はないだろうか。だが、既に治療を快諾してしまっている手前、茂作も後には引けない。加えてそんなことをすれば、いくらボンクラそうな松平天馬でも、
『何、出来ないだと!? 打ち首じゃッ!』
と激昂し、茂作の打ち首を命じかねない。そうなると再び震えが茂作の身体に走り出す。何とか、何とか誤魔化さなければ。そう茂作の顔には書いてある。と、そこで茂作は何かを閃いたようで、顔をパッと明るくする。
「あ、いやぁ、申しワケない。出来ませんわ」
「出来ない、というと?」と天馬。
茂作のことばでお羊はハッとし、更に泣く。と、襖の向こうからは、
「貴様ッ! 今何と申したッ! 打ち首ッ!」
と守山の声が聞こえる。これには思わず茂作も身体を引く。唇をわなわなさせながら。と、鈍い音がし、何かが崩れ落ちる音がする。かと思いきや襖が開き、
「いやぁ、困ったモンだわ」
と額に「犬」の字が彫られた大男が入ってくる。襖の隙間からは倒れた守山の姿。と、一瞬は犬の字に気を取られた天馬だったが、すぐに茂作のほうへと向き直ると、
「出来ない、とおっしゃいますと?」
茂作は答える。
「いやぁ、こればかりはわたしひとりではどうにもなりませんで。何しろ道具を置いてきてしまいましたからな。そこで、何ですが……」茂作は上目遣いで覗き込むように姿勢を前のめりにする。「わたしの妻であり助手である『お涼』を連れて来ては下さらぬか?」
「奥方様を、ですか?」
そう訊ねる天馬に、茂作は頷く。
「それならおれわかるわ」犬の字。
「お、そうか! じゃあ、犬吉、お前ひとっ走り行って来てくれないか?」
「お安いご用よ!」
犬の字改め、犬吉が走って行こうとする。と、お羊が犬吉を呼び止める。
「犬吉さんッ!」足を止めて振り返った犬吉に、お羊は続ける。「源之助様は進藤さまのところへいます。きっとここら辺でお食事をなさっているのでしょう。是非お声かけしてみて下さいッ!」
「なぁんだ。兄貴、またあの同心と一緒なのかよ。しょうがねぇなぁ。あいよー」
そういって犬吉はいそいそと姿を消す。
茂作は何とか笑みを浮かべていたが、身体は再びブルブルと震え始めていた。
【続く】