【いろは歌地獄旅~老人の友~】

文字数 2,432文字

 全身に力がみなぎる。

 学生時代は柔道で名を鳴らし、ケンカも負けなし。社会人になってからというもの仕事はバリバリで、女からもモテにモテる。金もあるし、酒に煙草に女と夜通し遊ぶ。

 家庭に納まった後は、一家の大黒柱として厳しく家庭を統制し、まとめあげる。家内と子供の自分勝手は許さない。何があっても、すべての決定権は自分にある。何もかもが絶好調ーー

 だったのはもう何十年も前のことだ。

 今の彼は身体を悪くしてとある病院の一室で立ち上がることも出来ずに外の景色を少しでも覗き込もうと首を持ち上げようとしている。

 若い頃の体力などまったくといっていいほどに残っていない。すべてをバリバリこなせていたのも所詮は過去の話。

 今の彼は孤独という暗い坩堝の中でただひとり。奥さんは何十年も前に心労で倒れて亡くなっている。子供たちは彼という暴君を嫌って今では彼の前に姿を現すどころか、連絡すら寄越さない。ヤンチャでイケていた彼も今となっては孤独な老人でしかない。

 顔からは覇気がなくなり、孤独の寂しさを撥ね付けようと目はつり上がり、顔には険しいシワが何重にも連なっている。看護師にはどこか強がって全盛期のような強堅な姿勢を見せるが、力をなくした今の彼がそんなことをしたところで、ただの迷惑な老人でしかなかった。

 窓の外では木枯らしが吹いていることだろう。もしかしたら、ハゲかけた木に残ったたった一枚の枯れ葉が今にも木から離れて風に舞うかもしれない。だが、身体を起こせない彼にはそれを確認する術もない。

 今、彼に外界の大気を感じ取る唯一の手掛かりとなっているのは、病室内を駆け巡るエアコンの空気だけとなっている。夏ならば冷風が、冬ならば暖房が室内を包み、外が暑いのか、寒いのか、おおよその季節の検討がつく。

 今日もまた暖かい空気が彼の周りを飛び交っている。まず間違いなく、外は真冬だろう。

 煩わしい点滴。彼は何度となくそれを引き抜こうとした。だが、そんなことは出来なかった。かつては筋骨隆々だった肉体も今では痩せ細り、まともに動かなくなっていたからだ。

 彼の目は拗ねたようにつり上がっている。だが、その瞳の奥にはいいようのない寂しさが蝋燭に灯った灯火のように揺れている。潤った目。孤独は確実に彼のこころを蝕んでいた。

 そんな中、彼は微かな笑みを浮かべる。彼にとってただひとりの友人が現れたのだ。

 漆黒の身体を持つその友人は、彼の目の前に現れては布団の上で彼に話し掛けることもなく静止し続けるのだ。その友人とはーー

 ゴキブリだった。

 一般的には汚らわしく嫌われているゴキブリも、今の彼にとってはかけがえのない友人となっていた。人間の友人がいない今の彼にとっては、自分の目の前に現れて、ただ何もいわずに話を聴いてくれる唯一の存在だったからだ。

「おぉ……、今日も来てくれた……か……」

 今にも消え入りそうな声。彼はゆっくりと微笑む。ゴキブリはまるで彼の歓迎に応えるように触覚をくりくりと回す。

 本当に不思議なのだが、このゴキブリはどうも老人の布団の上に現れては、老人が喋り疲れて眠ってしまうまでは、ずっと静止しているのだ。そのルーティンから見るに、恐らくは同じゴキブリであることも予想できた。

「ここ最近は……、毎日来てくれて嬉しいよ……」

 ゴキブリは触覚を動かしてリアクションを取る。彼はいつものようにゴキブリに話し掛け始める。

「今日は寒いんだろうなぁ……、アンタ、冬なのに、よく生き延びられてるねぇ……。暖かい場所を見つけたのかな……?」

 ゴキブリは相変わらず触覚を動かし続けるだけだ。が、彼にはそれでも構わない。

「おれも……、アンタみたいに力強く生きたかったよ……」彼は微笑みつつも力ない声色でいう。「おれは……本当にバカだった……。自分ひとりで何でも出来ると思っていた……し、自分のすることは……、すべて正しいと思っていた……。でも、それは……間違いだったんだ……」

 彼の声に涙色がにじむ。何もかもが無念で仕方ないといった調子。彼は一度ことばをグッと飲み込む。というより、強く込み上げてくる感情が、彼からことばを奪ったようだった。

「……何故、誰もこうなると教えてくれなかったんだ、と世を恨みたくもなった」彼は漸くことばを紡ぐ。「だが、そんなのは所詮は自分次第だったんだ……。おれが好き勝手やって来た結果だったんだよ……」

 彼の目から涙が溢れ出す。鼻水をすすり、拭うことすらままならない涙をいたずらに流し続ける。ゴキブリはそんな彼の前にただただ佇んでいる。

「傲慢にならなければ良かった……、もっと、人に気を掛けてやれば良かった……。そうすれば、家内も……。息子たちもおれのことを見捨てずにいてくれたと思うんだ……」涙は止まらない。「悔しい……。どうして、どうしておれは……」

 鼻水をすする彼は、空元気な笑みを浮かべる。だが、ゴキブリは何の表情もなくその場に留まるばかりだ。彼はいうーー

「おれもアンタも嫌われモノ同士。存在するだけで人に不快な思いを与えてしまう。アンタも辛かったろうな。人から疎まれ、蔑まれ……。おれもそうなって漸くアンタの気持ちがわかった気がするよ」目を伏せる彼ーー「アンタだけだよ、おれを見捨てずにこうやって話を聴いてくれるのは……」

 こころなしか、ゴキブリが頭を垂らしたよう。触覚の動きも小さくなったように見える。

「……それがあなたの人生だったのだ」

 彼の耳にそんな声が届いたようだった。彼は可能な限り頭を持ち上げてゴキブリを見、

「……アンタ、喋れるのか!?」

「だが、あなたは最後の最後に自分の罪を悔いることが出来た。それだけであなたの人生は上出来だ。人間、どんなに過程に問題があろうと、大事なのは最後にどうするか、なのだ。ご苦労様。……時間だ」

 彼はコクりと頷く。それから少しして、彼の手から一切の力が抜けた。

 孤独な老人の最後にしては、穏やかな顔だったそうだーー
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登場人物紹介

どうも!    五条です!


といっても、作中の登場人物とかではなくて、作者なんですが。


ここでは適当に思ったことや経験したことをダラダラと書いていこうかな、と。


ま、そんな感じですわ。

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