【いろは歌地獄旅~いつもの場所~】
文字数 2,416文字
無作法に伸びた草、草ーー草。
わたしはそれを見て硬直する。身体はいつの間にかキズだらけになっているが、何とかここまで帰って来れた。だが、その結果がこの伸びに伸びたワイルド・フロンティアーー
これはどういうことだろう。
ここはわたしにとって、いつもの場所だったはずだった。
わたしは呆然とするばかり。涙なんて出ない。というより、涙を出す能力に乏しいというべきなのだろうか。もしかしたら、ここに帰って来るまでに、右の目を潰してしまったのがマズかったのかもしれない。
微かな記憶が頭を過る。
わたしはとても狭い場所で生まれた。微かな光が差す、薄暗い場所。何となく覚えているのは、母が非常に衰弱していたということ。グッタリと横になりながらも、決して何事にも屈しないという姿勢を見せていた。
あと覚えているのは、わたしの横にはわたしと同様たくさんの赤ん坊がいたということだ。
あの赤ん坊たちは何処へ行ってしまったのだろう。みんな目もろくに開かないチビだったが、きっと今ではわたしと同様の大人ーーいや、老人になっていることだろう。
下手したらもう既にーー
そう考えると、身体中キズだらけで、右目を潰した程度で済んだわたしは比較的ついているのかもしれない。だって、わたしはまだ生きているのだから。
しかし、わたしはどうしてここにいるのだろう。わたしは、確かにここで幸せな生活を送っていたはずだった。ボロボロではあるが、その名残をわたしは未だに身につけている。
確か、わたしが薄暗い闇の中から引き出されて少しした辺りのことである。木造でモノが溢れ返ったーーだが、それでも整理整頓された室内に、わたしは連れていかれた。
他のチビたちは一緒じゃなかった。チビたちはチビたちで、何処かへ連れて行かれてしまった。衰弱していた母も、だ。
わたしは無作法に伸びた草の中へ入っていく。そこにはあの時のぬくもりはなく、冷たい自然が広がるばかりだ。
土にはミミズ、草には虫が着いている。わたしは彼らを足で払おうとする。だが、彼らは退くどころか、どこかわたしに対して、今では彼らがここの居住者なのだといわんばかりに攻撃的な姿勢を取るばかりだ。
わたしはたじろぎ、困惑する。
わたしが覚えている限りでは、ここの居住者は大人の男女と小さい女の子だったはずだ。わたしはそんな三人に良くして貰った。
大人の男女の名前は覚えていない。だが、小さい女の子のことは覚えている。その女の子の名前は『サキ』といった。
サキは非常に可愛らしい女の子だった。わたしがここに来る十年前にはまだ小学生だったと思う。つまり、今では二十歳そこそこ。
わたしは家から出ることはなかった。理由は、外は危険でいっぱいだからということだった。自分としても、室内は狭く、物足りない感じもあったとはいえ、安全無事に生活できたことはありがたいことだったと思う。身体中のこのキズを負って、改めて強くそう思う。
まさか、夜がこんなにも怖いモノだとは思わなかった。
夜の街は血に餓えた悪魔でいっぱいだ。
暗闇にギロリと光る目、不穏な足音、そしてユラユラと佇む幻影のような影。
夜の闇をわたしは走った。だが、ストリートで鍛えられたヤツラのほうが、わたしより断然早く、わたしは即座に追いつかれてしまった。
ケンカなんかろくにしたこともなかった。相手にしたことがあるといえば、飛び方に規則性を持った白やオレンジのボールに、無抵抗の大人の男女くらいだった。
わたしは必死だった。傷ついても、ここまで帰らなければと必死だった。爪は割れ、皮膚は裂かれ、血は静かに流れ落ちた。
ふらつきながら歩くわたしに、外気の流れがカミソリのように痛くひりついた。
わたしが覚えているに、幸せな生活に歪みが生じたのは八年目辺りだったと思う。その辺りになってから急に大人の男女がよくいいあいをするようになった。
サキは家にいないか、部屋にこもってばかりだった。たまにわたしを部屋に招いては震える腕でわたしを抱き締めていたけれど。
それから整理整頓されていた家の中も散らかり始め、室内の雑然さと家族間の不和が目に見えるようになってきた。
わたしはあくまで傍観者に過ぎなかった。
そして、十年目を迎えたある日、疲弊しきった家族はリビングで何かを話し合っていた。
わたしはドアの向こうでその会話を聴いていただけだったが、彼らが何を話していたのかはよくわからない。
ただ、その後すぐにサキはわたしを自転車に乗せて何処かへ向かった。
今自分が何処にいるかなど、わからなかった。何しろ外の世界をまともに動き回ったのは、薄い闇から少し出た十年前が最後だったから。
十年ーー長いようで短かった。あの頃はヨチヨチ歩きの赤ん坊だったわたしも、今ではすっかり年老いてヨボヨボになってしまった。
玉をなくした年寄りにケンカはキツすぎた。身体から力が抜けていく。わたしはふらつく足で叢から出る。そして、わたしは冷たいアスファルトの上に倒れ、いつ止まるともわからない呼吸を繰り返す。息の止まるその時まで。
皮膚を刺すような冬の冷たい外気が、わたしの神経を鈍らせる。どういうワケか少しばかり温かくなってきた気がする。瞼が重い。流石に疲れたのだろう。わたしは浅く息を吐く。
最後の最後にサキが見せた表情がフラッシュバックする。サキは涙を流しながら、「ごめんね」といって、わたしを河原に下ろした。
それを最後にサキはその場から姿を消した。
自転車に乗り、遠ざかっていくサキの背中を、わたしはワケもわからずに眺めていた。
だが、今ならその意味がわかる。
わたしは捨てられたのだ。
だが、それでもわたしの目に浮かぶのはサキのあどけない笑顔だけだった。例え、自分がどんな酷い状況にあるとしてもーー
サキ、お幸せに。
わたしの首に着いた鈴がチリンと鳴る。
わたしはゆっくりと目を閉じたーー
わたしはそれを見て硬直する。身体はいつの間にかキズだらけになっているが、何とかここまで帰って来れた。だが、その結果がこの伸びに伸びたワイルド・フロンティアーー
これはどういうことだろう。
ここはわたしにとって、いつもの場所だったはずだった。
わたしは呆然とするばかり。涙なんて出ない。というより、涙を出す能力に乏しいというべきなのだろうか。もしかしたら、ここに帰って来るまでに、右の目を潰してしまったのがマズかったのかもしれない。
微かな記憶が頭を過る。
わたしはとても狭い場所で生まれた。微かな光が差す、薄暗い場所。何となく覚えているのは、母が非常に衰弱していたということ。グッタリと横になりながらも、決して何事にも屈しないという姿勢を見せていた。
あと覚えているのは、わたしの横にはわたしと同様たくさんの赤ん坊がいたということだ。
あの赤ん坊たちは何処へ行ってしまったのだろう。みんな目もろくに開かないチビだったが、きっと今ではわたしと同様の大人ーーいや、老人になっていることだろう。
下手したらもう既にーー
そう考えると、身体中キズだらけで、右目を潰した程度で済んだわたしは比較的ついているのかもしれない。だって、わたしはまだ生きているのだから。
しかし、わたしはどうしてここにいるのだろう。わたしは、確かにここで幸せな生活を送っていたはずだった。ボロボロではあるが、その名残をわたしは未だに身につけている。
確か、わたしが薄暗い闇の中から引き出されて少しした辺りのことである。木造でモノが溢れ返ったーーだが、それでも整理整頓された室内に、わたしは連れていかれた。
他のチビたちは一緒じゃなかった。チビたちはチビたちで、何処かへ連れて行かれてしまった。衰弱していた母も、だ。
わたしは無作法に伸びた草の中へ入っていく。そこにはあの時のぬくもりはなく、冷たい自然が広がるばかりだ。
土にはミミズ、草には虫が着いている。わたしは彼らを足で払おうとする。だが、彼らは退くどころか、どこかわたしに対して、今では彼らがここの居住者なのだといわんばかりに攻撃的な姿勢を取るばかりだ。
わたしはたじろぎ、困惑する。
わたしが覚えている限りでは、ここの居住者は大人の男女と小さい女の子だったはずだ。わたしはそんな三人に良くして貰った。
大人の男女の名前は覚えていない。だが、小さい女の子のことは覚えている。その女の子の名前は『サキ』といった。
サキは非常に可愛らしい女の子だった。わたしがここに来る十年前にはまだ小学生だったと思う。つまり、今では二十歳そこそこ。
わたしは家から出ることはなかった。理由は、外は危険でいっぱいだからということだった。自分としても、室内は狭く、物足りない感じもあったとはいえ、安全無事に生活できたことはありがたいことだったと思う。身体中のこのキズを負って、改めて強くそう思う。
まさか、夜がこんなにも怖いモノだとは思わなかった。
夜の街は血に餓えた悪魔でいっぱいだ。
暗闇にギロリと光る目、不穏な足音、そしてユラユラと佇む幻影のような影。
夜の闇をわたしは走った。だが、ストリートで鍛えられたヤツラのほうが、わたしより断然早く、わたしは即座に追いつかれてしまった。
ケンカなんかろくにしたこともなかった。相手にしたことがあるといえば、飛び方に規則性を持った白やオレンジのボールに、無抵抗の大人の男女くらいだった。
わたしは必死だった。傷ついても、ここまで帰らなければと必死だった。爪は割れ、皮膚は裂かれ、血は静かに流れ落ちた。
ふらつきながら歩くわたしに、外気の流れがカミソリのように痛くひりついた。
わたしが覚えているに、幸せな生活に歪みが生じたのは八年目辺りだったと思う。その辺りになってから急に大人の男女がよくいいあいをするようになった。
サキは家にいないか、部屋にこもってばかりだった。たまにわたしを部屋に招いては震える腕でわたしを抱き締めていたけれど。
それから整理整頓されていた家の中も散らかり始め、室内の雑然さと家族間の不和が目に見えるようになってきた。
わたしはあくまで傍観者に過ぎなかった。
そして、十年目を迎えたある日、疲弊しきった家族はリビングで何かを話し合っていた。
わたしはドアの向こうでその会話を聴いていただけだったが、彼らが何を話していたのかはよくわからない。
ただ、その後すぐにサキはわたしを自転車に乗せて何処かへ向かった。
今自分が何処にいるかなど、わからなかった。何しろ外の世界をまともに動き回ったのは、薄い闇から少し出た十年前が最後だったから。
十年ーー長いようで短かった。あの頃はヨチヨチ歩きの赤ん坊だったわたしも、今ではすっかり年老いてヨボヨボになってしまった。
玉をなくした年寄りにケンカはキツすぎた。身体から力が抜けていく。わたしはふらつく足で叢から出る。そして、わたしは冷たいアスファルトの上に倒れ、いつ止まるともわからない呼吸を繰り返す。息の止まるその時まで。
皮膚を刺すような冬の冷たい外気が、わたしの神経を鈍らせる。どういうワケか少しばかり温かくなってきた気がする。瞼が重い。流石に疲れたのだろう。わたしは浅く息を吐く。
最後の最後にサキが見せた表情がフラッシュバックする。サキは涙を流しながら、「ごめんね」といって、わたしを河原に下ろした。
それを最後にサキはその場から姿を消した。
自転車に乗り、遠ざかっていくサキの背中を、わたしはワケもわからずに眺めていた。
だが、今ならその意味がわかる。
わたしは捨てられたのだ。
だが、それでもわたしの目に浮かぶのはサキのあどけない笑顔だけだった。例え、自分がどんな酷い状況にあるとしてもーー
サキ、お幸せに。
わたしの首に着いた鈴がチリンと鳴る。
わたしはゆっくりと目を閉じたーー