【明日、白夜になる前に~参拾漆~】
文字数 2,606文字
突然、目の前に天使が降り立ったとしたらどのように感じるだろう。
まず夢うつつ。現実のようには思えないだろう。ここは夢の島、時が経ち、目覚めの時が来てしまえば、霞のように消える儚い幻。
「あの、どうしたんですか?」
ぼくはハッとする。白昼夢ーーいや、今は夕暮れを過ぎたゴールデンタイム。形容するとしたら『黒夜夢』といったところか。
そんなことはどうでもいい。
ぼくの脳は汗を掻き、神経というハイウェイは渋滞で交通は完全に滞っている。思考なんか通らない。脳髄というアースが思惑という電力を逃がすことが出来ずに発熱、ショートして脳内の電気回路は機能を停止するーー
「……大丈夫ですか?」
「あ、はいッ! 大丈夫、ですッ!」
口先だけの大丈夫。そんなモノはまったく以て役に立たない。壊れたリボルバーのように、シリンダーは回らない。つまり、ことばという銃弾がバレルに装填されることもない。
「あれ?」白無垢の彼女がいう。「確か前にお会いしましたよね?」
裏返った声で、ぼくは「え?」という。彼女は覚えていたーー覚えていたのだ。
ぼくとの出会いを。
あの時の光景がフラッシュバックする。たまきとの一件の後、そして春香さんとの夜の前、ぼくが灰色の街で出会った天使。落とし物を拾ってぼくに差し出す女性。
「あぁ、えぇ、以前、街で」
「そうですよねぇ!? あの時の!」
彼女は声を弾ませる。まるでぼくとの再会を喜んでいるようーーいや、それはぼくの希望、願望でしかない。だが、にしても彼女の声の高鳴りは、ただの通行人Aと再会した時のモノではないのは明らかのように感じた。
「えぇ、落とし物を拾って頂いて」
ぼくは噛み合わない歯車のようにイビツでギコチナクなった滑舌でいう。照れ隠しにより頭を掻く動作を携えて。
「うんうん!」
そのおしとやかで上品な雰囲気からはおおよそ窺うことの出来ないようなフレンドリーで元気に満ち満ちた声色で彼女はいう。
「でも、よく覚えてましたね、ぼくのこと」
こんな特徴もない、冴えない男のことを。が、彼女はいうーー
「もちろんですよ! だってーー」
彼女はそこでことばを切る。切ってハッとし、うつむき加減になって黙り込んでしまう。その先が口から出ることはなさそうだった。
「もしかして」ぼくはシャツの右袖を捲って、彼女に義手を見せる。「これのことですか?」
彼女は明らかに困惑、狼狽した様子で声を上げると、少し押し黙り、そして躊躇いを見せるようにしてコクリと頷いて見せる。
「すみません……」
「謝らなくてもいいですよ。確かに義手っていうのは、特徴的っちゃ特徴的ですからね」
まったく、想像の外だった。ぼくは正直煮えきっていなかった。腑に落ちていなかった。自分が義手であるという事実に。
それもそうだ。
ぼくだって好きで義手になったワケじゃない。完全なる不可抗力。出来ることなら、この世に生まれ落ちた時に父と母から貰った右腕のまま人生をまっとうしたかった。
だが、それは無理だった。
仕方ないーーどんなに自分にそういい聞かせても、後悔の念は想像という無限の泥沼の中で何処までも増幅する。イフの話を膨らませ、仮にあの時たまきと出会わなければ、たまきと付き合わなければ、と覆ることのない過去を想像という脆い地盤の上でそびえ立つ天空の塔のような簡単に崩れ去ってしまうお伽噺をでっち上げては自分を慰めようとしていた。
だからこそ、自分が義手になったという強固な地盤を持った現実を受け入れることが出来なかった。
だが、考えようによっては義手というのはハンディキャップではなく、個性にもなりうる。
ぼくのような有象無象のひとりのように何処にでもいそうな、無個性の塊のようなルックスのぼくの印象を裏付ける鮮烈かつ強烈な個性にも充分になりうるということだ。
完全に盲点だった。だが、それを彼女は無意識の内に証明してくれたのだ。
確かに義手はハンディキャップ、見る人が見れば、哀れ、嘲笑の的にもなるだろうが、そんなモノは無視すればいい。人間、救いようのない人格破綻者もいれば、聖人君子のように柔和で優しいこころを持った者がいる。
前者を相手に取れば、仮に自分が義手であろうとなかろうと、誰もが持っている小さくも強大なコンプレックスに附け込まれて足許を掬われ、嘲笑われ、足蹴にされることだろう。
だが、この世に存在する人間は、そういった悪辣とした者ばかりではないのだ。
ネガティブな存在に敏感な人間という生物にとって、露悪的な人間というのは、まるでメガホンを持ったアジテーター、顕微鏡がフォーカスした病原菌、ウイルスのように注意を過剰に引く存在ではあるが、世の中には汚泥もあれば、美しく咲く花もある。
そう、世の中、ろくでもない人間もいれば、聖人のような存在も一定数は存在するのだ。
だから何も自分のコンプレックスにうちひしがれることはないのだ。
何故なら、コンプレックスなんて、人によってはただの個性でしかないのだから。
「何というか」ぼくの口許は弛んでいる。「覚えていて下さっていて嬉しい、というか」
それしかことばに出来ない。ただ、美しい天使のような女性に覚えて貰えていたというだけで感動だったのだ。
ぼくは世間話的に、彼女の勤め先がこの近くなのかと訊ねた。結果はビンゴ。彼女はこの近辺の保険会社に勤めているとのことだった。
それも、うちの会社とは目と鼻の先にある会社だったのだ。
ぼくが自分の勤め先をいうと彼女は、
「すぐ近くじゃないですか! 奇遇ですね!」
と声を上げて驚いて見せる。そんな彼女に、ぼくはいうーー
「もしかしたら、またお会いするかもしれませんね」
「そうですねー」
「あの、もしーー」一瞬、躊躇ったが、ぼくは再び口を開く。「もし良ければお名前を教えて頂けませんか?」
いってしまった。ぼくのこころは軋みと快感の両方に酔い、頭は希望と諦観の狭間で揺れる。吐き気が止まらない。胃の中が沸騰しているようだ。ぼくは裁判で判決を待つ被告人のような心境で待った、待ったーー待ち続けた。
「いいですよ」
彼女は軽い調子でいう。ぼくは最初、その意味が理解できず、呆然と「え?」と訊き返してしまう。が、彼女は笑みを浮かべて、
「黒沢真理です、よろしくお願いしますね」
彼女がペコリとお辞儀する姿に、ぼくは思わず頭を下げた。
【続く】
まず夢うつつ。現実のようには思えないだろう。ここは夢の島、時が経ち、目覚めの時が来てしまえば、霞のように消える儚い幻。
「あの、どうしたんですか?」
ぼくはハッとする。白昼夢ーーいや、今は夕暮れを過ぎたゴールデンタイム。形容するとしたら『黒夜夢』といったところか。
そんなことはどうでもいい。
ぼくの脳は汗を掻き、神経というハイウェイは渋滞で交通は完全に滞っている。思考なんか通らない。脳髄というアースが思惑という電力を逃がすことが出来ずに発熱、ショートして脳内の電気回路は機能を停止するーー
「……大丈夫ですか?」
「あ、はいッ! 大丈夫、ですッ!」
口先だけの大丈夫。そんなモノはまったく以て役に立たない。壊れたリボルバーのように、シリンダーは回らない。つまり、ことばという銃弾がバレルに装填されることもない。
「あれ?」白無垢の彼女がいう。「確か前にお会いしましたよね?」
裏返った声で、ぼくは「え?」という。彼女は覚えていたーー覚えていたのだ。
ぼくとの出会いを。
あの時の光景がフラッシュバックする。たまきとの一件の後、そして春香さんとの夜の前、ぼくが灰色の街で出会った天使。落とし物を拾ってぼくに差し出す女性。
「あぁ、えぇ、以前、街で」
「そうですよねぇ!? あの時の!」
彼女は声を弾ませる。まるでぼくとの再会を喜んでいるようーーいや、それはぼくの希望、願望でしかない。だが、にしても彼女の声の高鳴りは、ただの通行人Aと再会した時のモノではないのは明らかのように感じた。
「えぇ、落とし物を拾って頂いて」
ぼくは噛み合わない歯車のようにイビツでギコチナクなった滑舌でいう。照れ隠しにより頭を掻く動作を携えて。
「うんうん!」
そのおしとやかで上品な雰囲気からはおおよそ窺うことの出来ないようなフレンドリーで元気に満ち満ちた声色で彼女はいう。
「でも、よく覚えてましたね、ぼくのこと」
こんな特徴もない、冴えない男のことを。が、彼女はいうーー
「もちろんですよ! だってーー」
彼女はそこでことばを切る。切ってハッとし、うつむき加減になって黙り込んでしまう。その先が口から出ることはなさそうだった。
「もしかして」ぼくはシャツの右袖を捲って、彼女に義手を見せる。「これのことですか?」
彼女は明らかに困惑、狼狽した様子で声を上げると、少し押し黙り、そして躊躇いを見せるようにしてコクリと頷いて見せる。
「すみません……」
「謝らなくてもいいですよ。確かに義手っていうのは、特徴的っちゃ特徴的ですからね」
まったく、想像の外だった。ぼくは正直煮えきっていなかった。腑に落ちていなかった。自分が義手であるという事実に。
それもそうだ。
ぼくだって好きで義手になったワケじゃない。完全なる不可抗力。出来ることなら、この世に生まれ落ちた時に父と母から貰った右腕のまま人生をまっとうしたかった。
だが、それは無理だった。
仕方ないーーどんなに自分にそういい聞かせても、後悔の念は想像という無限の泥沼の中で何処までも増幅する。イフの話を膨らませ、仮にあの時たまきと出会わなければ、たまきと付き合わなければ、と覆ることのない過去を想像という脆い地盤の上でそびえ立つ天空の塔のような簡単に崩れ去ってしまうお伽噺をでっち上げては自分を慰めようとしていた。
だからこそ、自分が義手になったという強固な地盤を持った現実を受け入れることが出来なかった。
だが、考えようによっては義手というのはハンディキャップではなく、個性にもなりうる。
ぼくのような有象無象のひとりのように何処にでもいそうな、無個性の塊のようなルックスのぼくの印象を裏付ける鮮烈かつ強烈な個性にも充分になりうるということだ。
完全に盲点だった。だが、それを彼女は無意識の内に証明してくれたのだ。
確かに義手はハンディキャップ、見る人が見れば、哀れ、嘲笑の的にもなるだろうが、そんなモノは無視すればいい。人間、救いようのない人格破綻者もいれば、聖人君子のように柔和で優しいこころを持った者がいる。
前者を相手に取れば、仮に自分が義手であろうとなかろうと、誰もが持っている小さくも強大なコンプレックスに附け込まれて足許を掬われ、嘲笑われ、足蹴にされることだろう。
だが、この世に存在する人間は、そういった悪辣とした者ばかりではないのだ。
ネガティブな存在に敏感な人間という生物にとって、露悪的な人間というのは、まるでメガホンを持ったアジテーター、顕微鏡がフォーカスした病原菌、ウイルスのように注意を過剰に引く存在ではあるが、世の中には汚泥もあれば、美しく咲く花もある。
そう、世の中、ろくでもない人間もいれば、聖人のような存在も一定数は存在するのだ。
だから何も自分のコンプレックスにうちひしがれることはないのだ。
何故なら、コンプレックスなんて、人によってはただの個性でしかないのだから。
「何というか」ぼくの口許は弛んでいる。「覚えていて下さっていて嬉しい、というか」
それしかことばに出来ない。ただ、美しい天使のような女性に覚えて貰えていたというだけで感動だったのだ。
ぼくは世間話的に、彼女の勤め先がこの近くなのかと訊ねた。結果はビンゴ。彼女はこの近辺の保険会社に勤めているとのことだった。
それも、うちの会社とは目と鼻の先にある会社だったのだ。
ぼくが自分の勤め先をいうと彼女は、
「すぐ近くじゃないですか! 奇遇ですね!」
と声を上げて驚いて見せる。そんな彼女に、ぼくはいうーー
「もしかしたら、またお会いするかもしれませんね」
「そうですねー」
「あの、もしーー」一瞬、躊躇ったが、ぼくは再び口を開く。「もし良ければお名前を教えて頂けませんか?」
いってしまった。ぼくのこころは軋みと快感の両方に酔い、頭は希望と諦観の狭間で揺れる。吐き気が止まらない。胃の中が沸騰しているようだ。ぼくは裁判で判決を待つ被告人のような心境で待った、待ったーー待ち続けた。
「いいですよ」
彼女は軽い調子でいう。ぼくは最初、その意味が理解できず、呆然と「え?」と訊き返してしまう。が、彼女は笑みを浮かべて、
「黒沢真理です、よろしくお願いしますね」
彼女がペコリとお辞儀する姿に、ぼくは思わず頭を下げた。
【続く】