【明日、白夜になる前に~伍拾伍~】
文字数 2,505文字
電車内の白色灯は寂しく冷たい。
窓の外の景色は、トンネルを潜る度に揺らめき、現実と夢想の狭間を揺らがせる。
少し時間が遅くなってしまった気がするが、それでも車内には疲れた顔や赤ら顔のサラリーマンや、友人とえらく楽しそうに会話を交わす学生たち、ゴスロリ姿の女など、その顔ぶれはバラエティに富んだ印象だった。
ぼくはそんな車内の誰とも違った印象で、ただ目を血走らせていた。意図的にそうしていたワケではない。ぼくの中に巣食う得体の知れない緊張感と不安が、ぼくから警戒することを忘れさせてくれないのだ。
それにしても、この不安な感じは何だ。ぼくは何かに気づいている。だが、それが何か断言することはできない。でも、知っている。この不安な感じ。あの時、ぼくが味わった苦痛。不思議とないはずの右腕が疼く。
スマホを見る。メッセージはなし。宗方さんとのメッセージ画面を開く。既読にはなっていない。それが不安で仕方なかった。
ぼくは精神的に弱いタイプの人間ではあるが、もはや変に他人に依存するタイプの人間ではなくなっていたし、所謂メンヘラ的な性質も持っていないと思っている。下手に相手にメッセージを強要するなどバカ馬鹿しいし、そんなことをするほど自分の時間を割きたいというほど、人に対する情も持ち合わせていない。
だが、今は違う。宗方さんからの連絡がないことが何よりも不安だった。既読にすらならないことが何よりも不安だった。
もしかしたら、彼女の身に何かあったのではないか。不安と緊張が風船のように膨らみ、破裂寸前で悲鳴を上げる。
黒澤さんとのやり取りを終えて席に戻った後、ぼくと宗方さんはその後のことを少し話し合ってから解散した。その際は彼女が先に店を出、その五分、十分程度して彼女が電車に乗り込んだという連絡を確認してから、ぼくひとりで店を後にする、とそんな形にした。
夜道を女性ひとりで歩かせるのはどうかと思うかもしれないが、ぼくは逆に、彼女がぼくと一緒に歩いていることのほうが危険なのでは、と考えていた。
その理由はやはり、今自分が感じているこの漠然とした不安が原因なのはいうまでもない。
ぼくがそのことを宗方さんに告げると、宗方さんは多少の躊躇いは見せたが、渋々ながら同意してくれた。ありがたい限りだった。
彼女が店を出てから十分ほどして、連絡があった。何ともなく電車に乗ることが出来た、ということだった。ぼくは思わず胸を撫で下ろした。だが、ひとつの緊張が終わると、また新しい緊張がやって来る。ぼくに休む暇など与えられていなかった。
そして今は電車の中。そこにあるのは移り変わる景色と取るに足らない背景のような人たち。やけに長く思える時間の流れに、ぼくは吐き気を覚える。酒を飲んだワケでもない、電車に酔ったワケでもない。
でも、何故か自分の内から込み上げてくる漫然とした不安が胃腸を締め付け、中のモノを逆流させようとしてくる。
ぼくはちょくちょく電車を降りて呼吸を整えながら、帰路についた。いつもならそこまで時間も掛からない通勤時間も、この時ばかりは二倍弱の時間が掛かってしまった。
地元の駅に着き改札を出る。普通なら自分のホームグラウンドに足をつければ、こころに余裕や安心感が訪れるのが普通なのだが、ここ最近、特に今日に限っていえば更なる緊張感に煽られることとなった。
もし、もしぼくの勘が正しければ、一番の危険地帯はここなのではないか。そう思った。
ぼくは早足で家までの道のりを歩く、歩くーー歩く、早く、うしろを気にしながら。
振り向きはしない。ただ、うしろへの意識は途切らせない。そうこうしていると気づけば家に着いている。ぼくは玄関扉に鍵が掛かっていることを確認して、解錠し、家に入るとすぐさま施錠する。ここまで来ても安心は出来ない。
ぼくは親父がどうしているかを確認するため、家の中を回る。親父は自室で既に眠っていた。ホッとひと息つき、ぼくは静かに親父の部屋の扉を閉める。
それから自室へ入ると窓の外を覗き込む。
誰もいない。
何度確認しても不審な姿はない。
ぼくはカーテンをゆっくり閉めると、ネクタイを緩めつつ、尻ポケットに突っ込んでいたスマホを取り出してメッセージを確認する。
宗方さんからのメッセージはなかった。
ぼくは恐怖に駆られる。寒気というか、身体の内部から粟立って来るような恐怖感が込み上げてくる。目が冴える。恐怖がやって来る。
追撃のメッセージはウザイだけだとわかっている。メッセージのセルに文章を打ち込みはするが、送信をタップすることが出来ない。
いや、ぼくと彼女は単なる先輩と後輩。それだけの関係。ぼくに不利になりうることとしたら、それは会社での、特に女子間における肩身が非常に狭くなるくらいだろう。だが、最悪の結果に終わるのに比べたら、その程度では大したキズにはならないはずだ。
ぼくはメッセージをすべて消し、宗方さんにコールする。呼び出し音の一回一回が無機質で不気味だった。そのスパンも永遠のように長く感じられる。
一回……
二回…………
三回………………
四回目……………………、繋がった。
「もしもし?」宗方さんの声。
「宗方さん?」ぼくの声は強張っている。「大丈夫? 何ともない?」
「え? あぁ、大丈夫です。ちょっと眠くて」
「あぁ、突然ごめんよ。でも、何だかすごく心配になっちゃって」
宗方さんは沈黙する。ぼくは不安になる。何かことばを継ごうかと思ったところ、
「ありがとうございます。でも、斎藤さん。それは後輩としてですか?」
彼女は緊張感に満ち満ちた声色でいう。
「え?」ぼくは返答に困った。「そう、だけど……?」
宗方さんは再び沈黙し、少ししてから、
「……そう、ですよね。心配してくれて、ありがとうございました。では、また会社で……」
電話が切れた。彼女の無事を知れたのは良かったが、ぼくのマインドはどういうワケか不安定に揺れていた。
もっと答え方があったのはわかっていた。だが、そうは答えなかった。ぼくは今、不信感に支配されている。
ぼくは、ひとりだった。
【続く】
窓の外の景色は、トンネルを潜る度に揺らめき、現実と夢想の狭間を揺らがせる。
少し時間が遅くなってしまった気がするが、それでも車内には疲れた顔や赤ら顔のサラリーマンや、友人とえらく楽しそうに会話を交わす学生たち、ゴスロリ姿の女など、その顔ぶれはバラエティに富んだ印象だった。
ぼくはそんな車内の誰とも違った印象で、ただ目を血走らせていた。意図的にそうしていたワケではない。ぼくの中に巣食う得体の知れない緊張感と不安が、ぼくから警戒することを忘れさせてくれないのだ。
それにしても、この不安な感じは何だ。ぼくは何かに気づいている。だが、それが何か断言することはできない。でも、知っている。この不安な感じ。あの時、ぼくが味わった苦痛。不思議とないはずの右腕が疼く。
スマホを見る。メッセージはなし。宗方さんとのメッセージ画面を開く。既読にはなっていない。それが不安で仕方なかった。
ぼくは精神的に弱いタイプの人間ではあるが、もはや変に他人に依存するタイプの人間ではなくなっていたし、所謂メンヘラ的な性質も持っていないと思っている。下手に相手にメッセージを強要するなどバカ馬鹿しいし、そんなことをするほど自分の時間を割きたいというほど、人に対する情も持ち合わせていない。
だが、今は違う。宗方さんからの連絡がないことが何よりも不安だった。既読にすらならないことが何よりも不安だった。
もしかしたら、彼女の身に何かあったのではないか。不安と緊張が風船のように膨らみ、破裂寸前で悲鳴を上げる。
黒澤さんとのやり取りを終えて席に戻った後、ぼくと宗方さんはその後のことを少し話し合ってから解散した。その際は彼女が先に店を出、その五分、十分程度して彼女が電車に乗り込んだという連絡を確認してから、ぼくひとりで店を後にする、とそんな形にした。
夜道を女性ひとりで歩かせるのはどうかと思うかもしれないが、ぼくは逆に、彼女がぼくと一緒に歩いていることのほうが危険なのでは、と考えていた。
その理由はやはり、今自分が感じているこの漠然とした不安が原因なのはいうまでもない。
ぼくがそのことを宗方さんに告げると、宗方さんは多少の躊躇いは見せたが、渋々ながら同意してくれた。ありがたい限りだった。
彼女が店を出てから十分ほどして、連絡があった。何ともなく電車に乗ることが出来た、ということだった。ぼくは思わず胸を撫で下ろした。だが、ひとつの緊張が終わると、また新しい緊張がやって来る。ぼくに休む暇など与えられていなかった。
そして今は電車の中。そこにあるのは移り変わる景色と取るに足らない背景のような人たち。やけに長く思える時間の流れに、ぼくは吐き気を覚える。酒を飲んだワケでもない、電車に酔ったワケでもない。
でも、何故か自分の内から込み上げてくる漫然とした不安が胃腸を締め付け、中のモノを逆流させようとしてくる。
ぼくはちょくちょく電車を降りて呼吸を整えながら、帰路についた。いつもならそこまで時間も掛からない通勤時間も、この時ばかりは二倍弱の時間が掛かってしまった。
地元の駅に着き改札を出る。普通なら自分のホームグラウンドに足をつければ、こころに余裕や安心感が訪れるのが普通なのだが、ここ最近、特に今日に限っていえば更なる緊張感に煽られることとなった。
もし、もしぼくの勘が正しければ、一番の危険地帯はここなのではないか。そう思った。
ぼくは早足で家までの道のりを歩く、歩くーー歩く、早く、うしろを気にしながら。
振り向きはしない。ただ、うしろへの意識は途切らせない。そうこうしていると気づけば家に着いている。ぼくは玄関扉に鍵が掛かっていることを確認して、解錠し、家に入るとすぐさま施錠する。ここまで来ても安心は出来ない。
ぼくは親父がどうしているかを確認するため、家の中を回る。親父は自室で既に眠っていた。ホッとひと息つき、ぼくは静かに親父の部屋の扉を閉める。
それから自室へ入ると窓の外を覗き込む。
誰もいない。
何度確認しても不審な姿はない。
ぼくはカーテンをゆっくり閉めると、ネクタイを緩めつつ、尻ポケットに突っ込んでいたスマホを取り出してメッセージを確認する。
宗方さんからのメッセージはなかった。
ぼくは恐怖に駆られる。寒気というか、身体の内部から粟立って来るような恐怖感が込み上げてくる。目が冴える。恐怖がやって来る。
追撃のメッセージはウザイだけだとわかっている。メッセージのセルに文章を打ち込みはするが、送信をタップすることが出来ない。
いや、ぼくと彼女は単なる先輩と後輩。それだけの関係。ぼくに不利になりうることとしたら、それは会社での、特に女子間における肩身が非常に狭くなるくらいだろう。だが、最悪の結果に終わるのに比べたら、その程度では大したキズにはならないはずだ。
ぼくはメッセージをすべて消し、宗方さんにコールする。呼び出し音の一回一回が無機質で不気味だった。そのスパンも永遠のように長く感じられる。
一回……
二回…………
三回………………
四回目……………………、繋がった。
「もしもし?」宗方さんの声。
「宗方さん?」ぼくの声は強張っている。「大丈夫? 何ともない?」
「え? あぁ、大丈夫です。ちょっと眠くて」
「あぁ、突然ごめんよ。でも、何だかすごく心配になっちゃって」
宗方さんは沈黙する。ぼくは不安になる。何かことばを継ごうかと思ったところ、
「ありがとうございます。でも、斎藤さん。それは後輩としてですか?」
彼女は緊張感に満ち満ちた声色でいう。
「え?」ぼくは返答に困った。「そう、だけど……?」
宗方さんは再び沈黙し、少ししてから、
「……そう、ですよね。心配してくれて、ありがとうございました。では、また会社で……」
電話が切れた。彼女の無事を知れたのは良かったが、ぼくのマインドはどういうワケか不安定に揺れていた。
もっと答え方があったのはわかっていた。だが、そうは答えなかった。ぼくは今、不信感に支配されている。
ぼくは、ひとりだった。
【続く】