【いろは歌地獄旅~ニンゲン・ノート~】
文字数 2,455文字
死んだ後どうなるか、なんて生きている内は誰も想像できないだろう。
それは何故かーー理由は簡単、誰も死んだことがないからである。これは極当たり前の話ではあるが、盲点でもある。
みな、死を恐れる。そのネガティブなイメージを増大させ、死ぬことを可能な限り避けようとする。だが、その実態を知っている者はいないーーいないのだ。
もしかしたら、死の瞬間は有り得ないほどに気持ちいいのかもしれない。または何も感じないかもしれない。あるいは大方の人間が予想するように地獄のような苦しみが待っているかもしれない。いずれにせよ、死の実態を知りうるのは、死んだ人間だけなのだ。
さて、ここにもまたひとりの死人が現れる。
世界では毎日何千という人間が死者のひとりとして、統計学の数字のひとつとなる。そして今、そんな数字のひとつとなった男がここにいる。
男の名前はーーいや、名前などもはや意味をなさないだろう。人は死んだ時点で現世での名前を失う。その代わりに戒名だったり、死の世界からやって来た使者に番号を与えられるようになる。この男もそうだった。
男はただその場所に佇んでいた。場所は高速道路のサービスエリア。特に何があるワケでもない。騒ぎが起きている感じもない。
ワケもわからずにおろおろしている男の姿は、自分が何故死んだのかを理解していないことを物語っている。
そこに黒い影が現れる。真っ黒な霧というか、靄のような人形の塊が揺らめきながら男のほうへ近づいて来る。黒い靄に対し、男は身構える。が、黒い靄は男の前で立ち止まり、
「21-jp3694番ですね」
低音の利いた声。だが、その低すぎない声のトーンはあたかも女声のよう。
男はうしろを向く。だが、そこには誰もいない。恐る恐る自分を指差すと、
「あの、自分のことですか?」
「そうですーー」
黒い靄は死んだ人間は現世での名前を剥奪されること、自分が今いった番号は『21年の日本国3694番目の死者』の意味をなしていること、まだ戒名がつけられていないことを説明する。
男の顔に引き吊った笑みが浮かぶ。
「じゃあ何か? アンタは死神で、おれは死んだからあの世に行かなきゃいけないってことなのか?ーー冗談じゃない! おれには、妻とまだ幼い男の子がひとりいるんだ!」
必死に訴える男ーーだが、靄は動じず、
「現世での呼び名としてはそうなるかもしれません。ですが、あなたはまだあの世へは行けない。何故なら渡航猶予が残っていますから」
「渡航猶予?」渡航猶予ーーいうなれば、現世からあの世へ行くための準備期間だと死神は説明する。「何だよそれ?」
「人間が一日に死ぬ平均は、あなたが思っているよりもずっと多い。それに人間は生きているだけでいくつものポジティブな因果とネガティブな因果を抱え込む。その中でただひとつだけ、あなたは何とかすることができる。それをするための時間ーーそれが渡航猶予なのです」
何とも拙い言語で、jp3694も困惑したのだろう。顔を歪ませる。
「なら、おれにもまだチャンスはあるんだな?」靄は返事をしない。「でも、おれはどうして死んだんだ? それにここはーー?」
「あなたが死んだ理由を話したところで、あなたの未練が強くなるだけ。それでもいいなら話はするけれど、あなたがそれを聞いているだけの時間中も渡航猶予の時間はすり減らされている。さぁ、どうします?」
jp3694は口を閉ざして震える。その表情には無念さが滲み出している。がーー、
「聴かせてくれ」
黒い靄は少し間を置いてからーー
「この先で大規模な玉突き事故が起きた。死者は数人。重軽傷は多数。他の死者はここ以外のどこかであなたと同様に渡航猶予を過ごしているということです」
靄の説明にjp3694の顔は絶望の色。がーー、
「猶予の時間はあとどれくらい残ってる?」
「猶予はその人の年齢と積んだ徳の多さで変わって来ます。その猶予は若ければ若いほどに長くなる。あなたは28歳。大体三日ってところでしょうか」
靄が説明すると、jp3694は身体を震わせる。
「三日、時間があるんだな?」
「えぇ」
「三日が過ぎたらどうなる」
「わたしが迎えに行きます。それに伴い、共にあの世へ行って閻魔様の裁定を受けます」
「……わかった」jp3694は意を決したように、「おれにはまだやり残したことがあるんでな」
そういい残してjp3694は走り出す。サービスエリアを抜け出して長い長いハイウェイを逆走する。死んでも、人の足の早さは変わらない。黒い靄はそんな男の背中をじっと眺めている。
あの男は、きっと自分の未練を晴らすだろう。
黒い靄はそう考えていた。これまでの経験の中で、未練を果たす者と果たさない者を何人も見てきたが、あの男は前者。リスタートした場所が悪く、そこだけはマイナス要素となりうるかもしれないが、だとしても彼ならやり遂げられるーー黒い靄はそう感じていた。
黒い靄は懐から小さなノートを一冊取り出す。そのノートの表紙には『ニンゲン・ノート』と書かれている。
靄はノートを開くと、そこにはびっしりと書かれた文字、文字ーー文字。
内容は靄が請け負った死者の記録だ。未練を果たした者と果たさなかった者、自分に対して暴言を吐き、暴力を奮おうとした者、ことば遣いが丁寧で腰が低かった者、絶望してその場から一歩も動けなかった者ーーノートには様々な人間模様が記載されている。
黒い靄はパッとノートを閉じる。そして、男が走り去ったほうをずっと見続ける。
風が吹いている。
三日後、靄が男を迎えに行くと、彼は靄の目論見通りちゃんと未練を果たしていた。
「ひとりになるのが怖かったんだ……」
その直後、大人の女性ひとりと男児一名の渡航猶予がいい渡されたと、黒い靄は聞いた。
黒い靄はjp3694の手に見えない血がベットリと付いているのを見た気がした。
死と孤独は人を狂わせるーー黒い靄のノートの一ページに、そう記載された。
人間の業はどこまでも深いーー
それは何故かーー理由は簡単、誰も死んだことがないからである。これは極当たり前の話ではあるが、盲点でもある。
みな、死を恐れる。そのネガティブなイメージを増大させ、死ぬことを可能な限り避けようとする。だが、その実態を知っている者はいないーーいないのだ。
もしかしたら、死の瞬間は有り得ないほどに気持ちいいのかもしれない。または何も感じないかもしれない。あるいは大方の人間が予想するように地獄のような苦しみが待っているかもしれない。いずれにせよ、死の実態を知りうるのは、死んだ人間だけなのだ。
さて、ここにもまたひとりの死人が現れる。
世界では毎日何千という人間が死者のひとりとして、統計学の数字のひとつとなる。そして今、そんな数字のひとつとなった男がここにいる。
男の名前はーーいや、名前などもはや意味をなさないだろう。人は死んだ時点で現世での名前を失う。その代わりに戒名だったり、死の世界からやって来た使者に番号を与えられるようになる。この男もそうだった。
男はただその場所に佇んでいた。場所は高速道路のサービスエリア。特に何があるワケでもない。騒ぎが起きている感じもない。
ワケもわからずにおろおろしている男の姿は、自分が何故死んだのかを理解していないことを物語っている。
そこに黒い影が現れる。真っ黒な霧というか、靄のような人形の塊が揺らめきながら男のほうへ近づいて来る。黒い靄に対し、男は身構える。が、黒い靄は男の前で立ち止まり、
「21-jp3694番ですね」
低音の利いた声。だが、その低すぎない声のトーンはあたかも女声のよう。
男はうしろを向く。だが、そこには誰もいない。恐る恐る自分を指差すと、
「あの、自分のことですか?」
「そうですーー」
黒い靄は死んだ人間は現世での名前を剥奪されること、自分が今いった番号は『21年の日本国3694番目の死者』の意味をなしていること、まだ戒名がつけられていないことを説明する。
男の顔に引き吊った笑みが浮かぶ。
「じゃあ何か? アンタは死神で、おれは死んだからあの世に行かなきゃいけないってことなのか?ーー冗談じゃない! おれには、妻とまだ幼い男の子がひとりいるんだ!」
必死に訴える男ーーだが、靄は動じず、
「現世での呼び名としてはそうなるかもしれません。ですが、あなたはまだあの世へは行けない。何故なら渡航猶予が残っていますから」
「渡航猶予?」渡航猶予ーーいうなれば、現世からあの世へ行くための準備期間だと死神は説明する。「何だよそれ?」
「人間が一日に死ぬ平均は、あなたが思っているよりもずっと多い。それに人間は生きているだけでいくつものポジティブな因果とネガティブな因果を抱え込む。その中でただひとつだけ、あなたは何とかすることができる。それをするための時間ーーそれが渡航猶予なのです」
何とも拙い言語で、jp3694も困惑したのだろう。顔を歪ませる。
「なら、おれにもまだチャンスはあるんだな?」靄は返事をしない。「でも、おれはどうして死んだんだ? それにここはーー?」
「あなたが死んだ理由を話したところで、あなたの未練が強くなるだけ。それでもいいなら話はするけれど、あなたがそれを聞いているだけの時間中も渡航猶予の時間はすり減らされている。さぁ、どうします?」
jp3694は口を閉ざして震える。その表情には無念さが滲み出している。がーー、
「聴かせてくれ」
黒い靄は少し間を置いてからーー
「この先で大規模な玉突き事故が起きた。死者は数人。重軽傷は多数。他の死者はここ以外のどこかであなたと同様に渡航猶予を過ごしているということです」
靄の説明にjp3694の顔は絶望の色。がーー、
「猶予の時間はあとどれくらい残ってる?」
「猶予はその人の年齢と積んだ徳の多さで変わって来ます。その猶予は若ければ若いほどに長くなる。あなたは28歳。大体三日ってところでしょうか」
靄が説明すると、jp3694は身体を震わせる。
「三日、時間があるんだな?」
「えぇ」
「三日が過ぎたらどうなる」
「わたしが迎えに行きます。それに伴い、共にあの世へ行って閻魔様の裁定を受けます」
「……わかった」jp3694は意を決したように、「おれにはまだやり残したことがあるんでな」
そういい残してjp3694は走り出す。サービスエリアを抜け出して長い長いハイウェイを逆走する。死んでも、人の足の早さは変わらない。黒い靄はそんな男の背中をじっと眺めている。
あの男は、きっと自分の未練を晴らすだろう。
黒い靄はそう考えていた。これまでの経験の中で、未練を果たす者と果たさない者を何人も見てきたが、あの男は前者。リスタートした場所が悪く、そこだけはマイナス要素となりうるかもしれないが、だとしても彼ならやり遂げられるーー黒い靄はそう感じていた。
黒い靄は懐から小さなノートを一冊取り出す。そのノートの表紙には『ニンゲン・ノート』と書かれている。
靄はノートを開くと、そこにはびっしりと書かれた文字、文字ーー文字。
内容は靄が請け負った死者の記録だ。未練を果たした者と果たさなかった者、自分に対して暴言を吐き、暴力を奮おうとした者、ことば遣いが丁寧で腰が低かった者、絶望してその場から一歩も動けなかった者ーーノートには様々な人間模様が記載されている。
黒い靄はパッとノートを閉じる。そして、男が走り去ったほうをずっと見続ける。
風が吹いている。
三日後、靄が男を迎えに行くと、彼は靄の目論見通りちゃんと未練を果たしていた。
「ひとりになるのが怖かったんだ……」
その直後、大人の女性ひとりと男児一名の渡航猶予がいい渡されたと、黒い靄は聞いた。
黒い靄はjp3694の手に見えない血がベットリと付いているのを見た気がした。
死と孤独は人を狂わせるーー黒い靄のノートの一ページに、そう記載された。
人間の業はどこまでも深いーー