【西陽の当たる地獄花~参拾四~】
文字数 2,195文字
有り得ない光景に白装束はことばを失う。
夜闇に太陽が三つ。まるでこの世の終わりのような光景が広がっている。器やメシ、生首に役人連中がひっくり返っている。
あの時、神は天地がひっくり返ったような絵が描かれた掛け軸を引っ張った。その時からだ、世界が可笑しくなったのは。
その神の姿も、ここにはない。天地を返してすぐさまそこから逃げたのだろう。
白装束は自分の身体を触れる。が、何処も可笑しなところはない。
続いて白装束は刀を抜き、依然として気絶している牛馬のもとに屈み込むと、切先を牛馬の首もとに突きつけ、牛馬の身体をまさぐった。
牛馬に可笑しなところはない。息もちゃんとあるし、もとからあった傷を除けば、普通に眠っているのと何ら変わりはなかった。
犬となった鬼水、猿となった宗顕も同じように無事だったようだ。
だが、そうなるとひとつ疑問が残る。
何故、神は自らの驚異となり兼ねない白装束や牛馬を殺さなかったのか。
最後の手として天地をひっくり返したのはわかる。だが、白装束や牛馬が完全に気を失っている最中に刀やドスの切先を心の臓に突き立てていたのなら、その脅威を意図も簡単に処理出来た。にも関わらず、それをしなかったというのは、何かしらの不具合があったからだ。
白装束は掛け軸のあったほうを見る。だが、やはり掛け軸はなくなっている。となると、自らの手で天地を逆転させ直すことは出来ないようだ。それに、天地がひっくり返った時に感じた凄まじい力をそう何度も体感していては、身体もそう長くは持ちはしないだろう。
廊下のほうからとてつもない声。
いつもは冷ややかで落ち着いている白装束の顔が歪む。恐怖か焦燥か、おおよそ白装束には似合わない感情がそこにある。
その声は、絶叫するように唸り続けている。苦痛に満ちたようなその声は、これから来るであろう悪夢のような未来を象徴しているよう。
白装束は、その場に散らばっている紙と筆を取り、一筆書いて倒れている牛馬の傍らに置き、広間から出て行き、扉を閉めたーー
「わたしは人の寝首を掻くような卑劣な真似はしたくない。よって貴殿との決着は、互いの意識がハッキリしている時に預けたい。勝手な申し出に面食らうかもしれないが許して欲しい。ひとつ、貴殿に忠告しておきたいのは、この世は普通ではない。鬼水殿、宗顕殿と共に気をつけて進むべし。ご無事を祈るーーだってよ」白装束からの手紙を片手に、牛馬は吐き捨てる。「あの野郎、決着をつけるなんてほざいて、おれの命をみすみす逃しやがった」
牛馬の顔に影が差す。肩を震わし、握っている手紙も大きく震える。鬼水と宗顕はまがまがしいモノを見るように牛馬の顔を覗き込む。
「あのぉ、牛馬様……?」
鬼水が声を掛けると、牛馬は振り返る。その表情は鬼の霊が取り憑いたように歪んでいる。何だ、と訊ね返す牛馬に、鬼水も宗顕も身体を震わし、一歩下がる。が、鬼水は、
「い、いえ。ただ、良かったではないですか」
良かった?と訊ね返す牛馬の顔はまるで阿修羅のように、より一層シワを深くする。鬼水のことばがより張り詰め、早くなる。
「で、ですから、何があろうと命があったことは幸い、ということです! 命は機会そのモノです。なくなってしまえば、その機会もすべて消えてしまう。だから、良かったではないですか! 今は破滅に酔うのではなく、自分の強運に感謝すべき時ーー」
「うるせぇぞ、クソ犬」
牛馬は声を荒げない。というより、感情に抑制されて声が出ない、といったところか。が、そんな地獄の底から響いて来るような低音が、鬼水を黙らせる。牛馬は更に続ける。
「命があって良かっただぁ? あの野郎は殺ろうと思えば、おれを殺せた。なのに殺さなかった。これがどういうことかわかるか?」
鬼水は完全に黙り込む。まるで、何かを悟ったよう。ここまでずっと牛馬のお供をしてきた鬼水ならば、牛馬のいうことばの意味がわかってしまったかもしれない。だが、そんな鬼水を見た宗顕は、鬼水から引き継ぐようにして、
「どういうこと、でしょうか……?」
ドスのように鋭い牛馬の視線が、宗顕に突き刺さる。喉元に切先を突きつけられたように、宗顕は身を退き、その場にて尻餅をつく。宗顕に寄る鬼水。家畜が二匹と鬼ひとり。
牛馬は肩で息を切っている。
「……ナメられてるってことだ! こんな隙を見せるってのは殺されたも同じ。だが、コイツは寝首を掻かずとも殺せるって、そういいてぇんだ! つまりおれは、あの野郎に一度ならず二度までも殺されたってことなんだよ!」
「しかし……、それでも牛馬殿は生きて……」
「生きてるから何だ? 今そこに命があることが問題じゃない。そこに抜かりがあったことが問題なんだ。たまたま運が良かった。この世界じゃ、それは生きることを投げた負け犬がいうことばだ! これじゃ何のために大地獄から出て来たかわからねぇだろ!」
鬼神がそこにいた。怨念に支配された鬼神がそこにいた。宗顕もそんな鬼神に気圧されたのか、もはや何もいおうとしない。
甲高い悲鳴が聴こえて来る。
部屋の外からだ。
三人は揃って扉のほうを見る。おぞましい悲鳴が消えると、虚無的な静寂がやって来る。
「い、今のは……」鬼水。
「……手紙にあるだろ、死神さ」
牛馬は左手の親指を鍔に掛けた。
【続く】
夜闇に太陽が三つ。まるでこの世の終わりのような光景が広がっている。器やメシ、生首に役人連中がひっくり返っている。
あの時、神は天地がひっくり返ったような絵が描かれた掛け軸を引っ張った。その時からだ、世界が可笑しくなったのは。
その神の姿も、ここにはない。天地を返してすぐさまそこから逃げたのだろう。
白装束は自分の身体を触れる。が、何処も可笑しなところはない。
続いて白装束は刀を抜き、依然として気絶している牛馬のもとに屈み込むと、切先を牛馬の首もとに突きつけ、牛馬の身体をまさぐった。
牛馬に可笑しなところはない。息もちゃんとあるし、もとからあった傷を除けば、普通に眠っているのと何ら変わりはなかった。
犬となった鬼水、猿となった宗顕も同じように無事だったようだ。
だが、そうなるとひとつ疑問が残る。
何故、神は自らの驚異となり兼ねない白装束や牛馬を殺さなかったのか。
最後の手として天地をひっくり返したのはわかる。だが、白装束や牛馬が完全に気を失っている最中に刀やドスの切先を心の臓に突き立てていたのなら、その脅威を意図も簡単に処理出来た。にも関わらず、それをしなかったというのは、何かしらの不具合があったからだ。
白装束は掛け軸のあったほうを見る。だが、やはり掛け軸はなくなっている。となると、自らの手で天地を逆転させ直すことは出来ないようだ。それに、天地がひっくり返った時に感じた凄まじい力をそう何度も体感していては、身体もそう長くは持ちはしないだろう。
廊下のほうからとてつもない声。
いつもは冷ややかで落ち着いている白装束の顔が歪む。恐怖か焦燥か、おおよそ白装束には似合わない感情がそこにある。
その声は、絶叫するように唸り続けている。苦痛に満ちたようなその声は、これから来るであろう悪夢のような未来を象徴しているよう。
白装束は、その場に散らばっている紙と筆を取り、一筆書いて倒れている牛馬の傍らに置き、広間から出て行き、扉を閉めたーー
「わたしは人の寝首を掻くような卑劣な真似はしたくない。よって貴殿との決着は、互いの意識がハッキリしている時に預けたい。勝手な申し出に面食らうかもしれないが許して欲しい。ひとつ、貴殿に忠告しておきたいのは、この世は普通ではない。鬼水殿、宗顕殿と共に気をつけて進むべし。ご無事を祈るーーだってよ」白装束からの手紙を片手に、牛馬は吐き捨てる。「あの野郎、決着をつけるなんてほざいて、おれの命をみすみす逃しやがった」
牛馬の顔に影が差す。肩を震わし、握っている手紙も大きく震える。鬼水と宗顕はまがまがしいモノを見るように牛馬の顔を覗き込む。
「あのぉ、牛馬様……?」
鬼水が声を掛けると、牛馬は振り返る。その表情は鬼の霊が取り憑いたように歪んでいる。何だ、と訊ね返す牛馬に、鬼水も宗顕も身体を震わし、一歩下がる。が、鬼水は、
「い、いえ。ただ、良かったではないですか」
良かった?と訊ね返す牛馬の顔はまるで阿修羅のように、より一層シワを深くする。鬼水のことばがより張り詰め、早くなる。
「で、ですから、何があろうと命があったことは幸い、ということです! 命は機会そのモノです。なくなってしまえば、その機会もすべて消えてしまう。だから、良かったではないですか! 今は破滅に酔うのではなく、自分の強運に感謝すべき時ーー」
「うるせぇぞ、クソ犬」
牛馬は声を荒げない。というより、感情に抑制されて声が出ない、といったところか。が、そんな地獄の底から響いて来るような低音が、鬼水を黙らせる。牛馬は更に続ける。
「命があって良かっただぁ? あの野郎は殺ろうと思えば、おれを殺せた。なのに殺さなかった。これがどういうことかわかるか?」
鬼水は完全に黙り込む。まるで、何かを悟ったよう。ここまでずっと牛馬のお供をしてきた鬼水ならば、牛馬のいうことばの意味がわかってしまったかもしれない。だが、そんな鬼水を見た宗顕は、鬼水から引き継ぐようにして、
「どういうこと、でしょうか……?」
ドスのように鋭い牛馬の視線が、宗顕に突き刺さる。喉元に切先を突きつけられたように、宗顕は身を退き、その場にて尻餅をつく。宗顕に寄る鬼水。家畜が二匹と鬼ひとり。
牛馬は肩で息を切っている。
「……ナメられてるってことだ! こんな隙を見せるってのは殺されたも同じ。だが、コイツは寝首を掻かずとも殺せるって、そういいてぇんだ! つまりおれは、あの野郎に一度ならず二度までも殺されたってことなんだよ!」
「しかし……、それでも牛馬殿は生きて……」
「生きてるから何だ? 今そこに命があることが問題じゃない。そこに抜かりがあったことが問題なんだ。たまたま運が良かった。この世界じゃ、それは生きることを投げた負け犬がいうことばだ! これじゃ何のために大地獄から出て来たかわからねぇだろ!」
鬼神がそこにいた。怨念に支配された鬼神がそこにいた。宗顕もそんな鬼神に気圧されたのか、もはや何もいおうとしない。
甲高い悲鳴が聴こえて来る。
部屋の外からだ。
三人は揃って扉のほうを見る。おぞましい悲鳴が消えると、虚無的な静寂がやって来る。
「い、今のは……」鬼水。
「……手紙にあるだろ、死神さ」
牛馬は左手の親指を鍔に掛けた。
【続く】