【いろは歌地獄旅~悪意~】
文字数 2,170文字
善意と悪意、相反するふたつの事象もいってしまえば、これはコインの表の裏。
善意に対して悪意は存在し、悪意に対して善意は存在する。即ち、これは善意がなければ悪意はなく、悪意がなければ善意は存在しない、ということだ。
そう、ポジティブだろうがネガティブだろうが、単体では存在し得ない、ということだ。
だが、これは逆にいえば、善意が悪意に、悪意が善意になってしまうことも有り得るということだ。それこそがコインの裏と表。表裏が一体だからこそ、ふたつの事象は成り立つ。
大場信二郎は二十代半ばの男だ。定職には就いていない。理由としては、「何者か」になりたいからだ。だが、それが何かは具体的には決まっていない。
そんな中途半端な考えでプラプラしているくらいなら、さっさと定職に就いたほうがいいというのは、一般的な考え方だろう。だが、信二郎にはそうすることは出来なかった。というより、その選択が出来ない立場だった。
そんな可笑しなことが有り得るのか、とも思われるかもしれないが、それは事実だった。
厳密にいえば、就職を許されていないワケではない。明確な期限さえ設ければ、信二郎は就職してもいいということになっている。
何故なら、それが世間の動きや世間の人がどのようなモノかを知ること、見極めることに繋がるから、ということだ。
信二郎の両親にとっては、その世間の動きや世間の人というのが、丸々ビジネスを種になるから、ということだった。
だからこそ、信二郎は就職したくなかった。就職を拒み続ければ、あることから逃げられるかもしれないという希望があったからだ。
はじめはバンドマンか、俳優かタレントといった芸能の世界に飛び込んでみようと思った。実際にそうしてみようかと行動もしてみた。だが、それは逆に両親の思う壺だと気づいてしまったのだ。そう、
何もかもが上手く行き過ぎてしまうのだ。
上手く行くのならいいではないかと思われるかもしれない。だが、それが自分の実力がまったく関係のないモノの影響でそうなっているのなら、良いとはいえない。
いや、むしろ悪い。
自分の力で上に上がったのでなければ意味がなかった。自分の力を示す、それこそが信二郎の一番の目的だったのだから。
だが、それもダメだった。
原因は両親にあった。
信二郎の両親は芸能関係者ではない。だが、信二郎の能力は両親の手によって大きく水増しされていた。
信二郎の両親は、日本全国にまたがる、巨大な新興宗教の代表と副代表だった。
その信者の中には、芸能関係だけでなく、様々な業界の人間がいる。つまり、ひとつのコミュニティの中で、あらゆる業界の事情を内包している、ということになってしまう。
だからこそ、信二郎が何をしても自分の力を持たずして、上手く行くだけの見えない力が働いてしまう、ということだった。
元来、信二郎は無能でもなければ、出来損ないでもない。むしろ、優秀な部類に入る。だからこそ、何もせずとも簡単に成功してしまうこの状況に嫌気が差していた。
その結果、選択肢は食い荒らされ、もはや行くも退くも出来ない状況となっていた。
そう、芸能関係で信二郎が成功すれば、教団のいい広告塔になる。そしていずれは、教団の跡継ぎをする。これが両親によって敷かれた信二郎の人生のレールだった。
そして今、信二郎は総本山の代表室にて、両親と共に会っている。信二郎の顔は緊張により強張り、手足は落ち着きをなくしている。
「やっと、跡を継ぐ気になったか」信二郎の父が皮張りのソファに深く腰掛けていった。
「誰が、そんなこと」そうはいっても、信二郎のことばには自信が感じられなかった。
「いい? アナタが教団を継いでくれれば、それだけでもわたしたちは満足なの。だからお願い。戻ってきて? だからこそ今日はここまで来たんでしょ?」
「違えよ」信二郎はいった。「……もう、おれに干渉すんのは止めろよ。おれは自分の力で何とかやって行きたいんだよ」
「自分の力で?」父。「何をいう。お前は我が教団の次代の代表なんだぞ?」
「だから、それを止めろっていってんだよ」
「お父様はね、善意で信二郎のためをいっているんですよ」と母。
「善意、だぁ? そんな善意、いらねぇよ。そんなん、むしろ善意の振りをした悪意と変わんねぇじゃねえか。大体、何の力もないクセに、良く適当なこといって人を騙せるよな」
「信二郎!」
母が叱責しようとすると、父がそれを制し、ゆっくりとことばを吐き出し始めた。
「そうだ。確かにわたしたちには何の力もない」
「あなた!」
父が声を荒げる母を制して、更に続ける。
「……確かにわたしのやっていることはインチキ。金のためにやっている悪意のビジネスそのものかもしれない。でも、よく見てみろ。わたしたちの教団がなくなったら、今わたしたちにすがっている信者はどうなる? 彼らはわたしたちにすがることで幸せを感じている。そう、お前のいう『悪意』によって、彼らは幸福を得ているんだ。ならば、それは逆に『善意』として機能している、とはいえないかな?」
「それは……!」
信二郎に返すことばはなかった。確かに個人の悪意が他人の善意になることは有り得る。そうなった時、その悪意はどうするべきなのか。
信二郎は黙り込むしかなかった。
善意に対して悪意は存在し、悪意に対して善意は存在する。即ち、これは善意がなければ悪意はなく、悪意がなければ善意は存在しない、ということだ。
そう、ポジティブだろうがネガティブだろうが、単体では存在し得ない、ということだ。
だが、これは逆にいえば、善意が悪意に、悪意が善意になってしまうことも有り得るということだ。それこそがコインの裏と表。表裏が一体だからこそ、ふたつの事象は成り立つ。
大場信二郎は二十代半ばの男だ。定職には就いていない。理由としては、「何者か」になりたいからだ。だが、それが何かは具体的には決まっていない。
そんな中途半端な考えでプラプラしているくらいなら、さっさと定職に就いたほうがいいというのは、一般的な考え方だろう。だが、信二郎にはそうすることは出来なかった。というより、その選択が出来ない立場だった。
そんな可笑しなことが有り得るのか、とも思われるかもしれないが、それは事実だった。
厳密にいえば、就職を許されていないワケではない。明確な期限さえ設ければ、信二郎は就職してもいいということになっている。
何故なら、それが世間の動きや世間の人がどのようなモノかを知ること、見極めることに繋がるから、ということだ。
信二郎の両親にとっては、その世間の動きや世間の人というのが、丸々ビジネスを種になるから、ということだった。
だからこそ、信二郎は就職したくなかった。就職を拒み続ければ、あることから逃げられるかもしれないという希望があったからだ。
はじめはバンドマンか、俳優かタレントといった芸能の世界に飛び込んでみようと思った。実際にそうしてみようかと行動もしてみた。だが、それは逆に両親の思う壺だと気づいてしまったのだ。そう、
何もかもが上手く行き過ぎてしまうのだ。
上手く行くのならいいではないかと思われるかもしれない。だが、それが自分の実力がまったく関係のないモノの影響でそうなっているのなら、良いとはいえない。
いや、むしろ悪い。
自分の力で上に上がったのでなければ意味がなかった。自分の力を示す、それこそが信二郎の一番の目的だったのだから。
だが、それもダメだった。
原因は両親にあった。
信二郎の両親は芸能関係者ではない。だが、信二郎の能力は両親の手によって大きく水増しされていた。
信二郎の両親は、日本全国にまたがる、巨大な新興宗教の代表と副代表だった。
その信者の中には、芸能関係だけでなく、様々な業界の人間がいる。つまり、ひとつのコミュニティの中で、あらゆる業界の事情を内包している、ということになってしまう。
だからこそ、信二郎が何をしても自分の力を持たずして、上手く行くだけの見えない力が働いてしまう、ということだった。
元来、信二郎は無能でもなければ、出来損ないでもない。むしろ、優秀な部類に入る。だからこそ、何もせずとも簡単に成功してしまうこの状況に嫌気が差していた。
その結果、選択肢は食い荒らされ、もはや行くも退くも出来ない状況となっていた。
そう、芸能関係で信二郎が成功すれば、教団のいい広告塔になる。そしていずれは、教団の跡継ぎをする。これが両親によって敷かれた信二郎の人生のレールだった。
そして今、信二郎は総本山の代表室にて、両親と共に会っている。信二郎の顔は緊張により強張り、手足は落ち着きをなくしている。
「やっと、跡を継ぐ気になったか」信二郎の父が皮張りのソファに深く腰掛けていった。
「誰が、そんなこと」そうはいっても、信二郎のことばには自信が感じられなかった。
「いい? アナタが教団を継いでくれれば、それだけでもわたしたちは満足なの。だからお願い。戻ってきて? だからこそ今日はここまで来たんでしょ?」
「違えよ」信二郎はいった。「……もう、おれに干渉すんのは止めろよ。おれは自分の力で何とかやって行きたいんだよ」
「自分の力で?」父。「何をいう。お前は我が教団の次代の代表なんだぞ?」
「だから、それを止めろっていってんだよ」
「お父様はね、善意で信二郎のためをいっているんですよ」と母。
「善意、だぁ? そんな善意、いらねぇよ。そんなん、むしろ善意の振りをした悪意と変わんねぇじゃねえか。大体、何の力もないクセに、良く適当なこといって人を騙せるよな」
「信二郎!」
母が叱責しようとすると、父がそれを制し、ゆっくりとことばを吐き出し始めた。
「そうだ。確かにわたしたちには何の力もない」
「あなた!」
父が声を荒げる母を制して、更に続ける。
「……確かにわたしのやっていることはインチキ。金のためにやっている悪意のビジネスそのものかもしれない。でも、よく見てみろ。わたしたちの教団がなくなったら、今わたしたちにすがっている信者はどうなる? 彼らはわたしたちにすがることで幸せを感じている。そう、お前のいう『悪意』によって、彼らは幸福を得ているんだ。ならば、それは逆に『善意』として機能している、とはいえないかな?」
「それは……!」
信二郎に返すことばはなかった。確かに個人の悪意が他人の善意になることは有り得る。そうなった時、その悪意はどうするべきなのか。
信二郎は黙り込むしかなかった。