【薮医者放浪記~死拾伍~】
文字数 1,034文字
そう、余裕を持っていられる場合ではなかったのだ。
松平邸はハチャメチャに混乱していた。依然としてお咲の君は話さないし、藤十郎はお咲の君の顔を見たいと食い下がっていた。だが、ことは進まない。
結果として、まずは小休止ということとなり、藤十郎と松平天馬たちは簡易的に食を共にすることとなった。依然として藤十郎はそれよりも早くお咲の君の顔を見て直接お話したいと所望し続けたが、茂作が殆ど強引に話を打ち切らせようとした。そういった態度が藤十郎をイラ立たせたのはいうまでもない。だが、そこを仲裁したのが松平天馬、そして意外や意外、牛野寅三郎だった。
松平側の人間はみな意表をつかれたようになっていた。それもそうだろう、藤十郎側の人間が松平側の肩を持つような姿勢を見せたのだから。とはいえ、寅三郎がそういう姿勢を示したのは非常に大きかった。藤十郎も最初こそは反論しようとしたが、寅三郎も藤十郎のことをよくわかっていたのだろう。お咲の君にもお色直しがある、より美しい姿を拝見なさったほうがよりいいと助言をし、藤十郎はそのことばに何処か不服さを残しつつもわかったといって天馬と共に別室へと引き上げていった。
さて、そんな中で食事の席に参加しなかったのが、本物のお咲の君とお涼、そして茂作だった。お咲の君とお涼は控え室にて待機していた。茂作は中庭にてひとり空を見上げながら大きなため息をついていた。取り敢えずは難所を切り抜けた、そういった趣のある深いため息だった。
「どうされました?」
背後からそんな声が聴こえて来た。茂作は、
「いやぁ、何とかなったなぁ、と」
「何とか、とは?」
「いや、何とかバレずに済んだけど、これからどうするかーー」
そこで茂作はハッとしてうしろを振り返った。と、そこには、
寅三郎がいた。
茂作は思わず声を裏返して腰を抜かした。致命的なことばはいっていないとはいえ、あまりよろしくないことばを相手側の人間に聴かれてしまった。ここまで何とか凌いで来たというのにーーまぁ、本当に凌げていたかは怪しいがーーこれではすべてが水の泡。終わった。ここから更に雪崩式、なし崩しに自分が医者でないこともバレてしまうだろう。
「あぁ、いや、それは!」
「いいですよ、全然」
そういって寅三郎は手を差し出した。茂作はその意をはかりかねていたが、寅三郎がどうぞと譲歩すると、礼をいいながら手を取って立ち上がった。
寅三郎は朗らかに笑っていた。その真意は底無し沼、何も見えなかった。
【続く】
松平邸はハチャメチャに混乱していた。依然としてお咲の君は話さないし、藤十郎はお咲の君の顔を見たいと食い下がっていた。だが、ことは進まない。
結果として、まずは小休止ということとなり、藤十郎と松平天馬たちは簡易的に食を共にすることとなった。依然として藤十郎はそれよりも早くお咲の君の顔を見て直接お話したいと所望し続けたが、茂作が殆ど強引に話を打ち切らせようとした。そういった態度が藤十郎をイラ立たせたのはいうまでもない。だが、そこを仲裁したのが松平天馬、そして意外や意外、牛野寅三郎だった。
松平側の人間はみな意表をつかれたようになっていた。それもそうだろう、藤十郎側の人間が松平側の肩を持つような姿勢を見せたのだから。とはいえ、寅三郎がそういう姿勢を示したのは非常に大きかった。藤十郎も最初こそは反論しようとしたが、寅三郎も藤十郎のことをよくわかっていたのだろう。お咲の君にもお色直しがある、より美しい姿を拝見なさったほうがよりいいと助言をし、藤十郎はそのことばに何処か不服さを残しつつもわかったといって天馬と共に別室へと引き上げていった。
さて、そんな中で食事の席に参加しなかったのが、本物のお咲の君とお涼、そして茂作だった。お咲の君とお涼は控え室にて待機していた。茂作は中庭にてひとり空を見上げながら大きなため息をついていた。取り敢えずは難所を切り抜けた、そういった趣のある深いため息だった。
「どうされました?」
背後からそんな声が聴こえて来た。茂作は、
「いやぁ、何とかなったなぁ、と」
「何とか、とは?」
「いや、何とかバレずに済んだけど、これからどうするかーー」
そこで茂作はハッとしてうしろを振り返った。と、そこには、
寅三郎がいた。
茂作は思わず声を裏返して腰を抜かした。致命的なことばはいっていないとはいえ、あまりよろしくないことばを相手側の人間に聴かれてしまった。ここまで何とか凌いで来たというのにーーまぁ、本当に凌げていたかは怪しいがーーこれではすべてが水の泡。終わった。ここから更に雪崩式、なし崩しに自分が医者でないこともバレてしまうだろう。
「あぁ、いや、それは!」
「いいですよ、全然」
そういって寅三郎は手を差し出した。茂作はその意をはかりかねていたが、寅三郎がどうぞと譲歩すると、礼をいいながら手を取って立ち上がった。
寅三郎は朗らかに笑っていた。その真意は底無し沼、何も見えなかった。
【続く】