【藪医者放浪記~漆~】
文字数 2,948文字
昼時の蕎麦屋はとても賑やかだ。
店内には蕎麦つゆの甘く優しい香りが漂っており、町民は目の前に置かれた蕎麦の味を楽しみながら、幸せなひと時を過ごしている。
「やや、源之助さん。誘ってくれてありがとう。ほんとありがたいよ」
やや白髪混じりの黒い羽織を羽織った着流しの男がいう。黒い羽織、そう同心の羽織である。男の目の前には蕎麦をすする猿田源之助の姿がある。猿田はすすった蕎麦を見せることなく、鼻歌を歌うように「いえいえ」という。
「しかし、源之助さんぐらいだよ。番屋に来て同心をメシに誘うのは」
猿田はすすった蕎麦を一気に飲み込む。と、あまりにいっぺんに飲み込んだせいか苦しくなってしまったようで、猿田は目をギュッと閉じて胸を何度も強く叩く。
「あぁあぁ、大丈夫?」
同心が心配そうに声を掛ける。と、猿田は二、三度更に強く胸を叩くと幾分楽になったのか、荒く息を吐きながら呼吸を整える。
「いっぺんに食べると毒だよ」
「いやぁ、これはかたじけない。腹が減ってしまってつい意地汚いことをしてしまって」
「朝メシ食べてないの?」
「いえ、食ったけど腹が減ってしまって」
「はぁー、やっぱ若いんだねぇ」
「いえ、全然ですよ。いい年して全然落ち着くことはないし、進藤さんのように立派でもない。ほんと頭が上がりませんよ」猿田がいう。
その同心の名は進藤信一郎といった。
進藤は、元々は江戸では非常に優秀な同心だったが、ノンビリして争いを好まず、立身出世にも興味はないといった性格で、当たり前のように出世競争から外れると、今度は上の命で川越にて応援に行くようにいいつけられた。
この応援は名ばかりで遠回しに『出世は諦めろ』と宣告されているようなモノだったが、進藤にとってこの『左遷』はむしろゴミゴミした江戸の街から、落ち着きのある川越の街へ移れて喜ばしいことだった。
今では進藤もノンビリした街で、ノンビリと仕事をし、ノンビリと人生を楽しんでいた。
だが、この男、ただのノンビリ者ではない。というのは、進藤は神道無念流の免許皆伝で、柔術は関口流、その他にも捕縛術、杖、十手など、様々な武器の扱いに長けていた。といっても、その技術をまともに見たことがある者は殆どおらず、ウワサ程度に留まっていたが。
ちなみに猿田とは、ちょっとした縁で仲良くなり、互いによく盃を交わしたり、メシを一緒にしたりするような関係だった。
「いや、わたしなんか全然大したモンじゃないよ。源之助さんこそ、松平様にお仕えになって大層なモノじゃないか」
「いえいえ、たまたま運が良かっただけです」
「そうかねぇ」進藤は蕎麦をすすり、飲み込むとこう続ける。「で、今日はわたしに訊きたいことがあって誘ったのだろう?」
そう訊ねた一瞬、進藤の目が鋭く光る。と、猿田は頭をボリボリ掻きタジタジになる。
「いやぁ、進藤さんには隠しごとは出来ませんね。ほんと恐縮です」
「いや、それはいいんだが……」進藤の目が獲物を狙う狩人のようになる。「また例のお仕事かい……?」
そのことばで猿田は引き吊った笑みを浮かべ、お茶を濁すように曖昧な返事をする。
例のお仕事。これはいうまでもなく『天誅屋』の裏稼業のことをいっている。そう、進藤は猿田が『天誅屋』の一員であることを知っている。そうと知っていながらも見逃しているのは、進藤の穏やかな人格の中で密かにたぎっている善のこころ故だった。
というのも、進藤は仕事が出来るが、その中で数々の不正や身分による煮え湯を飲まされて来た。その泥にまみれた経験こそが進藤から出世欲を削ぎ、あらゆるモノに対して寛容な態度を取るようにさせた。
だが、その実、精神の中では今でも熱い善なるこころが宿っており、その不正や悪を正したいと思っていた。だからこそ、不正の先にある悪を討つ『天誅屋』という稼業に肩入れしているのだった。
「わかってると思うけど、その力を私利私欲のために使おうというなら……」
「いやだなぁ。そんなことして進藤さんと対立して、おれが勝てるワケないじゃないですか。間違ってもしませんよ。それに、これは仕事とはまた違った話なんです」
「というと?」
「進藤さん、川越街道の『銀次一家』について何か知りませんか?」
「銀次、か。アレにはあまり近づかないほうがいいかもしれないよ」
「そんなにヤバイ相手なんですか?」
「いや。銀次や手下自体は大したモンじゃない。全員荒くれ者で、人に迷惑ばかり掛けるヤクザ者だが、銀次自身は秩父流を中途半端に学んだ程度の腕。手下に至っては剣術の『け』の字も知らないような状態だ。源之助さんならひとり無傷で全員を斬れるだろう。問題はーー」
「地獄花の牛馬……」
「知っていたのか。牛野馬乃助。ちょっと前に川越に現れた銀次の用心棒で、そのふたつ名は『地獄花の牛馬』、またの名を『紫陽花の馬乃助』ともいう。無外流の使い手で、その腕前は百鬼を地獄に送るほどだといわれている」
「へぇ……、百鬼を地獄に送る、か……。なら、『丑寅』ってアダ名されたおれも地獄に行くことになっちまうかな……?」
震える猿田、その様は恐怖に揺れながらも何処か好奇心がそうさせているようにも見える。
「一対一なら五分五分、といったところか。多勢に無勢の中ならば、まず源之助さんの負けとなるだろう」
「随分ハッキリといいますね……」
「相手が悪すぎる。あの男は房州だけでなく上州、下総、上総、江戸と様々な場所でたくさんの強者たちを殺している。賞金目当ての浪人は百近く骸となり、同心や剣の達人も同様に地の底へと堕ちて行った。源之助さんならヤツと互角に勝負出来るかもしれない。だが、悪いことはいわないから止めておいたほうがいい」
「……そうですか。なら尚更」
「何故、そんなに死に急ぐ?」
「もう生きちゃいないから、ですかね。正直、おれは親父の仇を討った時、天馬様を襲撃した時に死んでいても可笑しくなかった。たまたま生き延びた人生。未練などないのです」
「そんなことをいって、アナタは今ここで確かに生きているじゃないか」進藤のことばに猿田は黙る。「アナタは死にたがりではない。むしろ、死とは常に対極でいたいと思っている。アナタはどんな事情があろうと、自らの手で死を選ぶことは出来ないとわたしは思うがね」
進藤は蕎麦をすする。つゆが飛ぶ。店内で客人たちが談笑する声が響く。
「……未練はありません。ですが、おっしゃる通り死ぬのは怖いです。受ける苦痛も、その後がどうなるかもわからないなんて怖くて仕方がないというのが本音です。多分、おれは自分の腹を斬れる性分じゃないでしょう」
「なら尚更だ。……これはわたし個人の世迷いごとだが、この年になると友人も少なくなってね。源之助さんのように気軽に酒を飲める相手も少なくなってくる。わたしも数少ない友人は失いたくないのだよ」
友人というひとことで猿田は揺れる。猿田はふとニヤリと笑っていう。
「……なら、生き延びるしかないですね」
「そういうことだ。これ以上アナタを止める権利はない。だが、ひとついっておきたいのは、わたしをアナタの墓の前で泣き崩れさせないでくれ、ということだけだ」
猿田は緊張した笑みを浮かべながら頷いた。
「そうならないことを祈りますよ」
【続く】
店内には蕎麦つゆの甘く優しい香りが漂っており、町民は目の前に置かれた蕎麦の味を楽しみながら、幸せなひと時を過ごしている。
「やや、源之助さん。誘ってくれてありがとう。ほんとありがたいよ」
やや白髪混じりの黒い羽織を羽織った着流しの男がいう。黒い羽織、そう同心の羽織である。男の目の前には蕎麦をすする猿田源之助の姿がある。猿田はすすった蕎麦を見せることなく、鼻歌を歌うように「いえいえ」という。
「しかし、源之助さんぐらいだよ。番屋に来て同心をメシに誘うのは」
猿田はすすった蕎麦を一気に飲み込む。と、あまりにいっぺんに飲み込んだせいか苦しくなってしまったようで、猿田は目をギュッと閉じて胸を何度も強く叩く。
「あぁあぁ、大丈夫?」
同心が心配そうに声を掛ける。と、猿田は二、三度更に強く胸を叩くと幾分楽になったのか、荒く息を吐きながら呼吸を整える。
「いっぺんに食べると毒だよ」
「いやぁ、これはかたじけない。腹が減ってしまってつい意地汚いことをしてしまって」
「朝メシ食べてないの?」
「いえ、食ったけど腹が減ってしまって」
「はぁー、やっぱ若いんだねぇ」
「いえ、全然ですよ。いい年して全然落ち着くことはないし、進藤さんのように立派でもない。ほんと頭が上がりませんよ」猿田がいう。
その同心の名は進藤信一郎といった。
進藤は、元々は江戸では非常に優秀な同心だったが、ノンビリして争いを好まず、立身出世にも興味はないといった性格で、当たり前のように出世競争から外れると、今度は上の命で川越にて応援に行くようにいいつけられた。
この応援は名ばかりで遠回しに『出世は諦めろ』と宣告されているようなモノだったが、進藤にとってこの『左遷』はむしろゴミゴミした江戸の街から、落ち着きのある川越の街へ移れて喜ばしいことだった。
今では進藤もノンビリした街で、ノンビリと仕事をし、ノンビリと人生を楽しんでいた。
だが、この男、ただのノンビリ者ではない。というのは、進藤は神道無念流の免許皆伝で、柔術は関口流、その他にも捕縛術、杖、十手など、様々な武器の扱いに長けていた。といっても、その技術をまともに見たことがある者は殆どおらず、ウワサ程度に留まっていたが。
ちなみに猿田とは、ちょっとした縁で仲良くなり、互いによく盃を交わしたり、メシを一緒にしたりするような関係だった。
「いや、わたしなんか全然大したモンじゃないよ。源之助さんこそ、松平様にお仕えになって大層なモノじゃないか」
「いえいえ、たまたま運が良かっただけです」
「そうかねぇ」進藤は蕎麦をすすり、飲み込むとこう続ける。「で、今日はわたしに訊きたいことがあって誘ったのだろう?」
そう訊ねた一瞬、進藤の目が鋭く光る。と、猿田は頭をボリボリ掻きタジタジになる。
「いやぁ、進藤さんには隠しごとは出来ませんね。ほんと恐縮です」
「いや、それはいいんだが……」進藤の目が獲物を狙う狩人のようになる。「また例のお仕事かい……?」
そのことばで猿田は引き吊った笑みを浮かべ、お茶を濁すように曖昧な返事をする。
例のお仕事。これはいうまでもなく『天誅屋』の裏稼業のことをいっている。そう、進藤は猿田が『天誅屋』の一員であることを知っている。そうと知っていながらも見逃しているのは、進藤の穏やかな人格の中で密かにたぎっている善のこころ故だった。
というのも、進藤は仕事が出来るが、その中で数々の不正や身分による煮え湯を飲まされて来た。その泥にまみれた経験こそが進藤から出世欲を削ぎ、あらゆるモノに対して寛容な態度を取るようにさせた。
だが、その実、精神の中では今でも熱い善なるこころが宿っており、その不正や悪を正したいと思っていた。だからこそ、不正の先にある悪を討つ『天誅屋』という稼業に肩入れしているのだった。
「わかってると思うけど、その力を私利私欲のために使おうというなら……」
「いやだなぁ。そんなことして進藤さんと対立して、おれが勝てるワケないじゃないですか。間違ってもしませんよ。それに、これは仕事とはまた違った話なんです」
「というと?」
「進藤さん、川越街道の『銀次一家』について何か知りませんか?」
「銀次、か。アレにはあまり近づかないほうがいいかもしれないよ」
「そんなにヤバイ相手なんですか?」
「いや。銀次や手下自体は大したモンじゃない。全員荒くれ者で、人に迷惑ばかり掛けるヤクザ者だが、銀次自身は秩父流を中途半端に学んだ程度の腕。手下に至っては剣術の『け』の字も知らないような状態だ。源之助さんならひとり無傷で全員を斬れるだろう。問題はーー」
「地獄花の牛馬……」
「知っていたのか。牛野馬乃助。ちょっと前に川越に現れた銀次の用心棒で、そのふたつ名は『地獄花の牛馬』、またの名を『紫陽花の馬乃助』ともいう。無外流の使い手で、その腕前は百鬼を地獄に送るほどだといわれている」
「へぇ……、百鬼を地獄に送る、か……。なら、『丑寅』ってアダ名されたおれも地獄に行くことになっちまうかな……?」
震える猿田、その様は恐怖に揺れながらも何処か好奇心がそうさせているようにも見える。
「一対一なら五分五分、といったところか。多勢に無勢の中ならば、まず源之助さんの負けとなるだろう」
「随分ハッキリといいますね……」
「相手が悪すぎる。あの男は房州だけでなく上州、下総、上総、江戸と様々な場所でたくさんの強者たちを殺している。賞金目当ての浪人は百近く骸となり、同心や剣の達人も同様に地の底へと堕ちて行った。源之助さんならヤツと互角に勝負出来るかもしれない。だが、悪いことはいわないから止めておいたほうがいい」
「……そうですか。なら尚更」
「何故、そんなに死に急ぐ?」
「もう生きちゃいないから、ですかね。正直、おれは親父の仇を討った時、天馬様を襲撃した時に死んでいても可笑しくなかった。たまたま生き延びた人生。未練などないのです」
「そんなことをいって、アナタは今ここで確かに生きているじゃないか」進藤のことばに猿田は黙る。「アナタは死にたがりではない。むしろ、死とは常に対極でいたいと思っている。アナタはどんな事情があろうと、自らの手で死を選ぶことは出来ないとわたしは思うがね」
進藤は蕎麦をすする。つゆが飛ぶ。店内で客人たちが談笑する声が響く。
「……未練はありません。ですが、おっしゃる通り死ぬのは怖いです。受ける苦痛も、その後がどうなるかもわからないなんて怖くて仕方がないというのが本音です。多分、おれは自分の腹を斬れる性分じゃないでしょう」
「なら尚更だ。……これはわたし個人の世迷いごとだが、この年になると友人も少なくなってね。源之助さんのように気軽に酒を飲める相手も少なくなってくる。わたしも数少ない友人は失いたくないのだよ」
友人というひとことで猿田は揺れる。猿田はふとニヤリと笑っていう。
「……なら、生き延びるしかないですね」
「そういうことだ。これ以上アナタを止める権利はない。だが、ひとついっておきたいのは、わたしをアナタの墓の前で泣き崩れさせないでくれ、ということだけだ」
猿田は緊張した笑みを浮かべながら頷いた。
「そうならないことを祈りますよ」
【続く】