【いろは歌地獄旅~零時過ぎの話~】
文字数 2,725文字
聖なる夜には奇跡が起こるーーそんな与太話にはウンザリだった。
クリスマスは楽しいイベントが盛り沢山だとか、恋人たちの夜だとか、そんな話も今となっては下らないとしか思えなくなっていた。
別に楽しいクリスマスを過ごしたことがないワケではなく、マジな話をすれば、おれは随分と楽しい人生を送ったと思う。
クリスマスも人並みにデートしたし、子供の頃はそれなりに裕福に、それなりに豪勢なクリスマスを過ごし、サンタクロースからは欲しいものを貰ったりしていた。
こんなおれが幸せになれないはずがなかった。
だが、現実は非情としかいえなかった。
おれは今、足を引き摺りながら腹を押さえて暗いストリートをさ迷っている。
不覚、というか、予想だにしない出来事だった。会社からの帰り道、おれは前から来るグレーのパーカーの男に腹を刺されたのだ。
最初はワケがわからなかった。刃物ーー或いはそれに準ずるモノーーが自分の肉体を突き破って体内に入る感触は、何とも説明がつかないモノだった。確か瞬間的に激痛が走り、それから全身が強張って声もろくに出ず、かと思いきや、刃物が肉体から消えると、痛みは一瞬にして引いていき、残ったのはジワジワした痛みと闇夜で流れた黒い血だけだった。
パーカーの男はいつの間にかいなくなっていた。警察、救急車、電話するべきだと思った。だが、気づけばスマホはなくなっていた。多分、色々やっている最中に落としたのだと思う。ほんと不覚だった。
オマケに財布もなくなっているし、空になった箱もーーハッ、涙も出ない。
今日、クリスマス・イブからクリスマスへと日付が変わるその瞬間に、彼女である早希に婚約指輪を渡そうとしたのに、このザマ。
ちょっと天狗になりすぎていたのだろうか。何もかもが順風満帆、といった感じで足許を掬われたのだろうか。そんなおれも、今じゃ腹に風穴が空き、少しずつ歪み行く現実と霞み行く視界の中を歩き回っている。
蹴躓いた。全身が紙のようにゆっくりと地面に崩れ落ちて行く。地面に叩きつけられても、痛みはそこまでなかった。痛みに鈍感になっている。呼吸がしづらい。息苦しい感じがする。
ダメだなーー不意にそう思った。
おれはゆっくりと目を閉じた。最期の時は闇の中で迎えよう。そうすれば、もう怖いモノを見なくても済む。だからーー
鈴の音が聴こえた気がした。
おれは思わず目を開けた。身体は動かせないが、首と目ぐらいならば大丈夫だった。
天を、可能な限り天を仰いだ。
トナカイの牽くソリに乗った赤い服に白い髪と髭の老人が空宙を曳航していた。
トナカイの牽引するソリはおれの目の前に降り立ち、赤い服の老人はゆっくりとおれの目の前に立ちはだかった。
おれは霞む声で笑って見せた。声は殆ど出なくなっていた。恐れもなくなっていた。
「随分と……、豪勢な、死神……だな……」
殆ど聞き取れないであろう小さな声でいった。もはや遠くで走る車のエンジン音にすら掻き消されるであろう声だった。だが、
「いや、サンタクロースだよ」
赤い服の老人はいった。おれは純粋な笑みを浮かべていい返す。
「はは……、遅ぇよ……」
もっと早く来てくれれば、もっとマシなプレゼントを持ってきてくれればーー。まさか冥界へのチケットがクリスマス・プレゼント、だなんて、流石に思いもしなかった。
「……すまない」
赤い服の老人は本心から謝っているようだった。こちらとしても、なんだか申し訳なくなってしまい、
「いや……、謝らなくて、いいよ……」
赤い服の老人は少しの間を取っていった、
「……ここが、何処だかわかるか?」
おれは答える。住所はわからなかったので、大方の場所が特定出来る情報をいって。
「動けるか?」
赤い服の老人の愚問に、おれは笑ってやる。
「無理に、決まってるだろ……?」
「……それもそうだな」
赤い服の老人はうつむき加減になって黙り込んだ。おれは老人に訊ねた。
「時間、は……?」おれは重ねて問う。「今、何時……だ?」
赤い服の老人はいいにくそうに、
「12月25日の、零時過ぎ、だ」
おれは口を結び、筋肉を解放するように笑ってやった。
「そうか……、間に合わなかった、な……」
全身から力が抜けていく。老人は申し訳なさそうにーー
「こんなことを聴くのは気が引けるのだが、満足の行く人生だったか?」
おれは答えなかった。肉体的にも勿論そうだったが、心情的に答えられるような気分ではなかった。おれは無意識の内に笑顔を引っ込めていた。赤い服の老人はいうーー
「……そう、だろうな。残念ながら、アンタはもう助からん。だが、ひとつだけ、ひとつだけ欲しいモノがあれば、アンタにやろう」
そんなこといわれたって、もう遅いよ。そうは思ったが、殆どダメ元でいってみたーー
「早希に……、会わせて、欲しい……」
赤い服の老人は口許を真一文字に結んだ。
「それは……、難しい。人の行動パターンをコントロールする能力は、わたしにはない」
予想通りの回答だった。それもそうだ。自分の意思でコントロール出来る無機物ならまだしも、何の事情も知らない、コントロールしようのない人のこころを変えてまで、早希をここまで連れてくることなど出来やしないのだ。
「はは……、そう、だよな……」
「だが、ひとつだけ、何とかなることならある」そういわれて訊ねると、「これだ……」
おれの両手に何かが乗った感触があった。おれはゆっくりと自分の両手を見た。左手にはスマホが乗っていた。そして、右手にはーー
無くしたはずの婚約指輪。
今さらこんなモノがあっても、どうにもならないだろう。おれは皮肉めいた笑みを浮かべ、
「こんなモン、今更ーー」
「……!」
ハッとした。おれの名前を呼ぶ声がしたのだ。おれは声のしたほうを見た。そこにはーー
早希がいた。
暖かそうなミルク色のコートに、左手にはフワフワした手袋、そして右手は素手でスマホを握り、耳に当てている。
早希はいつもの可愛らしい顔に驚きの表情を浮かべ、おれの元へと駆け寄って来る。何かを喚いているようだったが、そんなことはどうでもよかった。もはや、早希の声もまともに聴こえもしなかったのだから。おれは彼女のことばを無視して、右手を開き、指輪を掲げた。
力ないことばで、おれは彼女に思いを告げた。
彼女は目に涙を貯めて頷いていた。いや、首を横に振っていたのかもしれない。まぁ、もはやおれには関係のないことだろう。
ただ、最後に思いを告げられて良かった。
あぁ、視界が暗くなって来る。
にしてもあの赤い服の老人、ウソつきもいいところだ。ひとつどころか、三つも欲しいモノをくれる、だなんて。
おれは幸せだったと思うーー
クリスマスは楽しいイベントが盛り沢山だとか、恋人たちの夜だとか、そんな話も今となっては下らないとしか思えなくなっていた。
別に楽しいクリスマスを過ごしたことがないワケではなく、マジな話をすれば、おれは随分と楽しい人生を送ったと思う。
クリスマスも人並みにデートしたし、子供の頃はそれなりに裕福に、それなりに豪勢なクリスマスを過ごし、サンタクロースからは欲しいものを貰ったりしていた。
こんなおれが幸せになれないはずがなかった。
だが、現実は非情としかいえなかった。
おれは今、足を引き摺りながら腹を押さえて暗いストリートをさ迷っている。
不覚、というか、予想だにしない出来事だった。会社からの帰り道、おれは前から来るグレーのパーカーの男に腹を刺されたのだ。
最初はワケがわからなかった。刃物ーー或いはそれに準ずるモノーーが自分の肉体を突き破って体内に入る感触は、何とも説明がつかないモノだった。確か瞬間的に激痛が走り、それから全身が強張って声もろくに出ず、かと思いきや、刃物が肉体から消えると、痛みは一瞬にして引いていき、残ったのはジワジワした痛みと闇夜で流れた黒い血だけだった。
パーカーの男はいつの間にかいなくなっていた。警察、救急車、電話するべきだと思った。だが、気づけばスマホはなくなっていた。多分、色々やっている最中に落としたのだと思う。ほんと不覚だった。
オマケに財布もなくなっているし、空になった箱もーーハッ、涙も出ない。
今日、クリスマス・イブからクリスマスへと日付が変わるその瞬間に、彼女である早希に婚約指輪を渡そうとしたのに、このザマ。
ちょっと天狗になりすぎていたのだろうか。何もかもが順風満帆、といった感じで足許を掬われたのだろうか。そんなおれも、今じゃ腹に風穴が空き、少しずつ歪み行く現実と霞み行く視界の中を歩き回っている。
蹴躓いた。全身が紙のようにゆっくりと地面に崩れ落ちて行く。地面に叩きつけられても、痛みはそこまでなかった。痛みに鈍感になっている。呼吸がしづらい。息苦しい感じがする。
ダメだなーー不意にそう思った。
おれはゆっくりと目を閉じた。最期の時は闇の中で迎えよう。そうすれば、もう怖いモノを見なくても済む。だからーー
鈴の音が聴こえた気がした。
おれは思わず目を開けた。身体は動かせないが、首と目ぐらいならば大丈夫だった。
天を、可能な限り天を仰いだ。
トナカイの牽くソリに乗った赤い服に白い髪と髭の老人が空宙を曳航していた。
トナカイの牽引するソリはおれの目の前に降り立ち、赤い服の老人はゆっくりとおれの目の前に立ちはだかった。
おれは霞む声で笑って見せた。声は殆ど出なくなっていた。恐れもなくなっていた。
「随分と……、豪勢な、死神……だな……」
殆ど聞き取れないであろう小さな声でいった。もはや遠くで走る車のエンジン音にすら掻き消されるであろう声だった。だが、
「いや、サンタクロースだよ」
赤い服の老人はいった。おれは純粋な笑みを浮かべていい返す。
「はは……、遅ぇよ……」
もっと早く来てくれれば、もっとマシなプレゼントを持ってきてくれればーー。まさか冥界へのチケットがクリスマス・プレゼント、だなんて、流石に思いもしなかった。
「……すまない」
赤い服の老人は本心から謝っているようだった。こちらとしても、なんだか申し訳なくなってしまい、
「いや……、謝らなくて、いいよ……」
赤い服の老人は少しの間を取っていった、
「……ここが、何処だかわかるか?」
おれは答える。住所はわからなかったので、大方の場所が特定出来る情報をいって。
「動けるか?」
赤い服の老人の愚問に、おれは笑ってやる。
「無理に、決まってるだろ……?」
「……それもそうだな」
赤い服の老人はうつむき加減になって黙り込んだ。おれは老人に訊ねた。
「時間、は……?」おれは重ねて問う。「今、何時……だ?」
赤い服の老人はいいにくそうに、
「12月25日の、零時過ぎ、だ」
おれは口を結び、筋肉を解放するように笑ってやった。
「そうか……、間に合わなかった、な……」
全身から力が抜けていく。老人は申し訳なさそうにーー
「こんなことを聴くのは気が引けるのだが、満足の行く人生だったか?」
おれは答えなかった。肉体的にも勿論そうだったが、心情的に答えられるような気分ではなかった。おれは無意識の内に笑顔を引っ込めていた。赤い服の老人はいうーー
「……そう、だろうな。残念ながら、アンタはもう助からん。だが、ひとつだけ、ひとつだけ欲しいモノがあれば、アンタにやろう」
そんなこといわれたって、もう遅いよ。そうは思ったが、殆どダメ元でいってみたーー
「早希に……、会わせて、欲しい……」
赤い服の老人は口許を真一文字に結んだ。
「それは……、難しい。人の行動パターンをコントロールする能力は、わたしにはない」
予想通りの回答だった。それもそうだ。自分の意思でコントロール出来る無機物ならまだしも、何の事情も知らない、コントロールしようのない人のこころを変えてまで、早希をここまで連れてくることなど出来やしないのだ。
「はは……、そう、だよな……」
「だが、ひとつだけ、何とかなることならある」そういわれて訊ねると、「これだ……」
おれの両手に何かが乗った感触があった。おれはゆっくりと自分の両手を見た。左手にはスマホが乗っていた。そして、右手にはーー
無くしたはずの婚約指輪。
今さらこんなモノがあっても、どうにもならないだろう。おれは皮肉めいた笑みを浮かべ、
「こんなモン、今更ーー」
「……!」
ハッとした。おれの名前を呼ぶ声がしたのだ。おれは声のしたほうを見た。そこにはーー
早希がいた。
暖かそうなミルク色のコートに、左手にはフワフワした手袋、そして右手は素手でスマホを握り、耳に当てている。
早希はいつもの可愛らしい顔に驚きの表情を浮かべ、おれの元へと駆け寄って来る。何かを喚いているようだったが、そんなことはどうでもよかった。もはや、早希の声もまともに聴こえもしなかったのだから。おれは彼女のことばを無視して、右手を開き、指輪を掲げた。
力ないことばで、おれは彼女に思いを告げた。
彼女は目に涙を貯めて頷いていた。いや、首を横に振っていたのかもしれない。まぁ、もはやおれには関係のないことだろう。
ただ、最後に思いを告げられて良かった。
あぁ、視界が暗くなって来る。
にしてもあの赤い服の老人、ウソつきもいいところだ。ひとつどころか、三つも欲しいモノをくれる、だなんて。
おれは幸せだったと思うーー