【藪医者放浪記~零~】

文字数 2,115文字

 空は何処までも澄み渡り、雲は微かに青を覆っている。

 前日の雨がウソのよう。ぬかるんだ道と葉を濡らす雨水だけが、その名残を物語っている。

 常州は水戸街道の泥濘が敷き詰められた悪路を、二十から三十の人間が束になって歩いている。その中心には乗物と呼ばれる上等な駕籠。荘厳な装飾が、中にいる人物の格の高さを物語っている。また、駕籠の側には駕籠持ちの足軽とは別に、笠を被った旅姿の武士の姿がある。笠の下から覗ける武士の表情は険しいモノで、口を真一文字に結んで一切の文句も口に出さんといった硬い決意が見て取れる。

 この時代の武士というのは、その昔と比べると格としてはそこまで高くなく、街道をゆく人々もその場にひざまずいたり、頭を下げる必要はなく、だが旅の一行と関わりにならないよう、ただ身を引いて、その様を傍観している。

 そんな中、荷車を引いた老夫婦が、その身持ちを崩してしまい、行列の前に立ちはだかってしまった。無礼者。直ちに激烈な叱責が飛び交う。老夫婦は申し訳ありませんと即座に地面にひざまずき、手のひらと額をぬかるんだ道に擦り付ける。だが、その無礼は道ゆく行列の者たちに火をつけたまま鎮まることはない。

「どうした?」

 乗物の中からやや高めだが、どこか重々しい声が聴こえる。だが、周りの者は答えあぐねており、口をむずむずさせるばかりで、具体的なことばを発することはない。

「牛野、どういうことだ?」

 駕籠の中の者がそう訊ねると、牛野と呼ばれた、乗物の側を歩いていた笠を被った侍が一度控えてからそのことばに応じる。

「はっ、我々の行列の前に老夫婦が飛び出して来まして」

「……降ろせ」

 乗物の中の声は冷えきっている。周りの人間はギョッとし、困惑している。

「いいから降ろせ!」

 駕籠持ちの足軽たちは急いで、だが丁寧に乗物をぬかるんだ道の上に下ろし、戸を引く。

「藤十郎様、大丈夫でございましょうか」

 身を屈めた牛野が訊ねると、藤十郎と呼ばれた男は、「履き物」といって、戸の前に雪駄を用意させると、それを履いてゆっくりと乗物から出て来ると、立ち上がって大きく息を吐く。

 藤十郎の切れ長な目が、流し気味に老夫婦を捉える。

「某、常州水戸の国は武田家の長男である『武田藤十郎』と申す者。我々の前に飛び出して来たのは己らか?」

 だが、老夫婦は返事はしない。というより、身体を震わせて、恐怖で返事が出来ない、といったほうが正しかったのかもしれない。

「答えよ。我が一行の前に飛び出して来たのは、己らで間違いないな?」

「ゆ、許して下せえだ! オラたちゃ、そんなことするつもりは滅相も……」

 藤十郎は口許を緩ませる。

「無礼討ち。切り捨て御免だ」

 老夫婦の身体に緊張が走る。そして、それは老夫婦だけにとどまらず、牛野を除いた藤十郎の配下の者たちにも広まり、仲間内で顔を見合わせている。

「早くしないか!」

 藤十郎が叫ぶと周りの者たちがあたふたと動き始める。そして、配下のひとりが大小二本の木刀を藤十郎の前に差し出すと、藤十郎は小木刀のほうを左手に取り、もう一方の大木刀を右手で取って老夫婦のほうへ放り投げる。

 老爺の前にて、大木刀が落ちる。老爺はそれを見て、呆然と藤十郎のほうを見る。

「取れ」藤十郎は非情なまでにいう。

「い、いえ! ですが……!」

「藤十郎様、何ならわたくしが……」

 が、藤十郎は首を横に振る。

「やるといって、貴様はその真剣を使うつもりか? そんなことすれば、直参とはいえ、懲罰は免れられん。控えてろ」

 藤十郎のことばに、牛野はひと礼をし、下がる。藤十郎は老爺に向かっていう。

「心配するな。おれは殺生が嫌いでな。命までは取ろうとは思わん。だが、このままではメンツが立たんのでな。それに、おれは小刀、己は大刀と有利なのは明らか。さぁ、立て。でないと、本当に切り捨てなければならなくなるぞ」

 そのことばで、老爺は木刀を握る。老婆は老爺の身を案じるが、老爺は老婆に大丈夫だと声を掛けて立ち上がり、木刀を構える。顔は強張り、木刀を握る手はガチガチになっている。

「では、参ろうか……」

 藤十郎が小刀を構える。

 静寂。

 にらみ合い。

 先に動いたのは老爺だ。木刀を振り上げ、一気に突進して行く。

 勝負は一瞬だった。

 次の瞬間には老爺の木刀は弾かれ、藤十郎の小刀が老爺のこめかみ前にて静止している。

 老爺はその場にへたり込み、股関を濡らす。

 藤十郎はやや勝ち誇ったような笑みを浮かべて、行くぞと乗物の中へ戻る。

 藤十郎が駕籠に乗ると、一行は二本の木刀と藤十郎の履き物を回収して再び出発する。ただ、牛野だけを残して。

 牛野はただひとり老爺の前に立ちはだかっている。老夫婦は小さく、御無礼、お許し下さい、と繰り返し、涙を流している。

 牛野は老夫婦の前にて屈み込む。

「命は大切にしなされ。もしこれが藤十郎殿でなければ、命を失っていたであろう。生きるのは大変かもしれぬが、少しは身体を労ってやりなされ」牛野は立ち上がる。「では……」

 その場を去ろうとした時、牛野は籔の中へと鋭い視線を投げる。まるで、獲物を睨み付けるような、鋭い切先のような視線だった。

 【続く】
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登場人物紹介

どうも!    五条です!


といっても、作中の登場人物とかではなくて、作者なんですが。


ここでは適当に思ったことや経験したことをダラダラと書いていこうかな、と。


ま、そんな感じですわ。

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