【明日、白夜になる前に~拾弐~】
文字数 2,769文字
網の上で焼ける肉のにおいは非常に香ばしい。
ぼくは焼ける肉と飛び散る脂、肉汁をただじっと見詰めている。いくらショックなことが続いても、美味いモノには抗えない。舌からは唾液が分泌され、ネガティブな想いも換気扇から抜け出る煙と共に天へと昇って行きそうだ。
「さ、どんどん食べなよ」小林さんがいった。
今日は金曜、時間は夕刻。ぼくは小林さんに連れられて焼肉屋に来ていた。
母の葬儀が終わって帰宅した時のことである。アルコールを一気に呷り、あわよくばそのままと思っていた矢先に、小林さんから連絡があったのだ。内容は母の死に対するお悔やみ。
ぼくはそれに丁重な返信をし、更に脳をアルコール漬けにしたまま、回る世界の中心でひとりで寝転がっていた。
そこで更にメッセージが来た。また小林さんだろうとスマホを手にし、メッセージを確認した。案の定小林さんだったのだが、そこに書かれていたのがーー
「今度の金曜日の仕事終わりに時間ある?」
だった。特にやることもなかったし、どうせまた家でひとり酒を呷るぐらいしかしないだろう。それに、いつもなら何かしらの理由をつけてでもこういった話は断る方向に持っていくのだが、こころにポッカリと穴が空いていたこの時のぼくにとっては、多少人肌恋しいさがあったのかもしれない。
「特に予定もないですけど」
そう返信すると、小林さんはすぐにーー
「焼肉でも行こうか。お金はおれが全部出すから懐具合は気にしなくていいよ」
流石にそれは申し訳ないと思ったけど、小林さんはそういい出したら、まず人の意見を聴かない。こっちが申し訳ないとか、悪いですからとかいったところでイタズラに糸口のない解決法を模索するのとなんら変わりない。
特に予定はないといってしまった手前、今さら断るワケにもいかないし、ぼくが出した結論はーー「わかりました」。
そして、今ぼくは小林さんとふたりで焼肉屋にいる。仕事終わりに焼肉というのも、スーツににおいが残って如何なモノかと思いもしたけれど、折角小林さんが気を遣って誘って下さったのに、その厚意を無下に断るのも気が引ける。ぼくはまず無用になるだろうが、銀行から卸した三万円を財布に入れて、焼肉に臨んだ。
小林さんは五十代も半ばだというのに、脂ぎった牛の肉を、味の濃いタレをドップリとつけて頬張ったかと思うと、そのまま白飯を一気にかっ込む。まるで高校球児のような食いっぷり。見た目はおじさんだけど、体内はまだ若いようだが、このペースでこれだけの量をコンスタントに食べ続ければ、糖尿病も痛風も待ってはくれないだろう。ぼくは少し心配になる。
「あの、今日の支払いは……」
ぼくは一応訊ねてみた。が、小林さんは、
「あぁ、いいのいいの。おれが出すから」
とご飯粒を口許に付け、まだ頬張ったモノを飲み込み切る前にいう。となると、今日はぼくが支払いをすることは一銭もないだろう。
「はぁ、ありがとうございます」
「いいのいいの。そんなことより、もっと食いなよ。若いんだからさ。バンバン食っちゃってよ」
今のご時世、人によってはこの「食っちゃってよ」ですらハラスメントと取られかねないのに、まったく気楽な人だ。恐らく、彼の中ではーーいい意味でーーハラスメントなどという概念はないのだろう。もちろん、極度に気を遣うタイプだし、新興宗教にハマっているという点を覗けば普通にいい上司なのだが。
「そういえば、さ」小林さんは口の中のメシを咀嚼しながらいう。「あの子とはどうなったの?」
「あの子?」
「病院の看護婦さんだよ」
納得。いや、もしかしたら「あの子」といわれた時点で気づいていたのかもしれない。それを確認するために、わざわざ知らない振りをするように訊き返したのだと思う。
「あぁ……」
ぼくは返答に困ってしまった。かといって、下手に勘繰られもしたくない。ぼくは曖昧に、
「特に、何もないですねぇ」
「え、そうなの?」
小林さんは驚きの声を上げる。かなり意外だったらしい。ぼくは曖昧にはにかんで見せ、肯定して見せるが、小林さんはーー
「そっかぁ。結構いい感じだと思ったんだけどなぁ」と残念そう。
「はぁ、まぁ、所詮は看護師と患者でしかないですから。退院したらそれまでですよ」
かつて、それがイヤだから、と連絡先を訊いた男がいたことをぼくは忘れていない。だが、その連絡先も今となってはスマホに眠る「不要なデータ」のひとつでしかーー
本当に不要なデータなのか?
不意にそんなことが頭を過る。本当に不要といい切ってしまっていいのか。
「まぁ……、人のことだから余り出過ぎたことはいえないけどさ。キミたちいい感じだったし、お似合いだったと思ったんだよな」
病院前の広場にて、ぼくと彼女はふたりきり。そこでぼくが彼女にいったのは最低なひとこと。今となってはいい感じの欠片も残っていない。あるのは傷ついた彼女のこころと、腐敗したぼくのマインドだけ。
「こんなこというのは、パワハラみたいでアレなんだけどーー」小林さんはそう前置きして、「人生は一度きりなんだ。自分がここだ、自分が欲しくて堪らない何かがあった時は恥を捨ててでも行動しなきゃ何も変わらない。恥ずかしさなんて、所詮は自分が作り出した幻想でしかないんだ。たまにはワガママに生きてみるのも悪くはないんじゃないかな」
確かに我が道を行く小林さんがいうとその通りという感じがする。だが、ぼくにはその勇気がない。手足は鎖で繋がれ、自分を打破できない。ぼくは囚われているーーぼく自身に。
それから、小林さんと焼肉屋を後にすると、ぼくは実家のほうへ帰るための電車に乗る。
母が亡くなって、実家は父ひとりだけ。何れは独り暮らしの部屋を引き払って実家に戻るつもりでいる。が、にしても遠い。電車で二時間近くも掛かるなんて。
ぼくが故郷の駅に降り立った時には辺りは既に真っ暗。真っ直ぐ実家に帰るのもよかったが、少しだけ今の気持ちを咀嚼したい。そう思い、ぼくは焼肉くささを振り撒くスーツを纏ったままコンビニでビールとツマミを買い、駅近くの公園でひとりベンチに座りながらひとりで寂しい宴会をすることにする。
人気のない通りを眺めながらビールを呷り、蜃気楼のように流れる時間に身を委ねる。
何もない空虚な時間が布団のようにぼくを受け止め、暖かく抱き止める。アルコールが全身を火照らせ、生ぬるい空気を涼しげに感じさせる。
ぼくは大きくため息をつく。
「あれ、斎藤くん?」
そう呼ばれて振り向くと、そこには赤い金属フレームの眼鏡を掛け、それなりに長い髪をうしろで束ねた、薄ピンクのマスクをした女性がひとり立っている。
「久しぶりー、まだこの街に住んでたんだ」
ぼくは呆然とその女性を眺める。誰だかわからなかったのだ。が、ぼくは唐突にーー
【続く】
ぼくは焼ける肉と飛び散る脂、肉汁をただじっと見詰めている。いくらショックなことが続いても、美味いモノには抗えない。舌からは唾液が分泌され、ネガティブな想いも換気扇から抜け出る煙と共に天へと昇って行きそうだ。
「さ、どんどん食べなよ」小林さんがいった。
今日は金曜、時間は夕刻。ぼくは小林さんに連れられて焼肉屋に来ていた。
母の葬儀が終わって帰宅した時のことである。アルコールを一気に呷り、あわよくばそのままと思っていた矢先に、小林さんから連絡があったのだ。内容は母の死に対するお悔やみ。
ぼくはそれに丁重な返信をし、更に脳をアルコール漬けにしたまま、回る世界の中心でひとりで寝転がっていた。
そこで更にメッセージが来た。また小林さんだろうとスマホを手にし、メッセージを確認した。案の定小林さんだったのだが、そこに書かれていたのがーー
「今度の金曜日の仕事終わりに時間ある?」
だった。特にやることもなかったし、どうせまた家でひとり酒を呷るぐらいしかしないだろう。それに、いつもなら何かしらの理由をつけてでもこういった話は断る方向に持っていくのだが、こころにポッカリと穴が空いていたこの時のぼくにとっては、多少人肌恋しいさがあったのかもしれない。
「特に予定もないですけど」
そう返信すると、小林さんはすぐにーー
「焼肉でも行こうか。お金はおれが全部出すから懐具合は気にしなくていいよ」
流石にそれは申し訳ないと思ったけど、小林さんはそういい出したら、まず人の意見を聴かない。こっちが申し訳ないとか、悪いですからとかいったところでイタズラに糸口のない解決法を模索するのとなんら変わりない。
特に予定はないといってしまった手前、今さら断るワケにもいかないし、ぼくが出した結論はーー「わかりました」。
そして、今ぼくは小林さんとふたりで焼肉屋にいる。仕事終わりに焼肉というのも、スーツににおいが残って如何なモノかと思いもしたけれど、折角小林さんが気を遣って誘って下さったのに、その厚意を無下に断るのも気が引ける。ぼくはまず無用になるだろうが、銀行から卸した三万円を財布に入れて、焼肉に臨んだ。
小林さんは五十代も半ばだというのに、脂ぎった牛の肉を、味の濃いタレをドップリとつけて頬張ったかと思うと、そのまま白飯を一気にかっ込む。まるで高校球児のような食いっぷり。見た目はおじさんだけど、体内はまだ若いようだが、このペースでこれだけの量をコンスタントに食べ続ければ、糖尿病も痛風も待ってはくれないだろう。ぼくは少し心配になる。
「あの、今日の支払いは……」
ぼくは一応訊ねてみた。が、小林さんは、
「あぁ、いいのいいの。おれが出すから」
とご飯粒を口許に付け、まだ頬張ったモノを飲み込み切る前にいう。となると、今日はぼくが支払いをすることは一銭もないだろう。
「はぁ、ありがとうございます」
「いいのいいの。そんなことより、もっと食いなよ。若いんだからさ。バンバン食っちゃってよ」
今のご時世、人によってはこの「食っちゃってよ」ですらハラスメントと取られかねないのに、まったく気楽な人だ。恐らく、彼の中ではーーいい意味でーーハラスメントなどという概念はないのだろう。もちろん、極度に気を遣うタイプだし、新興宗教にハマっているという点を覗けば普通にいい上司なのだが。
「そういえば、さ」小林さんは口の中のメシを咀嚼しながらいう。「あの子とはどうなったの?」
「あの子?」
「病院の看護婦さんだよ」
納得。いや、もしかしたら「あの子」といわれた時点で気づいていたのかもしれない。それを確認するために、わざわざ知らない振りをするように訊き返したのだと思う。
「あぁ……」
ぼくは返答に困ってしまった。かといって、下手に勘繰られもしたくない。ぼくは曖昧に、
「特に、何もないですねぇ」
「え、そうなの?」
小林さんは驚きの声を上げる。かなり意外だったらしい。ぼくは曖昧にはにかんで見せ、肯定して見せるが、小林さんはーー
「そっかぁ。結構いい感じだと思ったんだけどなぁ」と残念そう。
「はぁ、まぁ、所詮は看護師と患者でしかないですから。退院したらそれまでですよ」
かつて、それがイヤだから、と連絡先を訊いた男がいたことをぼくは忘れていない。だが、その連絡先も今となってはスマホに眠る「不要なデータ」のひとつでしかーー
本当に不要なデータなのか?
不意にそんなことが頭を過る。本当に不要といい切ってしまっていいのか。
「まぁ……、人のことだから余り出過ぎたことはいえないけどさ。キミたちいい感じだったし、お似合いだったと思ったんだよな」
病院前の広場にて、ぼくと彼女はふたりきり。そこでぼくが彼女にいったのは最低なひとこと。今となってはいい感じの欠片も残っていない。あるのは傷ついた彼女のこころと、腐敗したぼくのマインドだけ。
「こんなこというのは、パワハラみたいでアレなんだけどーー」小林さんはそう前置きして、「人生は一度きりなんだ。自分がここだ、自分が欲しくて堪らない何かがあった時は恥を捨ててでも行動しなきゃ何も変わらない。恥ずかしさなんて、所詮は自分が作り出した幻想でしかないんだ。たまにはワガママに生きてみるのも悪くはないんじゃないかな」
確かに我が道を行く小林さんがいうとその通りという感じがする。だが、ぼくにはその勇気がない。手足は鎖で繋がれ、自分を打破できない。ぼくは囚われているーーぼく自身に。
それから、小林さんと焼肉屋を後にすると、ぼくは実家のほうへ帰るための電車に乗る。
母が亡くなって、実家は父ひとりだけ。何れは独り暮らしの部屋を引き払って実家に戻るつもりでいる。が、にしても遠い。電車で二時間近くも掛かるなんて。
ぼくが故郷の駅に降り立った時には辺りは既に真っ暗。真っ直ぐ実家に帰るのもよかったが、少しだけ今の気持ちを咀嚼したい。そう思い、ぼくは焼肉くささを振り撒くスーツを纏ったままコンビニでビールとツマミを買い、駅近くの公園でひとりベンチに座りながらひとりで寂しい宴会をすることにする。
人気のない通りを眺めながらビールを呷り、蜃気楼のように流れる時間に身を委ねる。
何もない空虚な時間が布団のようにぼくを受け止め、暖かく抱き止める。アルコールが全身を火照らせ、生ぬるい空気を涼しげに感じさせる。
ぼくは大きくため息をつく。
「あれ、斎藤くん?」
そう呼ばれて振り向くと、そこには赤い金属フレームの眼鏡を掛け、それなりに長い髪をうしろで束ねた、薄ピンクのマスクをした女性がひとり立っている。
「久しぶりー、まだこの街に住んでたんだ」
ぼくは呆然とその女性を眺める。誰だかわからなかったのだ。が、ぼくは唐突にーー
【続く】