【明日、白夜になる前に~伍拾捌~】
文字数 2,545文字
立ち上る煙はまるでのろしのようだった。
まるでぼくに助けを求めているようなのろし。いや、まるでではなくて、これはまさにぼくに助けを求めているのろしであろう。
『HELP』
普通、肉をこんな物騒なワードを描いた並べ方をするだろうか。偶然か。いや、偶然にしてはあまりにも出来すぎている。
では、イタズラか。にしては不謹慎過ぎるし、それ以上に手が込みすぎている。そもそも、わざわざ自らをやつれさせて、風呂に入らないまでしてやることだろうか。仮にイタズラにしてもやり過ぎだ。となると……。
里村さんのほうを見る。と、里村さんはぼくのほうを上目遣いで見ている。その視線は弱々しくも、どこか必死さを感じさせる微かな強さが滲み出ているようだった。
ぼくは網の上で踊る助けのことばに一度目を落とし、再度彼女のことを見直す。と、彼女はコクリと頷いて見せる。
ぼくは思わず「えっ」と声を上げてしまった。が、彼女はすぐさま人差し指を口許に持って行き、声を殺すようジェスチャーをする。
肉が妬けるジューッという音だけが響く。
ぼくは声をグッと飲み込みつつ考える。何故声を出してはいけないのか。だが、考えてみれば、こんなことは明白だった。あまりにもバカげた話ではあるけれど、そうだと考える以外に可能性はない。というのは、
盗聴されている。
それ以外には考えられない。考えてみれば、焼き肉というのが、上手い。焼き肉ならば肉の焼ける音や何かで音を拾わせるのに苦労する。カモフラージュにはもってこいの場所。
しかし、何故盗聴なんか。そもそもがバカげた考えではあるが、もはやそのバカげた考えすら真実としか思えない。
有り得ないことをすべて取り除いて行って、最後に残ったモノが、それがどんなに可笑しなことであっても、それこそが真実となる。そんな話を聴いたことがある。
今、ぼくが考えていることは、本当に可笑しくバカげた話だろう。だが、他に可能性など考えられない。何度もいうようだが、里村さんがぼくにこのようなイタズラを仕掛けるとは考えられない。むしろ、彼女はそういうことをするタイプの人間ではない。
では、やっぱり……。
ぼくはあまり勘のいいほうではないし、むしろこんな勘は外れて欲しいくらいなのだが、それ以外にはもはや考えられなかった。
と、彼女は徐に、
「最近仕事が忙しくてさ、ゴメンね、こんな感じで呼び出しちゃってさ」という。
ぼくはキツネに鼻をつままれたようになった。が、彼女は両手で何かをつまんで引き伸ばすようなジェスチャーを無言でしてくる。話を引き延ばせ、とそういうことだろう。ぼくは無言で頷き、適当なワードを放り込む。
「へぇ、そうなんだね。確かにちょっと疲れが見えるというか、さ」
「ちょっと、そういうことはあまり女の子にはいわないほうがいいよ」
「あぁ、ごめん、でも何か……」
いつもと違う。そういおうとして留まった。そのことばが、何処かでぼくらの声を聴いているであろう相手に何かを悟らせてしまうのでは。ふとそう思った。
いや、そもそもどうやって盗聴しているというのだ。席か。確かにこの店は彼女が選んだ店だ。ぼくをここに誘導する前提でここまで来たとは考えられる。だが、テーブルに案内したのは紛れもない店員だ。この席の何処かに盗聴機が仕掛けられているとするならば、店側の人間もグルということになる。
だが、そんな出来すぎたことは考えられるだろうか。もし、店長と主犯が繋がっていたとして、何時何分頃にこういう客が来るから、この席に通してなどと頼むだろうか。
そんな面倒なことはしないはずだ。
そもそもこのテーブルは予約席ではなかった。予約席ならば、あらかじめ人数分の用意がなされているはずだから。
それにそこまで手の込んだことをするならば、わざわざ音声だけでなく盗撮することだって可能なはずだ。だが、彼女は網の上で助けを求める文字を描いた。これはどういうことか。
盗撮はされていない、ということだ。
ぼくは目線の動きだけで辺りを見回す。だが、可笑しなところなど特には見当たらない。ふと彼女のほうを見ると、彼女は特に遠慮するでもなく首を横に振って見せる。
つまり、映像は撮られていない。
「さぁ、早く食べよう。肉焦げちゃうよ」
ぼくが肉を取ろうとすると里村さんはそれを止めたげに手を軽く差し出す。が、ぼくは彼女の顔を改めて見る。わかっているとわからせるような表情をしたつもりだった。そのお陰か、彼女もそれ以上は止めず、自分も皿によく焼けた肉を載せていった。
しかし、問題なのは盗聴されているとわかっても、その先をどうするかなのだ。
そもそも何をもって盗聴しているかということだが、これは殆ど推測は出来る。まずこれは彼女のスマホと見て間違いないと思う。
というのは、ここに来るまで彼女は一度もスマホを見てもいなければ、取り出そうともしていないこと。これまでの流れから考えても、彼女が一度もスマホに触らなかったということはなかった。
家に忘れた。そうとも考えられなくもないが、だとしても何かしらのアプローチはあるはずだ。そもそも人と予定を合わせて会うとなれば、こまめな連絡は出来ないとマズイ。ただ、正直こればかりは不確定というか自信はない。そこでぼくは考えた。
「いやぁ、この前同僚から聴いた話なんだけどさ」ぼくは徐に話し出す。「カバーもつけてない剥き出しの状態でスマホを尻ポケットに入れてたんだって。そしたら動く度に画面が擦れてたらしくってほんと偶然に奥さんに電話繋がっちゃったんだって。でも、その同僚はそんなことも知らずに、飲み会で奥さんの愚痴を話しちゃって。でもそれは全部奥さんに筒抜けになっちゃって、家帰ってから大変だったらしいんだ。可笑しな話だよね」
その話をした時、彼女は一瞬とんでもなく引きつった表情を見せた。間違いない。ビンゴだ。彼女の音を別の何処かへ伝えているのはスマホで間違いない。だとすると、盗聴している何者かはそこまで機械に強い相手ではない。
だが、まだそうと決まったワケではない。自惚れは自滅への最短チケット。ことは慎重に運ばなければならないだろう。
ぼくはゴクリと唾を飲みスマホを取り出す。
【続く】
まるでぼくに助けを求めているようなのろし。いや、まるでではなくて、これはまさにぼくに助けを求めているのろしであろう。
『HELP』
普通、肉をこんな物騒なワードを描いた並べ方をするだろうか。偶然か。いや、偶然にしてはあまりにも出来すぎている。
では、イタズラか。にしては不謹慎過ぎるし、それ以上に手が込みすぎている。そもそも、わざわざ自らをやつれさせて、風呂に入らないまでしてやることだろうか。仮にイタズラにしてもやり過ぎだ。となると……。
里村さんのほうを見る。と、里村さんはぼくのほうを上目遣いで見ている。その視線は弱々しくも、どこか必死さを感じさせる微かな強さが滲み出ているようだった。
ぼくは網の上で踊る助けのことばに一度目を落とし、再度彼女のことを見直す。と、彼女はコクリと頷いて見せる。
ぼくは思わず「えっ」と声を上げてしまった。が、彼女はすぐさま人差し指を口許に持って行き、声を殺すようジェスチャーをする。
肉が妬けるジューッという音だけが響く。
ぼくは声をグッと飲み込みつつ考える。何故声を出してはいけないのか。だが、考えてみれば、こんなことは明白だった。あまりにもバカげた話ではあるけれど、そうだと考える以外に可能性はない。というのは、
盗聴されている。
それ以外には考えられない。考えてみれば、焼き肉というのが、上手い。焼き肉ならば肉の焼ける音や何かで音を拾わせるのに苦労する。カモフラージュにはもってこいの場所。
しかし、何故盗聴なんか。そもそもがバカげた考えではあるが、もはやそのバカげた考えすら真実としか思えない。
有り得ないことをすべて取り除いて行って、最後に残ったモノが、それがどんなに可笑しなことであっても、それこそが真実となる。そんな話を聴いたことがある。
今、ぼくが考えていることは、本当に可笑しくバカげた話だろう。だが、他に可能性など考えられない。何度もいうようだが、里村さんがぼくにこのようなイタズラを仕掛けるとは考えられない。むしろ、彼女はそういうことをするタイプの人間ではない。
では、やっぱり……。
ぼくはあまり勘のいいほうではないし、むしろこんな勘は外れて欲しいくらいなのだが、それ以外にはもはや考えられなかった。
と、彼女は徐に、
「最近仕事が忙しくてさ、ゴメンね、こんな感じで呼び出しちゃってさ」という。
ぼくはキツネに鼻をつままれたようになった。が、彼女は両手で何かをつまんで引き伸ばすようなジェスチャーを無言でしてくる。話を引き延ばせ、とそういうことだろう。ぼくは無言で頷き、適当なワードを放り込む。
「へぇ、そうなんだね。確かにちょっと疲れが見えるというか、さ」
「ちょっと、そういうことはあまり女の子にはいわないほうがいいよ」
「あぁ、ごめん、でも何か……」
いつもと違う。そういおうとして留まった。そのことばが、何処かでぼくらの声を聴いているであろう相手に何かを悟らせてしまうのでは。ふとそう思った。
いや、そもそもどうやって盗聴しているというのだ。席か。確かにこの店は彼女が選んだ店だ。ぼくをここに誘導する前提でここまで来たとは考えられる。だが、テーブルに案内したのは紛れもない店員だ。この席の何処かに盗聴機が仕掛けられているとするならば、店側の人間もグルということになる。
だが、そんな出来すぎたことは考えられるだろうか。もし、店長と主犯が繋がっていたとして、何時何分頃にこういう客が来るから、この席に通してなどと頼むだろうか。
そんな面倒なことはしないはずだ。
そもそもこのテーブルは予約席ではなかった。予約席ならば、あらかじめ人数分の用意がなされているはずだから。
それにそこまで手の込んだことをするならば、わざわざ音声だけでなく盗撮することだって可能なはずだ。だが、彼女は網の上で助けを求める文字を描いた。これはどういうことか。
盗撮はされていない、ということだ。
ぼくは目線の動きだけで辺りを見回す。だが、可笑しなところなど特には見当たらない。ふと彼女のほうを見ると、彼女は特に遠慮するでもなく首を横に振って見せる。
つまり、映像は撮られていない。
「さぁ、早く食べよう。肉焦げちゃうよ」
ぼくが肉を取ろうとすると里村さんはそれを止めたげに手を軽く差し出す。が、ぼくは彼女の顔を改めて見る。わかっているとわからせるような表情をしたつもりだった。そのお陰か、彼女もそれ以上は止めず、自分も皿によく焼けた肉を載せていった。
しかし、問題なのは盗聴されているとわかっても、その先をどうするかなのだ。
そもそも何をもって盗聴しているかということだが、これは殆ど推測は出来る。まずこれは彼女のスマホと見て間違いないと思う。
というのは、ここに来るまで彼女は一度もスマホを見てもいなければ、取り出そうともしていないこと。これまでの流れから考えても、彼女が一度もスマホに触らなかったということはなかった。
家に忘れた。そうとも考えられなくもないが、だとしても何かしらのアプローチはあるはずだ。そもそも人と予定を合わせて会うとなれば、こまめな連絡は出来ないとマズイ。ただ、正直こればかりは不確定というか自信はない。そこでぼくは考えた。
「いやぁ、この前同僚から聴いた話なんだけどさ」ぼくは徐に話し出す。「カバーもつけてない剥き出しの状態でスマホを尻ポケットに入れてたんだって。そしたら動く度に画面が擦れてたらしくってほんと偶然に奥さんに電話繋がっちゃったんだって。でも、その同僚はそんなことも知らずに、飲み会で奥さんの愚痴を話しちゃって。でもそれは全部奥さんに筒抜けになっちゃって、家帰ってから大変だったらしいんだ。可笑しな話だよね」
その話をした時、彼女は一瞬とんでもなく引きつった表情を見せた。間違いない。ビンゴだ。彼女の音を別の何処かへ伝えているのはスマホで間違いない。だとすると、盗聴している何者かはそこまで機械に強い相手ではない。
だが、まだそうと決まったワケではない。自惚れは自滅への最短チケット。ことは慎重に運ばなければならないだろう。
ぼくはゴクリと唾を飲みスマホを取り出す。
【続く】